夜咲き峰の妖魔たち(1)
頭の中で繰り返されるのは、幼い頃から何度も何度も読んだ『ジグルス・ロニーの手記』だった。
少女、ルカ・コロンピア・ミナカミは、金の瞳に強い光を帯びて、目の前の人物を見据えた。
両手を胸の前にかざし、傅く。祈るようにして握りしめるのは、幼い頃から身につけてきたペンダントだ。
「お初にお目にかかります。私、レイジス王国緋猿将軍カショウ・ミナカミが長女ルカ・コロンピア・ミナカミ。夜咲き峰筆頭妖魔が風の主の要望を受け、お伺い致しました」
上げた瞳は逸らさない。笑みすら浮かべて、前を見る。
「ふむ、ルカか。私は風。そなたのように風の主と呼ぶ者もおる」
風の主、そう名乗った男は顔を半分ほど隠していた長い髪をかき上げる。
その表情。それらはルカが想像していたよりもずいぶんと若く、涼しげな印象だった。
「まずはよくぞ参ったと言おう。我が婚約者どの」
この言葉に、肩が震えた。
夜咲き峰の妖魔と婚約せよ。それがルカに与えられた王命だった。しかし、相手の妖魔が筆頭妖魔その人だなんて、想像だにできなかったわけで。
奇跡的な出来事に、ルカはどこに感謝を捧げて良いのか分からなくなった。
望むところだ、とすら思う。同じ婚約するなら、妖魔を統べる彼がいい。きっと永い時を生きながらえたのだろう。彼が見てきた妖魔たち、そして世界を知りたい。
そして、この地で、自分が出来ることをする。王都で定めた目標を実現するには、彼が婚約者である事は好都合だ。
緊張を遙かに上回る喜び。彼の涼しげな声を聞くだけで、心の底から幸福感のようなものがわき出てきて、ルカはぐっと、胸のペンダントに力を込める。
頬が紅潮するのがよく分かる。
ルカは、きっと、この出会いを待っていたのだ。
「はい。ルカ・コロンピア・ミナカミ。王命により、貴方様のお力添えに参りました!」
***
ルカが夜咲き峰に連れ去られたのは、昇月と呼ばれる新年の始まりの日。風の主との初めての謁見を終えて、ルカは浮き立つ気持ちを落ち着けられずにいた。
――昨夜はどうなることかと思ったけど、鼻歌でも歌いたい気分。
幼い頃から文献に、小説にと、妄想を膨らませ続けた妖魔たち。夜咲き峰とジグルス・ロニーの関係。死神ブラッディ・ローズに、終焉の魔女エイネルシア。いたずら者のティキ・ティルティアに魔木ドゥード。嘘も真実も混じり合った膨大な過去の資料から彼らの記述を探すのは、砂に埋もれた砂金の粒を探すくらい難しい。それほど、圧倒的に彼らの正確な情報は少なかった。
歴史や地理など、ルカが幼い頃からありとあらゆる史料を読みあさってきたのは、大好きな妖魔の記述を見つけるために他ならない。数少ない資料はすべて丸暗記するほど読み込み、“妖魔”を示す隠語についても理解していくうちに、史実に対する新たな見解をも打ち立てる。その甲斐あって、なぜか14歳にして歴史学・妖魔研究の第一人者とも言われるようになってしまったわけだが。
――風の主。素敵だった……。
一瞬で心がときめいていた。妖魔という存在自体に恋し、妖魔の現れる小説にも恋し、妄想の中の勝手な妖魔像ですら簡単に愛でられる。それだけでも彼女の人生は十分彩り豊かだったというのに、今のこの状況はなんだろう。
婚約者。しかも筆頭妖魔の。なんだかもう、罰が当たってもかまわない。余命10秒と言われようが本望だ。
ルカは風の主の姿を脳裏に描く。涼しげな瞳に艶やかな縹の髪。溢れんばかりの妖艶な魅力。
彼の蕩けるような笑顔は残念ながら見ることは叶わなかったが、勝手に笑顔を思い描き、ルカ自身、どろどろに溶けそうになった。
「こら、何ニヤニヤしてやがる」
「わわっ!」
突然頭をつかまれて、ルカは声を上げる。振り返ると、眉間に皺を寄せたレオンが目に入った。
「ただでさえ、妖魔のテリトリーなんだ。ぼけっとするな、殺されたいのか」
「風の主はそんなことしないわよ」
「何を根拠に、そこまでのんきに構えられるんだ……」
はあ、と、ため息をつく彼の表情は重い。
レオン・アドルフ。
華やかな金の髪はきっちりとまとめられており、透き通るかのような青い瞳が美しい。整った表情は19歳という彼の年齢よりもずいぶんと大人の色気のようなものを持ち合わせている。
王子様とも間違えられかねないほど、恵まれたビジュアル。幼い頃よりルカに仕える麗しい従者は、主人に対して非常に口が悪かった。
「気を緩めるな。守るにも限度があるだろう」
「ふぁい」
「おら、言葉遣い」
「わかっていますわ、レオン」
もちろん、主人を心配しての物言いだと知っているので、ルカは気にもとめていない。
そっくりそのまま返してやろうか、とばかりのお小言も、比較的素直に従うようにしていた。まあ、言い返したところで、相手が屁理屈言い始めるのが面倒だからなのだが。
「ふふ、お二人は、仲がよろしいのですね」
すると、前方から声が聞こえる。視線を向けると、先を進んでいた少女が、歩みを止めていた。
「長いつきあいだからね」
「腐れ縁と言うんだ、こういうのを」
「まあ!」
くすくすと、笑う声は鈴のように可愛い。
風の主が、ルカのためにつけてくれた侍女。名を菫という。
比較的妖力が低いらしく、下級妖魔にあたる彼女は、風の主に命じられるままにルカに付くわけになったのだが、ずいぶんと親しみやすい性格をしていそうだ。
名前と同じ菫色の髪は、ポニーテールにし、ふわふわと緩やかなウェーブを描く。落ちついた色ながらも可愛らしい印象だ。
小柄な体つきだが、女であるルカすらもうっかり視線を奪われてしまうほど、豊かな胸が羨ましい。そして、オレンジの大きな瞳はくるくるとよく動き、輝く。なんとなく人好きのする笑顔というのだろうか、菫の持つ朗らかな雰囲気は、あっという間にルカを惹きつけていた。
「菫とも長いつきあいになりそうだからね。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願い申し上げますわ。風の主の奥方になる方のお世話を出来るだなんて――私、光栄です」
こくりと頷き、再び菫は歩みを進める。
ルカは、来た時の緊張が嘘のように、ようやく城の内部を見回す余裕が出てきた。
夜咲き峰の頂上にそびえるこの城は、峰の地形をそのまま利用しているらしい。掘り返したところにベースとなる石を敷き詰めているのだろう。自然の形そのものの有機的な壁や柱が、美しくも不規則に並んでいる。
特にルカが気になったのは、光の差さない城内での照明だ。壁や柱のあちこちがほの碧く輝きを帯びている。さらに所々に散らばった水晶が輝き、神秘的な空間を生み出していた。
「ご紹介しますね。こちらの中央の塔――満月の峰は、風の主が治めるテリトリーです。この満月の峰には風の主以外の妖魔は住んではおりません。輿入れなさるまで、ルカ様のお部屋はここから東、下弦の峰となりますわ」
「下弦の峰?」
「ええ、下弦の峰は上級妖魔の赤薔薇様を筆頭としたテリトリーですわ。この夜咲き峰は、全てで4つの峰がありますの。中央の満月、北の新月、東の下弦、西の上弦……」
「なるほど。じゃあ、南は?」
「南に塔はありません。ただ、峰の麓まで降りたところに宵闇の村――下級妖魔たちの住む村がありますの」
ほう、と、声を上げる。城にあたる峰自体にも興味津々だが、妖魔の村というのもこれまたルカの心をくすぐる。菫が下級妖魔ということから、同じく親しみやすい妖魔もいるかもしれない。
「お時間あるときにご案内致しますよ」
「楽しみにしてる!」
期待に笑みがこぼれる。
基本的に夜咲き峰とは、峰の頂上にある城のことだけだと思っていたのだが、村があるとはどの文献にものっていなかった。当然、ルカが訪れるのが、人類初となるのだ。
――書かなきゃ。書かなきゃ! 記録しなきゃ!
興奮がますます大きくなり、にやにや顔が隠しきれなくなる。横からレオンのため息が聞こえてきた気がしたが、とりあえず無視だ。
塔から塔へと移る長い回廊を歩む。回廊からは外の景色がよく見え、どこまでも森林が広がっていくのが見えた。想像していた以上に、夜咲き峰を含む妖魔の結界エリアは広そうだ。
「ここからが、下弦の峰になります」
長い回廊を抜けたところに、大きな扉のようなものがある。しかしその扉は、開閉する様子がないただの壁のようだった。
向こうが見えない、赤く灯る光の壁。菫は戸惑う様子もなく、ただその壁に向かって歩き、くぐり抜ける。それに続き、ルカも前に進む。少し手をかざして壁の感触を確かめようとしたが、するりと突き抜けてしまった。
――下弦の峰の作り自体は、満月の峰と大差ないらしい。
有機的な形の壁に、水晶が輝く。異なっていることと言えば、周囲の輝きが淡い赤であることくらいだった。
「これが、下弦の峰?」
「ええ。ルカ様のお部屋はこの峰の3階になりますわ。塔の中は追々案内致しますけれど、まずはお部屋へ参りましょう」
「ええ」
赤い灯りの妖しい雰囲気に胸が高鳴る。これこそ、妖魔の城といった印象だ。
もちろん、その色のせいで満月の峰より若干おどろおどろしい印象になってしまうことは気がかりではある。このような空間の部屋で、自分は心安らかに過ごせるだろうか。ちらりと考えてみたけれど、すぐさま、自分の適応力を信じるしかないか、と結論を出す。
その時だった。
レオンの手がルカを引き、強く抱きしめる。
――ガキイィィィン!!!
空気に強い振動が走り、レオンに引きずられるようにして後ろを振り返るのと、音が聞こえるのは同時。
何事かわからずに、体が震える。余ったもう一方の手でとっさに頭を庇ったが、物理的な衝撃はない。ただ、おそるおそる目を開けると、目の前の光景に言葉を失うこととなった。
「赤薔薇、いきなりそんなものを振り回すなんて、物騒だよ?」
「侵入者。殺す。それが役目」
見知らぬ二人の人物が突然現れたかと思うと、殺意をむき出しにして相見えている。どうやら、着いて早々、何らかの事件に巻き込まれたらしい。
しかしそんなことよりも、その二人の妖魔の姿に目を奪われ、ルカはほうと息を吐き出した。