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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第一章 風の主の婚約者
29/121

菫の報告

「風様、違います。何でもかんでもスプーンで召し上がるのはよして下さいませ」

「……其方はいちいち」


 五月蠅い。と、最後の決定的な言葉を省略する代わりに、風の主はため息をひとつ落とす。

 風の主の私室にて、二人で向かい合い朝食を摂るのも、すっかりと恒例になってきた。あのパーティの後、食に興味を持った風の主のために毎朝ルカは足を運んできている。

 最初の方はレオンたちもルカの部屋で準備をし、朝食を持ち込む形をとっていたが、最近は様子が異なっている。風の主の私室の一部を解放してもらい、しっかりとキッチンへと変貌を遂げさせていた。この部屋の厨房にレオンが立つのも、すっかり違和感が無くなっている。



 火の月の朝は早い。空が白み始めたと同時にレオンが準備をはじめ、やがてルカも風の主の元を訪れる。彼女の訪れとともに、風の主も目を覚まし、朝の時間を共に過ごす。いつも無表情の彼だが、朝の時間はなおさらぼやんとしているらしく、思考が鈍っている彼の姿が見られるのもちょっとした楽しみだった。


「それで、目処は立ったのか?」

「はい。おおよそですが。集落の外れ、花の一族から声をかけようと思っているのです。菫もいますし」

「妥当だな」



 本日の朝食の議題は、宵闇の村についてだった。下弦の峰での関係がある程度出来上がってきた今、そろそろ下級妖魔にも接触を始めたいと思っていた。


 宵闇の村に向かう前に、ルカはまず村の情報を学ぶことから始めていた。菫を教師にして、質疑応答していく。

 村は幾つかの部族に分かれていること。菫は花の一族で、彼らは村の中では少数派であり、穏やかな妖魔たちであること。逆に一番の勢力を誇る森の一族は、血気盛んな男性の妖魔が多いということ。宵闇の村の長であり、森の一族の筆頭でもある妖魔“狼”は、もともと夜咲き峰の上級妖魔であったことなど、大まかな情報はすでに頭の中に入っている。


「今日、菫を使いに出そうかと」

「ふむ。少し気になることもあるが、まずは矢車(やぐるま)に声をかけると良い」

「はい」


 矢車というのは矢車菊の妖魔のことだろう。菫の一族の筆頭であり、村の中でも比較的長寿で、落ちついた男性だと聞き及んでいる。この妖魔と接触できたら、ルカの情報も随分と上書きされることだろう。是非ともお近づきになりたいと、ルカは考えている。


「でも風様。気になることとは?」

「最近、峰全体が随分と騒がしいからな。十分に気をつけなさい」

「そうですね」


 真剣な顔をして、ルカは頷く。



 別段何が変わったようにも見えないのだが、最近、下弦の妖魔たちが随分と何かを警戒しているというか、ピリピリしているのをルカは感じていた。

 祈りの時間を除いては、寝る時間も含め、必ず誰かがルカの側に居た。特に鴉はその傾向が顕著で、ひとときも離れたくないという気持ちが、以前とはまた違った形で現れてきている気がする。

 もともとは純粋に心配されていたはずなのに、最近はまるで義務感のような物が混じっていて、ルカは少し息苦しい気持ちでいた。

 何かあったのだろうか、とルカは思う。しかし、それが一体何なのか、誰も口にしようとしない。きっとルカ自身に関わることだと分かるのに、彼らだけで全てを処理してしまおうという感情が見え隠れしていた。


「私はまだまだ信用されていないようですので」

「そうだろうか?」

「……はい。まだまだ至りません」


 苦笑いを浮かべる。少なくとも、ある程度に親しみを感じて貰っていることは確実である。しかし、それと信頼とはまた別物だ。せめて皆の心配事くらい相談してくれれば良いのにとルカは思っていた。


 そうしてぽつぽつ会話をしながら食事を終える。さて、今日も頑張らなきゃと、決意を新たに、ルカは退出を願い出た。




「その前に、少しこちらに来なさい」


 短く言い放ち、風の主はいつものようにルカをソファーへと誘う。ああ、と、その真意を理解して、ルカは頷いた。最近、朝食後はこのように毎日彼に足を止められるのだ。

 さっと風の主は一度奥に退出し、戻ってくる。その手には黄色い花のような小物が用意されている。


「動くな」

「……はい」


 さっと彼はルカの後ろに立つ。何をされるかが分かっているので、ルカも頷いて言いなりになる。少し面映ゆくて、笑みがこぼれた。

 風の主はルカの髪を梳くと、器用にも細やかに編み上げてハーフアップにしていく。こぼれ落ちる髪を何度も掬われて、肌に手を触れられる。それはとても優しくて、繊細な手だった。


 風の主は別段何を話すわけでもない。淡々と髪を結い上げていき、最後に黄色の花飾りを指した。月白の髪に黄色の花が揺れ、夏らしい爽やかな印象になる。

 今までは琥珀の髪飾りを使用していたが、最近は毎日のように風の主が新しい髪飾りを用意していた。一日中部屋に引き籠もっているようだから、丁度良い暇つぶしにでもなるのだろうか。何度か制作現場に居合わせたが、鉱物から何故か糸を紡ぎ、編み込んでいくという謎の制作過程を辿っていた。



 あのパーティの夜以降、何を思ったのか、彼はルカの髪を結うことが非常に多くなった。ルカも最初は戸惑った。

 当然ながら下弦の妖魔たちも、最初は驚きを隠せなかったようだ。しかし少し照れているルカを見ていろいろ悟ったのだろう。普段小物を担当する琥珀も、何を言うわけでもなくスルーしてくれた。

 ただ、毎日触れる風の主の手が、優しい。それだけが変わらぬ事実である。



「毎日毎日、恐縮です。お手間ではありませんか? 風様」

「好きでやっているだけだ。……ふむ、悪くない」


 確認するようにいろんな角度から見て、最後に悪くない、と呟く。ここまでが毎日の流れだ。

 ほとんど無表情である彼の瞳が、ふと柔らかく揺れる。うっすらとした変化だが、ルカにはそれが分かるようになっていた。なんだか、くすぐったくて、どうして良いのか分からなくなる。


「ありがとう存じます」

「礼には及ばぬ」



 毎日髪を触ることにより、触れることに対する抵抗が薄れてきたのだろうか。風の主は何度もルカの髪を整えるように頭を撫で、頬に触れ、顔をのぞき込む。別段彼にとって特別な意図があるわけではないのだろうが、無意識のこの行動は、ルカの心臓に大きな負担を与える。

 麗しい筆頭妖魔に見つめられ、撫でられるという行為に、ドキドキしないはずがない。このまま惚けてしまわぬようにと、ルカは慌てて立ち上がった。


「あ、あのっ。そろそろ私……」

「そうだったな。足止めして悪かった」

「いえ、嬉しいです。ちょっと心臓に悪いですけど」

「?」


 軽く会釈し、ルカは風の主の隣をすり抜ける。しかし、そう簡単には帰してくれないらしい。

 ふと手を捕まれ、ルカはすぐに振り返ることになる。


「くれぐれも、気をつけなさい」


 まだ朝だというのに、本日何度目だろうか。

 無表情で何度も何度も心配されるのが可笑しくて、ルカはくすりと笑い、頷いた。





 ***





 しかし、その風の主の心配は根拠あるものだったと、ルカは思い知ることになる。宵闇の村へ訪れていた菫は、見たこともないほど消沈し、言葉少なげに戻ってきたのである。




「……お役に立てず……」


 報告の言葉が続かない。いつもはくるくるとよく動くオレンジの瞳も色を失い、虚ろな面持ちで立ち尽くしている。その隣には、いつもの笑顔の欠片もない真っ暗な顔をした琥珀が、ふつふつと怒りを浮かべては静めてを繰り返していた。


「やっぱり、すべて消し去ってくれば良かった」


 あまりに物騒な物言いに、ルカはたじろく。


「琥珀は付き添いだけで、口は出さないでと言っていたでしょう? よく、何もせずに戻ってきたわね。うん、偉いわ。褒めてあげる」


 手で招きよせ、クリーム色の柔らかい髪を少し大げさに撫でると、琥珀の表情は少しばかり穏やかになった。しかし、何かを言いよどむように口を結ぶ。なかなかに許しがたい出来事があったようだ。



「それで菫、話を聞かせて貰えるかしら?」

「……」


 琥珀の頭を撫でながら、菫に目を向けると、僅かにオレンジ色の瞳が揺れた。


「あの村、おかしいよ。ルカ」


 口を開かない菫の代わりに答えたのは、琥珀だった。思い出すだけで怒りがこみ上げてくるのか、再び琥珀色の瞳を鈍く曇らせる。


「菫が来たのに、あの一族の連中、顔すら見せなかった。それどころか……」


 声が深く、低く響く。


「ルカを。まるで……」


 何を言われたのかは分からない。ただ、口に出来ないような言葉を吐き捨てられたのだろう。部屋中の空気がぴきりと音を立てて崩れていくような危うい均衡。怒りのあまりに妖気を爆発させないかと、ハラハラすることとなった。


「いいのよ。私の代わりに怒ってくれて、ありがとう。琥珀」


 このままではまずいと琥珀を抱きしめる。ギュッと強く力を込めると、彼は背中に手を回し、抱きしめかえしてくる。それは幼い子どもののような反応で、よく癇癪を起こさなかったものだとルカはほとほと感心した。彼を菫の付き添いとして向かわせたのは、時期尚早だったかもしれない。



「すみません、取り乱してしまって。事のあらましを説明致します」


 琥珀が代わりに怒りを発散させてくれたことで少し落ちついたのだろうか。ぽつりぽつりと菫が話し出した。


「私と琥珀様は、ルカ様の仰せの通り、花の一族の元へと向かいました。花の一族の集落は、転移の広場から少し離れた、西の森を抜けた場所にあります。いつもならば森の中で誰かと会うのですが、あいにく、誰も周囲を出歩いていない様子でした」



 いつもと違うと思いながらも、琥珀とともに森を抜けた菫は、一族の住処へ向かったらしい。森の木々を変形させて作られた集落は、大きな木の幹に各家を彫り込むような形で作ってあるらしい。しかし、どの家の扉を叩いても、誰一人、姿を現す者が居なかったという。

 おかしいと思い、それでも菫は呼びかけ続けた。人がいる気配はあるのだが、呼びかけにはどうしても答えてもらえない。そこで琥珀が若干の威圧として妖気を発したところ、一族の長の家から声が上がったのだという。


「矢車さんの声がしました。私には会えないと。二度と来ないで欲しいと言われて……」

「どうして?」

「……」


 矢車と言えば、風の主も口に出していた人物だ。それに花梨の一件で花に関する情報を聞き出したのも、おそらく彼に当たるはずだ。だからこそ、信用できる人物ではないのかと思っていた。突然門前払いにされる道理が分からない。


「人間に仕える妖魔は、信用できないと」

「……」



 原因が自身にあると言われ、ルカは大きく目を見開いた。抱きつく琥珀の腕に力がこもる。先ほどの流れでそうではないかとは思っていたが、実際言葉として聞くと、心にずしりと響く。


「以前は? 前も菫は花の一族に会いに行っていたでしょう?」

「はい。私がルカ様にお仕えしていることも、もちろん承知の上でした。以前は昔と何も変わらず、私を受け入れてくれていたのです。ですが今日は……」


 菫は言いよどむ。ちらりと琥珀に視線をうつし、それから再びルカを見た。


「下弦の峰が、人間の娘に掌握されたと」

「……」

「上級妖魔を自らの力で従えさせる人間の娘が、どうしても信用できないと」

「……なるほど」



 ルカはうーんと唸った。完全に想定外な思考回路だった。

 もともと自分たち人間のことを知ってもらうためには、妖魔社会には上級妖魔から浸透させるべきだと考えた。もちろんそれは間違いではないと思う。

 しかし、この話を聞く限り、あまりに性急に事を進めすぎたのだろうか。僅か一季節で下弦の妖魔とは意気投合した。

 そもそも他人を受け入れることに関して理解のない妖魔たちだ。ほんの短い期間で、上級妖魔を従えさせたとも見える自分の存在は、確かに恐怖だろう。どのような手段を講じたのかと怪しまれ、警戒されるのも無理はない。


「別に従えているつもりは微塵もないんだけど……ねえ、琥珀?」

「そうだよ。僕たち、とっても仲良しなだけだもん」

「人間の娘と下弦の上級妖魔たちが結託して見えているのでしょうね。でも……」


 ルカはふと口を閉ざす。この出来事に、引っかかりのようなものがあって、それが何なのかを模索する。


「どうして、下弦の状況が宵闇の村に伝わっているのかしら? だれか、伝えた人がいるの?」

「あ……」


 思いもよらなかったのだろうか、菫は大きく瞳を開き、瞬きをした。

 妖気についてルカは詳しくないが、情報伝達の方法はどうなっているのだろうか。ルカの身に起こった出来事を、鷹や風の主が知っていることはよくあった。なんとなく、彼らにはルカの状況を知り得る手段があるのだろうとは思っていた。

 しかし同じことを宵闇の村の者が出来るかというと、難しいと思う。

 あくまでも、下弦の皆や風の主は上級妖魔だ。下級妖魔である菫たちとの力の差はあまりに大きい。情報収集方法についても、宵闇の村で出来ることなど限られているとも思うのだが。


「宵闇には情報収集に優れた者は居るの? 峰の上のことを知り得るような……」

「……花の一族では難しいと思います。森の一族なら、あるいは」

「森の一族」


 ルカは記憶を掘り起こす。森と言えば、一番勢力が強くて、血気盛んな一族では無かっただろうか。



「森の一族の長の狼って男はね、夜咲き峰の上級妖魔だったんだよ」


 思考していると、隣から琥珀の声が聞こえてくる。ぱちくりと瞬きして、琥珀の方を見た。

 狼の話は、以前菫からも聞いたことがある。上級妖魔であるにも関わらず、わざわざ宵闇の村へ降りていったと。


「好きこのんで村に降りる妖魔なんていないからね。僕に彼のことはよくわからないよ。でも、こちらのことを探ろうとするなら、狼か、あるいは……」


 と、そこで琥珀は口を閉ざした。他にもいろいろ思うところがあるのかもしれない。



「なるほどね。でも、誰が私たちのことを探っているとしても、その目的が見えないのが気持ち悪いわね」


 さて、どうしたものか。と、ルカは口を閉じる。

 ともあれ、このまま菫にばかり頼っていても仕方が無い。何か動きを起こすべきだと、ルカは判断した。



「まずは行きましょうか、花の一族の元へ」

第1章後半の開幕です。

舞台は宵闇の村へと移ります。

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