−幕間− ルカの手紙
深い闇の中でぬるま湯に漂う。
下弦の峰の筆頭妖魔――赤薔薇にとって、眠るという行為を無理矢理言葉にすると、きっとこのような感じだ。体の芯でじんわりと光がほの赤く灯るような。それでいて闇の安らぎに包まれているような。安穏とした世界の中をただ漂う。赤薔薇はこの時間が嫌いではなかった。
起きていたところで、別段何があるわけでもない。夜になると目を覚まし、ただ、月に祈る。それ以外に特筆すべき行動は特にとってはいなかった。
かつてーー何百年前だろうか。数すら数えなくなってしまった遠い過去。生きることに飽いて、命を狩ることに費やした日々もある。何が楽しかったわけでもない。ただ、命を奪う行為によって、自分が命あるものとして実感したかった。それだけなのかもしれない。
しかし、それにも飽いた。だから飽いて空っぽになったつまらぬ日々を、赤薔薇はただ眠って過ごした。
しかし、ここ最近。彼女の周囲に変化が起き始めた。
下弦の峰は赤薔薇のテリトリーである。下弦筆頭妖魔として、一応この峰の全体を把握できるように、妖力を割いてきたつもりだった。だからこそ、この急激なる変化に彼女は戸惑った。
数百年の時を生き、初めての事態。
――峰全体の妖気が、落ち着かない。
鴉があの変な娘を拾ってきてからだと赤薔薇は知っている。
魔力も妖力も何もないはずなのに、気がつけば彼女はこの峰の妖魔たちを掌握している。鴉も琥珀も花梨も。毎日彼女の部屋に移動しては、何やら妖気の色を変え、ざわざわと、その心の内を伝播させる。
ーー五月蠅い。騒がしい。
安穏とした眠りの時間を妨げられ、赤薔薇は眉間に皺を寄せた。
………。
………。
………。
……ピクリと赤薔薇は体を動かした。ああ、眠っていたのだろう。
夢かうつつか、狭間の世界で思考が行き来していたらしい。こんなにも何かを考えるというのも、ここ最近、赤薔薇に起きた変化の一つだった。ただ、真っ暗闇の安穏とした世界が、ざわざわと、色めき立っている。
「またか……」
ちらりとテーブルに目を向けると、今日も一枚の手紙が置いてあった。ここのところ毎日だから、起きるとすぐ、テーブルに目を向けるのがもはや癖になってしまっている。
無言でその手紙を持ち上げ、封を切る。もはや見慣れた字が飛び込んできて、なんとなくほっとしているのにも、気がついてしまった。
ここ最近、赤薔薇の寝る・祈るだけの生活の中に、手紙を読む、という行為が入った。
何百年と続けていた毎日の習慣が崩れていることには気付かず、赤薔薇は毎日のように手紙を確認していた。
人の言葉で綴られた文字。捨てる気にもならなくて、過去の手紙も全てとってある。日中は何故だか、彼女の手紙を読み返す事も随分と増えた。
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赤薔薇様へ
おはようございます。
聞いて下さい赤薔薇様! 昨日はようやく鴉と仲直りが出来たのですよ!
琥珀がとっても頑張ってくれて、
私の部屋の仲間たちみんなで、おそろいのペンダントを作りました。
私の分だけは、まだないんですけどね……。
鴉はとっても喜んでくれたようで、私も嬉しいです。
この峰の皆さんは穏やかな方が多いのですね。
赤薔薇様とも、仲良くお話しできる日を楽しみにしています。
セルス歴998年 風の月 第2週 7日
ルカ・コロンピア・ミナカミ
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赤薔薇様へ
おはようございます。今日はとっても天気が良いですね!
赤薔薇様は昼間の空を見上げることはありますか?
鴉なんかはよく日向ぼっこをしているようで、
バルコニーでお茶をするととても嬉しそうです。
今日も天気が良いので、鴉を誘ってお茶にしようかなあ。
赤薔薇様もよろしければ、いらして下さいね。
もちろん、明日もお茶会です。
いつでも大歓迎ですよ!
セルス歴998年 風の月 第3週 7日
ルカ・コロンピア・ミナカミ
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赤薔薇様へ
おはようございます。
赤薔薇様、唐突で申し訳ないのですが、
赤薔薇様から見た風様ってどんな方ですか?
いつかお話を聞きたいです。
なんだかいろいろ、頭が回っていないようです。
風様って時々、びっくりするようなこと、しますよね?
うん、でも、本人に意図は無いんでしょうけど。
変なことを書いてしまってすみません。
明日は元気な私に戻りますね。
セルス歴998年 風の月 第4週 2日
ルカ・コロンピア・ミナカミ
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赤薔薇様へ
聞いて下さい、赤薔薇様!
昨日のお茶会、ついに花梨が来てくれたのですよ!
彼女に何があったのか、伺いました。
皆様、いろいろ抱えていらっしゃるのは、人間も妖魔も同じなのですね。
私は王都で妖魔の皆様について研究していましたから、
花梨らしき人物についての伝承も、聞き及んでいたのですよ。
随分と昔のお話だと思っていたのに、
その歴史上の相手と会ってお話しできるのはなんとも不思議なことですね。
……実は、赤薔薇様についても、
私、文献上で知っているのではと思ってします。
過去の文献を調べただけですから、それが嘘か本当かはわかりません。
ですが、私はずっと昔から、
文献の中で貴女のことを追いかけてきました。
お話が聞きたいです。
セルス歴998年 風の月 第6週 5日
ルカ・コロンピア・ミナカミ
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赤薔薇様へ
本日も良いお天気ですが、
赤薔薇様もご機嫌いかがでしょうか?
最近は、皆がパーティの準備に奔走してしまって、私は部屋から出てはいけないのですって。
赤薔薇様への挨拶だけは、必死でもぎ取りましたけどね。
仕方ないので、今日も部屋に戻ってお勉強です。
私一人だと、新しい知識がなかなか増えなくてちょっと退屈です。
早く赤薔薇様にもお話を伺いたいです。
セルス歴998年 風の月 第8週 2日
ルカ・コロンピア・ミナカミ
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なぜ毎日そんなに楽しそうなのだと赤薔薇は思う。同時に、手紙の差出人が如何に変化に富んだ毎日を過ごしているかもよくわかる。見たこともない生き物の姿がそこにあって、赤薔薇は戸惑った。
彼女――ルカの事は、正直、よく覚えていない。初めて彼女が謁見の間に来たとき、赤薔薇は何も考えずに立っていただけだった。
彼女が下弦の峰へ来たときは、余計な妖魔が影にくっついていたため、迎撃した。後ろに彼女の姿をとらえたが、それだけだった。それよりも、対峙した鷹の目隠しの下。その衝撃があまりに大きくて、うろたえたまま、場を離れてしまった。
永い時を生きながらえてきたが、あんなもの、初めて見た。あんな誓いを人間相手に立てる妖魔がいるなどと、思ったことも無かった。
ーーまだ、解呪されていないようだったが。
永劫呪と呼ばれる一種の呪い。自身に枷をし、主に対する絶対の忠誠を誓う証。単に真名を捧げるだけの誓いとは格が違う。主が衰えば共に衰え、主が死ねば共に死ぬ。その覚悟ごと、相手に捧げる絶対的な誓い。
妖魔相手ならまだしも、命の短い人間相手に結ぶなど、狂気の沙汰だ。人生に飽いたのか。それとも、それ程の誓いをしても良いほど相手に傾倒しているのか。鷹の考えていることなど、赤薔薇に分かるはずがない。そもそも、赤薔薇は誰の考えも分からない。知ろうとしてこなかった。
赤薔薇にとって、過去の時間の感覚を追うのは難しい。彼があの布で表情を隠し始めたのはいつだっただろうか。赤薔薇は確かに、鷹の素顔を見ている期間があったはずだ。むしろ、素顔を見ている時間の方がずっと長かった気さえする。
しかし、曖昧でおぼろげな時間感覚が、彼女の考察を停止させる。考えても、答えは出てこないのだろう。
だから、赤薔薇は思った。
鷹を変え、鴉や花梨、琥珀など下弦の妖魔たちを変えていったルカこそ、変化を与える大きな駒であることを。
おぼろげなる意識がハッキリとしてくる。
変わらぬ日々、それが愛しいと思ったことなど、彼女にはない。
ーールカ。どのような顔だったか。
思い出そうとして、目を開けた。
ああ、どうやらまた、夢とうつつを彷徨っていたか。
チラリと視線を動かすと、先ほど置いてあった本日の手紙。内容を再度確認して、赤薔薇は笑った。
ーーパーティは、明日か。
そろそろ、自身に変化があっても、いいのかもしれない。
下弦の峰にはもう、変化が満ちているのだから。
ルカは一方的に文通攻撃をしかけていたのでした。
次は、王都までレオンの報告書が飛びます。
兄たち中心に、ミナカミ家勢揃いです。




