プロローグ
月が出ていなければ、きっとこんな場所には立っていない。
華やかな音楽に身を委ね、人々のワルツは流れを作る。しかしルカはその流れには乗らず、バルコニーに佇むことを良しとしていた。
あまりに場違いだと、ルカは思う。随分と小汚い犬が迷い込んだものだ、と、誰かが言っていたのも、特に否定をするつもりはない。
昇月の夜。古い時が終わりを告げ、新しい年が始まる夜。昨夜までの闇がまるで嘘のように、大きな月が煌々と輝いている。
大陸の北に位置するレイジス王国の王都ローレンアウスの冬は、完全なる凍土に覆われる。人々は屋敷に籠もり、寒さをしのぎ、この昇月の夜までを過ごす。そして新年の始まりとともに、雪解けと春の訪れを喜ぶ為、王都中の貴族が王宮に集まるのである。
春の訪れに心を揺らし、冬の間に変化した人間関係について彼らは情報を共有する。彼らは春から本格的に始まる国政への対応や、派閥の形成に余念が無い。
しかし、今日この夜だけは、彼らの関心は別にあった。
「おい、田舎娘」
声をかけられてルカは振り返る。
柔らかな栗色の髪にこしゃまくれた顔。つんとした目にそばかす頭。見たことはあるはずだが、どこのご子息だったかとんと思い出せない。
「田舎者の猿の娘が、こんなところで何をしている」
「春の訪れを喜んでいるだけですわ」
「同じ空間に居るのも耐えられぬ、失せろ」
完全に言い掛かりだ。ルカが何故ここに居るのか。その噂を耳にするのは、そう難しいことではない。ここ最近、父の派閥が随分活発に動き回っていた。彼女に関する噂を、大々的に流していたのだ。
それすら知らぬ世間知らずは対応するのに値せぬと、ルカは判断した。視線を逸らし、エスコート役として連れてきた従者レオンの腕をひく。
いきましょう、と、声をかけようとした時だった。
「待て。答えろと言っている!」
肩を掴まれてよろける。レオンがぐっと抱き寄せてくれたものの、大きく体勢を崩し、目を丸くした。
「アレでしょう? 噂の娘は」
「緋猿の娘か。ずいぶんと幼いが」
「いや、魔力がないのも丁度良いだろう。くれてやるならアレくらいでいい」
その騒ぎに乗じて、周囲の声が大きくなる。随分と好き勝手言ってくれるものだとルカは思う。
ルカ・コロンピア・ミナカミ。レイジス王国六大将軍の一角“緋猿将軍”の娘にして幼き歴史学者。それが一般的なルカの評価だ。
緋猿と言えば海を挟んで隣、ゲッショウ諸島連合出身の元常勝将軍。異国出身故、貴族としての位だけは低いものの、その実力は折り紙付き。軍事においては彼に口を挟める者などなかなかいない。
ルカはそんな緋猿の娘だ。三人の兄たちと同じく貴族の身分にあってもおかしくない。そもそも、とっくにお披露目も終えているはずの歳ではあった。
——彼女が、魔力さえ持ち合わせていたならば。
「貴族でもない娘が、王宮に足を踏み入れるなと言っているのだ!」
言って目の前の男は、再度ルカを突き飛ばした。レオンに支えてもらえなければ、完全に転倒していたことだろう。
隣に目を向けると、レオンの表情が穏やかではない。かまわないの、と軽く諫め、ルカは目の前の男を見据えた。
「ずいぶんな言いようですね。私、請われてここに来ているだけですわ。貴方にはもう少し大きなお耳が必要ではなくて?」
嫌みを混ぜつつ、チラリと視線を投げかける。反論されるとは思ってなかったのだろう、男は顔を真っ赤にし、怒りを露わにしている。
いつの間にか周囲は人だかりが出来ていていた。騒動の行方をおもしろ可笑しく見守っているのだろう。まったく、今日という日は終始大人しくやり過ごそうと思っていたのに、迷惑なことである。
あるべき平穏を壊され、ルカも男への恨みが募っていく。さて、どう言ったものかなと考えあぐねていたとき、人混みの向こうから、落ちついた男性の声が響いてきた。
「ここにおったのか、ルカ・コロンピア・ミナカミ」
瞬間、人垣がざっと退いた。声の主を敬うようにして、周囲が傅く。
「ああ、よいよい。世間話をしに来ただけだ。のう、ルカよ」
微笑む表情は柔らかい。色素の薄い金髪に、長いひげを蓄えて。威厳たっぷりに佇む彼こそ、この国の王アルフレッド・イル・レイジリア。突然の訪れに動揺しつつも、ルカはニッコリと微笑み傅いた。
「本日はご招待下さいまして、ありがとう存じます。陛下」
「よい。其方と緋猿には世話をかける。今夜くらいは楽しんでも良かろう」
「恐悦至極に存じます」
周囲が再び騒めき始める。ルカに絡んで来た男など、顔を真っ青にして固まっている。噂は本当だったのか。そんな声がちらほら聞こえ始めた。
「挨拶は済ませたのか?」
「はい。私はこの身の無力さ故、さほど交友関係も広くないのです。たいした時間もかかりませんでしたわ」
「そなたは優秀だと聞いている。できれば、王都に残って研究に費やして欲しいと思っていたのだが」
「いえ、彼の地でこそ、私の知識もお役に立ちましょう」
ちらりと目を向けると、王を護衛するかのようにルカの父カショウが控えている。ルカの受け答えに満足そうに口の端を上げていた。親子共々、この状況を心の中でほくそ笑んでいるのだ。
王の後ろ盾を持って、彼の地に行く。そのことを印象づけられる良い機会にもなった。そう言った意味では、絡んで来た男に感謝をしてもよい。
その時だった。
ばさりと、羽の根が聞こえた気がしたのは。
先ほどまで事の次第を楽しそうに見ていた貴族たちは、こぞって天を見上げている。王も突然の事態に、言葉を失うようにして口を開けた。
何事、と思い、空を見やった視線の先、ぽっかりと大きな月を背景に、その男はいた。
——なんと美しい。
それがルカの第一印象だ。つややかな漆黒の翼は光沢を帯び、同じように光沢混じりの鋼色の髪。磁器のようになめらかな肌と、人間とは異なる先の少しとがった耳にはいくつものピアスをちりばめている。
そしてその目。鋭い眼光はずいぶんと黒目が小さく、こちらをにらみ付けているような印象を受けた。
「その娘か」
美しい翼を持つ男——いや、妖魔がそう尋ねる。
王が、ああ、と肯定とも恐れとも言えぬ声を漏らしたとき……ルカの体は、もう、宙にあった。
「え」
大きく見開いた瞳。その視線の先。城のバルコニーは遙か下に。
「お嬢様!」
とっさに掴んでいたレオンの手。気がつけば、レオン共々、ルカは月夜に羽ばたいていた。
初連載となります。
よろしくお願いお願いします。
次回は早速、夜咲き峰へ行きます。