彼らの日常
鴉と言葉を交わした次の日から、人間教育の枠組みがなんとなく出来上がってきた。基本的にはお茶をしながら、お互いの認識について確認し合うという形になっている。
菫と琥珀は、そもそも人間の文化への興味が強かったようで、毎日楽しそうに話し合いに参加している。
逆に、鴉はというと、特に何に興味があるわけでもなさそうなのだが、毎日部屋に来るようになった。とはいっても、彼はもっぱらルカの近くにいるだけで、勉強しているという素振りは一切見せない。なんだかんだで遊びに来ているだけの感覚なのだろう、と、ルカは考えていた。
一方、部屋への来客が増える中で、鷹は身を溶かす時間が格段に増えた。一人だとあんなにも騒がしいのに、大勢が集まっているときは極力関わらないようにしているようだ。
不思議なことに、ルカは鷹が自分の側に居ることが感覚的にわかるようになってきていた。今も、この部屋の中に居ることは確かだ。なんとなく、彼が自分の腰回りを定位置にしていることも感じ取れていたが、あえて気にしないことにしている。
鷹が居なくともずいぶんと穏やかなお茶会となっていた。今のメンバーは、琥珀と鴉である。彼らがわかりやすく興味を惹いたのは、飲食・服飾・美術だった。
特に琥珀はアヴェンスへ観光ツアーに行きたいと乗り気だが、今の状態をレオン一人に任せるのが無理なので、却下となっている。
逆に苦戦しているのが地理・神学・歴史。彼らにとっては現状、何の必要性も感じないのだろう。資料を広げたとたん、瞳からやる気が失せていく。
ともあれ、教育に関する形がなんとなくでも出来てきたわけだ。護衛問題もある意味解決に向かっているし、そろそろ次のステップへと行きたいところである。
「二人は、赤薔薇や花梨とは交流がないの?」
もちろん、鴉にはなさそうだとは容易に想像できたが、仲間はずれにすると拗ねる。よって、ルカは二人に質問した。
「いや」
「んー、そうだね。僕は二人の家具も作ってるしなあ」
予想通りの答えが返ってきて、ルカはほっとした。
「そっか、その二人ともいろいろお話ししてみたいんだけど、なかなか上手くいかなくて。赤薔薇は、部屋には素通りできちゃうんだけど、いつもぼんやり立っているだけでさ。石に話してるみたいになっちゃうの。花梨に至ってはまだ会えたことが無いし……」
思い出して、ルカは大きなため息をついた。
特に赤薔薇の対応は、途方に暮れるしかない。初日に出会った彼女は一体何だったのだろう。夢か、幻を疑ってしまうくらい、今の彼女は抜け殻だった。
彼女の部屋には鍵がかかっていないようで、入るだけなら簡単にできてしまった。しかし、そこからがある意味ホラーだ。寝台に寝るわけでもなく、その側に立ち尽くす。微動だにせず、ただ、そこに居るだけなのだ。
像か何かと疑って触れてみると、きちんとあたたかい。耳元で名前を呼んでみても、体を揺さぶってみても、彼女は何事も無かったように立ち尽くしているのだ。
「あー、ルカ。それね、寝てる」
「寝てる!? 妖魔って、ああいう風に寝るの!?」
まさかの答えが返ってきて、ルカは目を丸くする。
瞬間、ルカは脳裏で琥珀、鴉、鷹の全員が突っ立って寝ている様子を描いてみる。寝台いらず。恐ろしい省スペースである。端から見ると完全にホラーになるが。
「僕らが寝てるの見たことないもんね。じゃ、今度僕がルカに添い寝してあげるよ」
突然現れたかと思うと、鷹がひょいと余計な話を挟み込む。いきなり上半身が空気中に現れたわけだが、今更一々驚かないようになってしまった。
ちなみに、発言内容が面倒な場合、今までは空気扱いにすることが最良だった。しかし最近は違う。非常に心強い協力者が増えた。鴉が鷹を押さえ込むのだ。
今も、鷹の頭を押さえ込んで、軽く妖気を流し込んでいるようだ。鷹の表情がひくっと動き、また空気に溶けていく。鴉はなかなかに有能な男である。レオンもずいぶんと負担が減ったのだろう。授業をルカに丸投げして、裏で色々動けるようになったらしい。
「えーと。僕が教えてあげるね、ルカ。僕たちはね、寝るときに決まった形は無いんだよ?」
代わりに教えてくれるのは、琥珀だった。琥珀は、物騒なことさえ言わなければ基本的に可愛い男の子だ。こうやって授業まがいのことをしているときも、なかなかの優等生ぶりを発揮している。
「僕たちは、寝たいと思うときに寝るよ。頭のなかだけ、寝ちゃうんだ。体は殻っていうか。空気に溶けてても、布団に入っていようと、どこかで立っていようと関係ないんだ」
「でも、疲れたりとか」
「しないよ! うーん、多分、そこは人間と違うんだろうね。僕たちにとって、体って、あくまでも精神が操っている物の一部というか。逆にルカって大変そうだよね。そのお布団じゃなきゃ寝れないんでしょ?」
感覚を伝えるのは難しい。根本的な部分から違っているのだ。当たり前だと思っている感覚を、どう伝えれば良いのかわからないのだろう。それでも精一杯伝えようとする姿勢は、二重丸だ。
「え? だったらどうして皆の部屋に寝台があるの?」
「え? 何言ってるの、ルカ。寝台の使い道は別にあるでしょう?」
琥珀の返事の意味を考える。同時に、鴉の部屋には寝台がなかったかもしれないことも思い出され、皆必要なものしか部屋に置いていないことには思い至る。だったら、寝る以外の寝台の目的といえば——そこまで考えを至らせて、ルカは頬を真っ赤に染めた。
「あ……っ、えっと、そうか。伝承だと、確かに。でも琥珀……」
これ以上口にするのは憚られる。彼の幼い風貌と不釣り合いな想像をしてしまい、気恥ずかしい。
しかし耳元でふ、と鷹の声がする気がした。——僕が教えてあげようか? と。当然、全力で却下だが。
混乱するルカを実に興味深そうに見つめて、琥珀は話を進めた。
「とにかく、赤薔薇は無理矢理起こすしかないかなあ。……あ、僕は御免だからね!」
「うん、大丈夫大丈夫。必要が出てくれは、私が責任を持ってやるから」
「いや、ルカは、俺が護る」
逃げる琥珀と対照的なのは、鴉だ。彼と仲良くなれたのは、この夜咲き峰に来てから一番の収穫かもしれない。
理由が欲しくて逃げ回っていた彼は、ずいぶんと変わった。今では何の前提もなく、ただルカの側に居る。きっちりと身の回りを護ってくれている気がして、とても安心して生活できるようになった。同じ引っ付き虫の鷹とは大違いである。
ここまでの話をまとめると、ルカが赤薔薇に対してどう触れようが話しかけようが、肉体と精神は別ものだから伝わらなかったと言うことなのだろう。
しかし、寝ていると言うことが分かれば後はシンプルだ。起きている時間もあると言うことだ。
これまでの生活の中でルカは、妖魔たちが夜のいずれかの時間、月に祈りを捧げることを知っている。とはいえ、そんな時間に突撃することをレオンが良しとしないであろう。また、月への祈りが妖魔たちにとってどれほど重要な物か、ルカはわかってきている。
菫は“糧”と言っていた。彼らは祈ることにより、体に妖気を吸収しているのだろう。
「赤薔薇のことは私の方で考えてみる。後は花梨ね。こっちも会うことすら出来なくて、どうしようかと思ってるんだけど」
「そうだなあ。花梨は極端な話、人間嫌いだしねっ」
「えっ、嫌われてる? 私?」
なるほど。道理で会えないはずだとルカは納得する。人間自体が好きでないのであれば、逃げ回られているのも仕方ないだろう。
「あの子も色々あって、複雑な気持ちなんだと思うよ? 僕からも一度話してみるけどね。花梨とは趣味の関係で、いろいろ交流もあるし」
「琥珀。ありがとうっ」
「お礼は、今日のデザート、大盛りでー!」
琥珀は、それが目的かと言わんばかりに、両手を挙げ主張している。しかし、この状況を打破できるなら大歓迎だ。デザート大盛り上等。準備するでしょう、レオンが。
ひとしきり二人の話を聞いたところで、今日の勉強会ならぬお茶会は終了だ。ルカは今後の作戦を練るため、今一度、自分がまとめた研究内容やら、下弦の峰についての考察を読み返す。
レオンは相変わらず生活を整えるため走りっぱなしだし、菫もそれに付いていけるよう必死だ。
鴉はというと、護っているつもりなのだろう。何も言わずにただルカの後ろを付いてきている。そして琥珀は何故かルカの部屋で物作りに一生懸命だ。
——いつの間にか、この部屋がたまり場になっている。
琥珀のせいで何故だかソファーの類いが増え、大人数が寛げるように変化している。バルコニーへ続く扉にも細やかな彫刻が彫り込まれていたし、部屋が好き勝手改造され始めている。たまに眷属も連れてくるものだから、部屋の中が非常に賑やかだ。
ともあれ、今は目の前のことに集中しなくてはいけない。
花梨の話について、いくつか気になっていた。自分の研究を綴ったメモと、『ジグルス・ロニーの手記』についてだ。
王都から連れ去られた際、ルカは自身の持ち物を何一つ持ってくることが出来なかった。そのため、レオンに筆記具のみ用意して貰った後、『ジグルス・ロニーの手記』においての、夜咲き峰に関する項目はすべて書き出しておいた。
もちろん内容は一言一句残さず暗記している。わざわざ書き出したのは、考えをまとめる際、資料を目の前に広げると非常にはかどるからである。実際、文字として読み直すと、同じ文章でも違った解釈が生まれてくるからだ。
夜咲き峰の項を最初から確認していく。
ここに来てからというもの、夜咲き峰についての大きな疑問が生まれた。そもそも、彼らが何故ここを「夜咲き峰」と言っているかについてだ。
『ジグルス・ロニーの手記』によると、ジグルス・ロニー本人が「夜咲き峰」と名付けたように記述されている。セルス歴765年風の月第1週6日、と、日付まで明確に記載されていたはずだ。
たかが人間の旅人でしかなかった彼がつけた「夜咲き峰」。それが何故、今、この地の妖魔に浸透しているのか。考えられる理由は二つだ。
一つは、ジグルス・ロニーが名付けたものが、妖魔たちに伝わり、今も使用されている。
もう一つの可能性としては、もともと妖魔たちが使用していた名称をジグルス・ロニーが使用した。それを現代では、彼が名付けたかのように解釈されてしまった。
どちらにせよ、この手記の中で、ジグルス・ロニー自身は何名かの妖魔に遭遇している。その中で、何らかの交流があったことは明かだ。その交流の中で、同じ名称が両者に定着したのだろう。
薄々感づいてはいた。もし、この峰の妖魔が本当に何百年も生きているのであれば、ジグルス・ロニーと接触しているのではないか、と。そしてジグルス・ロニーの記述にある妖魔と、この夜咲き峰の妖魔たちが同一人物で在ったとすると——。
「菫。いいかしら。鴉と一緒に、宵闇の村に飛んでもらえる? ちょっと調べて欲しいことがあるの」
解決の糸口が見えてきた。すぐさま菫に指示を出す。
そして目を光らせ、自分の推論を確認するかのごとく、資料を読み直し始めた。
ようやく“歴史学者”らしくなってきました。
次は、考察の答え合わせをしに、風の主に会いに行きます。




