鴉のたからもの(1)
ルカを迎えたその日より、夜咲き峰から静けさが消えた。
ルカは全力で疾走していた。一週間が過ぎ、目標の妖魔の行動パターンなど粗方読める。彼が満月の峰まで逃げ込んでいることくらい、わかっているのだ。はしたないと言われようが知ったことではない。今は咎めるレオンだって居ない。
カラカラと気障りな笑い声が後ろからついてくるけれど、まあ、空気みたいなものだ。無視しよう。目的の部屋を目前にとらえ、ルカは笑った。
「待って! 鴉! 鴉ってば!!」
そう告げ、全力で部屋に突入する。
「今日も逃がさないわよっ。大人しくなさい」
「やめろ……俺に、近づくな……!」
鴉は迷惑そうな表情で、じり、と後ずさりする。が、この峰はここが最上階。空を飛ばない限りここから逃げることが出来ないし、風の主の部屋からバルコニーに出るには彼の鍵呪を解除する必要がある。つまり、ここが終着点だ。
にまりと、つい悪い笑みを浮かべてしまい、ルカはハッとする。そうだ。ここは風の主の私室であった。視線を移動させると、眉間に皺を寄せた風の主がいる。おっと、落ちつかなきゃとルカはぱたぱたと身なりを整えた。
突然の来客に憮然としたままの風の主ではあったが、特にお咎めはなさそうだ。額に手を当て呆れた面持ちでしばらく。諦めたようにしてため息を吐く。そしてその目がルカでは無く鴉をとらえた。
「鴉。ルカの命に従え」
「……」
「うふふ、風様、ありがとう存じます」
相手にするのも面倒と言わんばかりの物言いに、ルカは苦笑した。鴉はというと、隠しきれないショックに小さな黒い瞳をふるふると震わせている。
もちろん、ルカに逃がす気などない。鴉の手を取り、さっさと退出を決め込むことにする。鴉から悲鳴のような声が上がるけれど、彼が力でもってルカを無理矢理突き放すようなことをしないのはわかっていた。
鴉。王宮から突然ルカを連れ去り、無言で一晩飛び続けたあの妖魔。人と接することに興味ないからこその対応だったと思っていたが、どうやら間違いだったらしい。
彼は、小心者だった。
別段、力が無いわけではない。単純に戦闘能力だけ抜き出してみれば、夜咲きの峰でも上位に入ると鷹のお墨付きだ。ただ彼は、誰かと接する経験が圧倒的に足りないらしく、交流を持つこと自体に酷く怯えを見せる。だから一言も話してくれなかったのかと、深く納得した。
今も手を引いているけれど、半ば諦めているようで抵抗はない。口元は衣によって隠されているのだが、その頬を見ると真っ赤だ。どうして良いのか分からないのだろう。照れている様子がうっかり可愛く思える。
実際、しつこくお話ししようと誘っても、毎日のように彼は逃走していた。しかし、あちこち探し回って見つけた時、彼は困った顔をするだけでいつも抵抗をしない。この調子で毎日しつこく話しかけていれば、ルカの言葉に耳を傾けてくれる日が来るかもしれない。それを信じて、ルカは今日も鴉を探していたのだ。
「今日はね。一緒に昼食を食べましょう? うふふ、いつもお茶ばかりで、ごはんはないでしょう? 鷹も菫も美味しいって言ってるから、妖魔のみんなも同じように感じてくれると思うのよね」
あの夜から、鷹は基本的にルカと食を共にしていたし、菫も飲食という経験をしたようだった。二人とも食べる行為自体を大いに気に入ったようで、菫に至っては体調も良くなったと不思議な方向で喜んでいる。
ちなみに、どこをどう消化するとそうなるのか分からないが、一切の排泄行為はないようだ。乙女は排泄をしないというのは本当だったらしい。
「……捕らえられては、仕方ない。従うとしよう」
鴉は素直ではなかった。彼の妖魔としての矜持なのだろうか、最初の言葉だけでは決して言うことを聞いてくれない。
何らかの形で打ち負かしたとき、あるいは相手を圧倒したとき、はじめて相手の要求を聞き入れるものである、と彼は言っていた。そして、その打ち負かすというのがこのかくれんぼのような追いかけっこに当たるのだろうか。よく分からない。ともあれ、一端逃げて、捕まるという課程は、彼の中でとても重要な行為らしい。
「戻っていらっしゃったんですね! 鴉様も、よくお越し下さいました!」
自室に戻ると、菫が嬉しそうに声をかける。
上級妖魔に対して、いつも怯えているような彼女だったが、鴉に対しては警戒を解いたのだろう。柔らかい笑みを浮かべて、席へと案内する。
「すぐに準備致しますね。少々お待ち下さいませ」
配膳についてはずいぶんとなれてきたようだ。レオンに代わって、テキパキと料理を運び出す。ちなみに、レオンは最近完全にただの料理人に見えてしまう不思議。他にも山ほど仕事を抱えているのは知っているが、生きることに直結する調理における貢献は特にすごい。
「おー、いいにおい! 彩りも良い! さすがレオンだね」
いつの間に空気に溶けていたのか。そしていつの間に現れたのか。神出鬼没を欲しいままに、鷹が姿を現す。
そもそも、彩りが良いとか貴方は目隠しをしているでしょうという突っ込みは当然しない。突っ込んでも喜ぶだけだというのが分かってきたからだ。
鷹との上手なつきあい方は「居ないものとして考える」これが定石と言えよう。
三人分並べられた料理を見て、鴉が息をのむ。僅かに視線が揺れたのは、やっぱり少々不安だからだろうか。彼らしく、なるべく表情に出さないようにしているのだろう。残念ながら、ダダ漏れだが。
「では、頂きましょうか」
そう告げ、ルカは神に祈りを捧げる。これは人間特有の習慣らしいので、彼らには強要していない。鷹は何も言わず、ナイフとフォークを掲げつつ楽しげにしていたし、鴉もじっと、唱え終わるのを待っているようだった。
ひとしきり祈りを捧げたところで、ルカは目の前のサラダから手をつける。新鮮な野菜は、昨日わざわざ買い出しに行っていたものだろう。瑞々しいトマトが美味しい。
お野菜のスープも味がじっくりとしみこんで、ルカは幸せそうに目を細めた。
鷹も相変わらず遠慮も無く目の前の料理を平らげていく。すっかりとナイフとフォークにも馴染んだようで、手さばきは人間のそれと大差ない。
そんな彼をじっと観察し、おそるおそるスープに手を伸ばしたのは、鴉だった。紅茶などの飲み物を体験したことがあるから、比較的手に取りやすいのだろう。おそるおそるスプーンを手に、一口、透明なスープをすくった。
口に運んだ瞬間、彼の小さな黒目がぐっと動いた。目を大きく見開いて、手元のスープを見つめている。口に含んだスプーンはそのままだ。いつまでも離しがたいのだろう。もう味もしないスプーンをじっくりと舐めている。
「おかわり、あるからね」
ルカがそう告げると、鴉は嬉しそうに顔を上げた。が、すぐに首を横にふる。必要以上の施しは必要ないとでも言うのだろうか。その分、器の中身がなくなっていくのをとても惜しみながら、彼は一口一口、大切に食べた。
初めてものを買ってもらった赤子のような表情が、実に愛おしい。が、こんなことを言おうものなら、また逃げてしまいかねないので、黙っておくことにする。
サラダも、パンも、メインのお魚も。どれもこれも、大事そうに食べて、鴉は何も残っていない食器を見つめ続けていた。
ソースの欠片すらも残さず、綺麗に食べきった食器。ルカのために揃えられたそれらは、急ぎで調達した割に上物だ。彼はその食器すら愛おしげになで、ほう、と息を吐いた。
今は口元の衣を下げているため、その表情が隠されることはない。ゆるゆるに緩んだ口元は、笑みの形を描いており、頬、そしてぴんと尖った三角の耳までピンクに染まっている。よくもまあ、そんなに美味しそうに食べれるものだと、ルカは感嘆した。
「気に入って頂けたかしら?」
つれない返事が返ってくるであろうことはわかっている。でも、少しでも感想が欲しくて声をかけた。すると、突然、鴉が立ち上がる。
「……」
食べたからすぐ帰るとか、そう言ったことでも無いらしい。ルカをじっと見つめるその様子は、何かを伝えたがっていると考えて間違えないだろう。
赤薔薇もそうだが、この峰の妖魔は言語が不自由なのではないか、と若干不安になる。
「どうしたの?」
少しでも話しやすいようにと、尋ねてみる。しかし鴉は益々恥ずかしそうに目を逸らすだけで、なかなか言葉にしようとしない。しかしまあ、ここで無理に聞き出そうとせずとも良いだろう。彼が話したいと思うまで待つとする。
「その」
しばらくして、鴉が短く、言葉を発した。が、なかなか次が出てこない。
「アハハ、鴉は恥ずかしがり屋さんだなあ」
「ちがっ! ……うんだ。その」
横から鷹が囃し立てると、反論するように言葉を続けた。
「満足したから。礼にと、思って。その。俺の宝物で、よければ」
やはり彼は言葉に不自由だった。あの、その、とハッキリしない様子でぼそぼそと告げては、部屋を出て行こうとする。これはついてこいと言うことなのだろうか。
菫に一言外出の断りを入れ、すぐに部屋を出る。鷹も面白そうに笑みを残し空気に溶けた。きっとそのまま付いてくるのだろう。
「宝物って、見せてくれるの?」
追いかけて後ろから声をかけると、彼は益々早足になる。付いてきて欲しいのか欲しくないのかどっちなのだと言いたいが、まあ、前者だろう。天の邪鬼であると言うことを寛大に受け入れると、彼とのコミュニケーションは存外上手くいく。
スピードについて行けずに距離を離される度、彼はこちらを振り返るように立ち止まり、また前に進むのを繰り返す。一緒に並んでくれれば良いのに、とは当然声にしない。
三つ上の階まで上がってくると、長い階段にちょっと息が乱れた。鴉も少々申し訳なく思っているのだろうか、眉尻がやや下がっているような気がする。
息が上がっているのを心配するかのように、鴉は手を伸ばす。が、ルカに触れようとする手前で、戸惑うように宙をうろうろさせた。
しかし彼は、ハッと手を引っ込める。そして口元の衣を上げ、顔を覆い隠してしまう。きびすを返して、彼は自室の扉に手をかざした。
ぽう、と、光が僅かに揺れる。解呪の妖気を当てたのだろう。そしてそのままするりと中へ入っていった。
きっと、入っても良いのだろう。ルカも意を決したように、中へと足を踏み入れた。
光の扉を潜ると、そこは、別世界だった。
基本的な作りはルカの部屋と大差ない。しかし、その状態は惨劇としか表現しようが無かった。
――鷹が空気に身を溶かした理由が、わかった……!
視界の暴力と同時に、鼻腔にも猛烈なる攻撃が襲いかかる。目に染みるほどの酷い匂いに、ルカは、うっと声を漏らした。
一言で言うと、そこは、ゴミの山だった。
すでに原形を留めていない動物の死骸が其処此処で腐臭をまき散らしている。枯れた草花は黒く散乱し、どこで拾ってきたのか分からない人間たちの雑貨――割れた食器やガラスビンなど――が所狭しと並べられている。
しかしガラクタばかりでは無く、そこには本物の宝石の原石やら、どこから手に入れてきたのか美しい彫刻のネックレスなど、高価なものも同列に並べられている。
酷い匂いにじわりと涙がこぼれてくるが、流石に鴉に見せるわけにもいくまい。ルカは必死で頬を拭った。
一方で、鴉はというと、酷い以外に言いようが無い部屋の中をうっとりと見回している。先ほどの料理を食べたときと同じ表情だ。これは、相当この部屋を気に入っていると見て間違いないのだろう。
いくつか見せたいものでもあるのだろうか。腐ったゴミの山をかき分けていき、目的のものを探している。もちろん、腐った動物の死骸なども平気で触れ、除けることによって道を作っているわけだ。
あんなものを平気で触れる気が知れない。というより、何を見せるにせよ、今の状態の彼の手で触れて欲しくないと、必死で脳内抵抗をした。
決して彼の感覚を否定したいわけではないが、正直、ここまで汚いものに対する抵抗がないのは、ついて行けない。
どうやって彼の宝物から逃げようか、ルカはそればかり考えていた。
ずいぶん奥まで行っていたのだろう。彼は洋服の所々を汚した状態で戻ってきた。満足げな表情をしていることから、目的のものが見つかったということは、理解できる。
しかし、彼が手に包みこんでいる物体。それを見せられて――万が一、触れるような状況にでもなったとしたら、ルカは倒れ込む自信があった。
そして、もう一つ。実は先ほどから大きな問題が発生している。ルカはぎゅっと手を握り、何とか立っている状態ではあるのだが。もう少しで、リバースしそうだ。
昼食を食べたばかりというのが完全に徒となっている。お腹いっぱい胃も満足な状態で、この臭気に晒されているのだ。油断すれば、一気に逆流しかねない。というか、油断せずとも、もう逆流しそうである。
ルカの表情は強ばっているのだろう。精一杯、微笑もうとしているのだが、目も染みるし、涙はこぼれそうだしでままならない。
そんな明らかに不愉快ともとれそうなルカの顔に気がついたのだろう。鴉はハッとしたように、ルカを見、眉をつり上げた。
「余計な世話だったか」
絞り出した声に、怒りがにじみ出ている。彼の宝物を否定された気持ちにもなったのだろう。先ほどまでの上機嫌な彼は、どこにも居なかった。
ルカは当然否定しようとした。が、「違う」と口を開いたところで、大きく息を吸い込んでしまう。
瞬間、胃の中の空気が混じり合い、気道に食道にと臭気が混じり合った。ぶわりと涙が流れ出し、大きく目を開く。胃液が逆流してきて、口元を押さえた。
ごめんなさい。その言葉すら告げられず、ルカは部屋を飛び出した――。
鴉は汚部屋の主です。
うっかり彼を怒らせちゃいました。




