人か、妖魔か(3)
ぼんやりとルカは、外の景色を見つめていた。
外はすっかり夜の景色。新月の峰から帰還して、そのまま一日走り回ってようやく、ひと息つくことが出来た。
火ノ鹿への対策をはじめ、やらなければいけないことは山積している。明日からは特に、妖気の扱い方に関する習得と、宵闇の冬に向けての準備を進めなければいけない。
早く眠らなければと思うのに、なんだか身体に不思議と疲労感が残っていなくて――代わりに、例えようのない空腹感だけがあるようで、困惑する。
しかし、こうして夜空に浮かぶ三日月を見つめていると、じわじわと自分の熱が満たされている気がして、心地良い。
新月の峰から満月へ帰ろうとした時のことを思い出す。あの時もまた、自分は別物になってしまったのかと実感した。
来た道を戻るはずなのに、暗闇がなかなか晴れない。まるで迷宮に彷徨い込んだような感覚を覚えた。自分の形をとるのも難しいということを肌で感じながら、どうにか前に進んだのだった。
きっとあの空間は、妖気を歪ませる何かの作用があるのだろう。
妖気に満ちたルカの身体では、形をとるのが難しいという意味を思い知ることになった。
ルカの魔力で満ちたペンダントが導いてくれなかったら、迷子になってしまったかもしれない。
ふう、とルカは息を吐く。
アルヴィンが気をつけろと言っていたのは、新月の峰の特殊な環境のことだったらしい。ともあれ、無事に帰還できたことにほっとひと息。今日も早く眠らなければと、ごそりと布団をかぶる。
そうして頭を埋めたとき、何故だか、寝具の布越しに、強い色彩が見えた気がした。
弾かれたようにルカは布団を押しのける。
無意識に手を伸ばした空中。鮮やかな碧色をその手に掴み、ルカは大きく声を出した。
「待って! エリューティオ様!」
今までは、近くにいることがぼんやりと分かっただけだった。
しかし、姿は見えないのにその存在の色がはっきり見えるようになったのは、この変化した身体のせいなのだろう。
確かに腕を掴めたのか、単に彼が大人しく掴まってくれただけだったのか。
ルカは半身を起こすと、目の前の空気がゆらりと歪む。そうして溶け合った碧色は、やがて長い縹色の髪に姿を変えた。
ルカの側に膝をついて、ひっそりと佇むエリューティオ。少し驚いたような顔を見せたのは、ルカが彼の存在を見つけたからだろうか。
少し前のめりになれば触れ合うほどの距離なのに、彼はそれ以上、ルカに近づこうとしなかった。眉間に皺を寄せて、苦々しい顔をしている。
掴まったことは不本意だったのだろうか。しかし、今、ルカにとってはどうでも良い。
彼と直接話すことすら出来なかったルカにとって、彼と顔を合わせられたこと――それが何よりも嬉しかった。
「ご無事で、良かったです。貴方のお顔が見られて、安心しました」
ルカの与り知らぬところで、彼が動いていることは話に聞いていた。
終焉の残滓を払っていると、ロディ・ルゥは言っていた。さほど危険ではないとは聞いているが、不安がないといえば嘘になる。
だからルカは、自分から彼を引き寄せる。
もう、自分の想いについては彼に伝えている。何も、戸惑うことなどない。
彼はルカから距離をとろうとしているが、それなら尚更。今更彼を手放すつもりなど、今のルカには微塵もないのだから。
その身を寄せると、びくりと彼の肩は震えた。
驚いたように目を見開いたのち――戸惑いでゆっくりと両目を閉じる彼の表情が愛しい。
月の光が彼の頬を照らす。完全なる左右対称。今は冷たくすら感じるような無表情だが、彼なりにルカのことを考えてくれているのは知っていた。
その涼しげな表情が懐かしくて、ふと頬を緩めると、彼は呆れるようにため息をつく。
「其方はそんなにも阿呆だったのか。……どうして魔力を切り離した」
「え?」
当然と言えば当然なのかもしれない。
しかし、何も言わずとも彼は、ルカに起こった変化に気がついてくれた。明らかに怒っている様子だが、くしゃりと笑みがこぼれてしまうのは仕方がないことだろう。
「そんなの、決まってるじゃないですか。私は、皆の役に立ちたいだけです」
「役に立つ? 十分ではないか。其方はこの峰を十分に支えている。妖気だって提供しているし、人化する皆のことでも心を砕いているだろう」
「それでも、まだ足りないのです」
「其方が妖魔になってまでして、叶えることではないだろう!」
「別に完全に妖魔になったというわけでは……。エリューティオ様、何をそこまで怒っているのですか?」
「何故そんなに冷静でいられるのだ!」
怒りに震える碧色の瞳。エリューティオは珍しく、その感情を露わにした。
眉間に皺を寄せて、ぎゅっと口を閉じる。そうしてルカの両肩を押さえるように距離をとり、苦々しそうに吐き出した。
「私が望んでいたのは、そのようなことではない」
「そのようなこと?」
「……其方が、其方でなくなってしまう」
ルカ自身も感じてた変化。身体の根本から別の生き物になってしまった違和感を、エリューティオは指摘しているのだろう。
体内に妖気だけが残って、少なくとも人とは別のものになってしまった。体温を失い、まるで人形を動かすような感覚は、どうにも説明しがたい。
それらの変化は自覚しているものの、ルカはゆっくりと首を横に振った。
「エリューティオ様、それは、違いますし、今更です。……私は、私です。魔力をこの体から抜いたからと言って、何も、変わりません」
「妖気を抜くならまだしも、なぜ魔力を抜いた」
「その方が、きっと、役に立てると思ったからです。この峰では、特に」
「君には、名を縛った妖魔たちがいるだろう。……この私だってそうだが。そこまでせずとも、任してくれたら良いのだ」
「でも! 貴方は、私の望みなどなにも汲み取ってはくれていないではないですか!」
ルカの訴えに、エリューティオの身体が強ばった。
以前も、彼に伝えたのに、彼は理解してくれはしない。
しかし、ルカがこのような行動を起こしては、素通りするわけにもいかなかったのだろう。いつかのように逃げてしまわずに、厳しい表情で、ルカを見つめてくる。
「何度でも言います。貴方は、私のために動いてくれているのは知っています。でも、それを私は望まない。だったら、自分で動くしかないではないですか!」
「私を信用していないのか」
「そう言う問題ではありません! エリューティオ様は、単に頑固すぎるのです! 馬鹿ですか!」
「……っ」
言われ慣れない暴言に固まった彼に向かって、ルカはさらに言葉を付け足す。
「終焉の話は聞きました。貴方が一人で動いていることも」
「……其方は、終焉には関わるな。隠れて居れば良い。そのために其方に火ノ鹿をあてがったのだろう」
「それが嫌だから! だから、妖気を残したんですよ」
それだけ告げると、ルカは勢いよくエリューティオに向かって抱きついた。距離を取る彼を離すまいと前のめりに手を伸ばすと、勢い余って彼を突き飛ばすような形になる。
寝台に二人。とうとうエリューティオに覆いかぶさるような形で押し倒し、ルカは彼の目を見た。
離れようとするくらい、本来、彼の力では容易だろう。
しかし、エリューティオはルカの抱擁を受け入れているようだった。じいと、碧色の瞳で、ルカを見るばかり。その瞳にはもう、怒りの色はない。
「逃げようったって、そうは行きませんからね。貴方の居場所が見えるようになったのは、嬉しい誤算でした。私が心配で、様子を見ずにいられないのなら――ちゃんと、隣に立っていてください」
「……」
「私のこと、お嫌いではない――のですよ、ね?」
少し不安げに訊ねてみると、エリューティオは困ったように目を背ける。
その表情はまるで人間みたいに感じるのは、ルカの勘違いではないだろう。ばつの悪そうな表情も、人間じみていて、血が通っているようだった。
「それに、今更私を火ノ鹿にあてがおうとしても、もう遅いですからね。色々、動き回ってしまいましたから」
「……」
「結果として、私は妖魔に近づいた。ついでに隣国を相手に喧嘩を仕掛けちゃいました。……貴方と一緒にいるためにここまでやってるんですから、もう引き返せませんよ?」
責任とってくださいね、と笑うと、エリューティオは本当に困ったように、眉間に皺を寄せる。
「其方は本当に変わったな。前から行動力はあったが――何故、そこまで私にこだわる」
「変わりましたか? ……多分それは、吹っ切れただけですよ。ちゃんと意思を示さないと、エリューティオ様ってば、余計なことばかりするんですから」
「余計なことをしているのは其方だろう」
「違います! エリューティオ様です!」
そう両目を釣り上げると、ぎゅっと回した腕に力を込めた。そのままエリューティオの胸に顔を埋める形になる。
「いい加減、諦めて、私のそばにいてください。余計なことをすると言うくらいなら、ちゃんと私を監視してください」
「……」
「でないと、もっと好き勝手しますよ? 火ノ鹿なんて、追い出してしまいますからね?」
「其方は、本当に――」
顔を上げると、面食らったような顔をしたエリューティオと目があった。
余裕がなさそうな彼の様子が愛しい。くすくすと笑うと、彼がますます居所をなくした子供のような目をするのが可笑しかった。
「貴方の考えが分かるわけではありません。でも、もっと、私に甘えて良いのです。――貴方がどう思おうと、私にとって……貴方は婚約者……なのですから」
「どうしてそこで尻すぼみになる」
「もう! だったら堂々と言い切れるくらい、私に自信をください!」
「……男を押し倒しておいて、今更その言い草はなかろう」
「押し倒し……あっ!」
勢いに任せてエリューティオに覆いかぶさる形になってしまっていることに、今更ながら気がついた。瞬間、身体中の熱という熱が顔に集まってきたような、気恥ずかしい気持ちになって、身体を起こす。
がばりと彼から離れたところで、ルカは両手で頬を押さえた。
今までどこかに行ってしまっていた体温が戻ってきたようで、こそばゆい。
「あっ……えっと。これは、その。エリューティオ様に逃げられないようにと」
「私が遁甲しても、其方にはもう、私の居場所が分かるのだろう?」
「ですが! 姿が見えなければお話だってできません!」
「もういい」
短く言葉を切って、エリューティオは立ち上がる。待って、と彼の手を掴んだところで、彼はそっと、ルカを見下ろした。
少し距離が開いただけで、とたんに不安になる。
このままどこかに消えてしまって、もう戻ってはくれなくなるのでは――そう考えると、手を離したくなくなってしまう。
「よく、ありません。逃がしません」
行かないで。
そう伝えたくて、声が震えた。
そんなルカを見下ろす冷たい瞳。しばらくの沈黙が胸に痛くて、ルカは握りしめる手に、力を込めた。
「私は、其方が火ノ鹿の元へ行くのが良いと思う。この意見は変わりはしない。おそらく、鷹もそう考えているだろう」
気持ちを伝えたところで、彼の返答は無慈悲だった。しくしくと心が痛んで、唇をぎゅっと引き結ぶ。
何も言えなくなってしまったルカを見つめて、エリューティオは呆れたように、静かに、静かに息を吐いた。
「……だが、其方がそれを望まぬと言うなら、足掻いてみれば良い」
「!」
しかし、思いがけぬ言葉が続いて、ルカは方を震わせる。
あ、とぽろりと声が漏れるが、それ以上、何も言葉にすることは出来なくなってしまった。
そうして両目を見開いたまま彼の顔を見つめていると、エリューティオはなんとも言えない表情で、目を背けた。
「……他の妖魔の気持ちが分かった」
「?」
「其方は少々、しつこ過ぎる」
「えっ」
「人を捨てることなど、せずとも良かったのに」
吐き捨てるように呟いて、エリューティオは、そっと窓辺に歩いて行く。
そうして欠けた月を見上げた後、下界の方へと目を向けたようだった。
額を手で押さえて、後悔を滲ませるように彼は首を横に振る。
そのまま外へ飛び出していってしまいそうで、ルカはたまらず声をかけた。――待って下さい、と。
でなければ、彼はもう、戻ってきてくれなさそうな気がしてしまって。
「エリューティオ様。今日も、行かれるのですか? 終焉の残滓を狩りに」
「当然だ」
「だったらちゃんと! 帰って来てください! 私、大人しくここで待ってますから」
「……大人しく?」
「うっ」
やや言葉の綾といったものも混じっているかもしれないが、戻って来て欲しいのはルカの本心だ。ずばりと痛いところを突かれたが、めげずにルカは声をかける。
「せめて、朝食はご一緒しましょう? ちゃんと、エリューティオ様の分もご用意して待ってますから。だから無理せず、どうかご無事で、帰ってきてください」
「……」
「エリューティオ様が帰って来なければ、私、空腹で倒れますからね! 私の健康を守るためにも、お願いしましたからね!」
「ずいぶんな脅しだな」
くく、と、ようやくエリューティオが笑って見せたところで、ルカは肩をなでおろす。今まで張りつめていた空気が緩んで、ほっと息を吐いた。
エリューティオは少し名残惜しげに振り返った後、再び外を見やる。
「――行ってくる」
そうして、短く告げたのち、音もなく空気に溶けた。
碧色の光が遠くなって行くのを感じ、いよいよ彼は、狩りに赴いたことを理解する。
――エリューティオ様、ちょっとは理解してくれたのかな。
幾ばくかの不安にぎゅっと手を握りしめるが、ルカはひとり首を横に振った。
――笑ってくれたから、きっと、大丈夫。
大丈夫だと、思いたい。
どきどきと高鳴る胸を自覚しながら、ルカは布団に潜り込んだ。
人か、妖魔か。自分が完全に妖魔になってしまったわけではないのだろう。
とろとろと眠気はあるし、胸もどきどきしている。これはきっと、人としての反応。
力を持ち得なかった以前と同じ。ルカはきっと、どちらでもない、中途半端な存在なのだろう。でも、それでいい。自分は自分、それ以上でも、それ以下でもないのだから。
――おやすみなさい、エリューティオ様。
願わくば、目を覚ましたときに貴方の顔が見られますように。そう祈りながら、目を閉じる。
そのままルカは、驚くほどゆっくりと眠っていたらしい。
ぼんやりとした頭で目を開いたとき、縹色の髪がゆったりとソファーに流れているのを見つけて起き上がる。
所在なさげな彼と目があったとき、ルカはふふふ、と微笑んだ。
「おはようございます、エリューティオ様」
また、彼と過ごす朝が当たり前になれば良い。そう願ってしまうのは、仕方が無いことなのだろう。
風の主との再会。彼はルカの元へ戻ってきてくれました。
次回、宵闇の冬支度です。




