人か、妖魔か(2)
ざあ、とルカの周囲に風が渦巻く。静かの世界を染める強い光が、足元から沸き起こる。
石墨が打ち込んだ楔から光は天へと舞い上がり、ぽっかりと魔方陣が浮かび上がる。
意味を持たぬ古き言語。それは、かつてオミが己の目元に記されていたものとよく似ている。きっちりと整然と並べられた言語。数多くの祈りを込めた紋様は、やがて無色透明へと色を変えた。
地面に描かれた方の魔方陣は、すでに目では見ることが出来なくなっている。しかし、石墨は体勢を低くし、その魔法陣を描いた場所にそっと手を触れた。
「さて。大地に両手をつくがよい。そのまま、この陣に向かって、息を吹きかけてみよ」
「? 息を?」
「人の気を抜くなら、それが最もやりやすかろう」
「……」
人の気を抜く。そんな言われ方をしてしまうと、まるでルカが人ではなくなってしまうみたいではないか。
ぴりっと心が荒立つが、それでもルカは首を縦に振る。
「わかったわ」
悩んでいても、何もならないことを理解している。
だからこそ、ひと思いにと魔方陣のあった場所にふう、と息を吹きかけた。
瞬間、ずわり、と自分の身体の中から熱が抜けていくのを自覚した。
頭のてっぺんから足のつま先まで、体温を一気に奪われて力が抜ける。がくり、と身体が崩れるが、地面についていた手でどうにかそれを支えた。
無色透明になったはずの魔方陣には、一気にルカの力が注入されたからだろうか、真白に染まりはじめる。まるで空っぽになった砂時計が白の砂で満たされていくような光景。しかし、白の輝きが強くなればなるほどに、ルカは己を支える力を失っていく。
結局ごろりと肩から地面へと崩れ落ちるしかなくなってしまった。
「ルカ!」
「ルカ様!」
向こうからロディ・ルゥたちの焦るような声が聞こえるが、側によっては来られないのだろう。
仰向けになると、困惑したまま前のめりになっている二人の姿が目に入った。ルカはくしゃりと笑っては、大丈夫、と弱々しく話しかけた。
そうして空を見上げると、空に映し出された魔方陣も、白へと変化しているのが目に入った。
あれが自分の持っていた魔力の姿のだろうか。何の汚れもない真っ白な色彩――つい先日までは空っぽだったはずのルカは、突然妖気と魔力を手に入れて――それでいて、今度はまた、引き抜いて――。
もともと持っていなかったものなのに、一度手に入れてしまったら、再び手放すのが惜しくなるような、空虚な気持ちでぼんやりと見ていた。
やがて引き出す魔力が無くなってしまったのだろう――眩いほどだった白の光が、今度は柔らかくて温かなものへと変化する。
身体から熱を抜かれるような感覚は無くなって、ルカはほう、と息を吐いた。
「……結構な量だのう」
空を見上げながら石墨が呆れたようにつぶやく。ロディ・ルゥも頬を引きつらせていることから、かなり規格外のものであると自覚した。
「其方の場合、移す器があるから何とかなるか。ふむ。親に感謝するがよいぞ」
「へ?」
「ほれ。胸の――空っぽの石を持っておろう? 出せるか?」
「?」
トントン、そう石墨が指さしたのは、己の胸元。釣られてルカも自分の胸元を押さえて、ハッとする。その場所に石など、ひとつしか無い。
身体を地面に横たえたまま、ルカは己の服の内側から、するりと件の石を取り出した。それはペンダントトップになっていて、空気中にかざしては、まるで水晶玉のようにきらめく。
ルカは不思議そうな眼差しのまま、その透明の石を空へと掲げた。これが、何の役に立つのだろうと不思議に思ったからこそ。
そのペンダントはルカが幼きときから、肌身離さずに持っていたものだった。どんなときも身につけているように、そう教え込まれたが、いわゆる験担ぎのようなものでしかなかった。
ずっと身につけているためすでに身体の一部のようになっているが――ただそれだけだった。
しかし、石墨は意味深に、口もとをにい、と笑みの形にする。
そして石墨は天へと両手をかざした。
一度空へと移動させたルカの魔力で満たされた魔方陣へとその手を向けては、一気に地面に向かって振り落とす。
「!!」
瞬間、まるで雨のように、光の粒が一気に地面へと――正確にはルカの胸元へと降り落ちてきた。眩しくて目を閉じるが、瞼の裏側まで眩く焼き付くような光で、今度は両目を手で押さえる。
呼吸するのも苦しくなって身体を強ばらせたまま、じっとしていると、やがて抜き出した力を全て胸元の石が吸い込んだからか、光が納まったような気がする。
恐る恐る目を開けると、何事もなかったかのように、元の静かの世界だけが広がっていた。
「……」
先ほどまで身体を支えることも出来なかったはずなのに、すでに身体も元へと戻っているようだった。
ルカはひょいと身体を起こしては、己の手を開いたり握ったりしてみる。何一つ不自由なく身体は動くが、どこかが違う。
体温、そして身体へ巡るはずの血の温度。あるいは、皮膚の細胞一つ一つ。見た目は変わらないはずなのに、自身の細胞から別のものへと変化してしまった気がして、少し怖い。
ぎゅっと胸のペンダントを握りしめると、その色彩はやわらかな白へ。
――そして同時に気がついた。ペンダントを握る左手の薬指。レイルピリア、と名付けられた石の色彩が――ほんの僅かに、赤く染まっている気がしたから。
――色彩が、変化して見える……これ、もしかして。
火ノ鹿の、色?
たった一度の口づけで、彼はルカの色を染めたのだという。本当に、微かな変化ではないが、確実に彼に染められていることを自覚して愕然とする。
焦って顔を上げると、目に映った光景に、ルカは更に息を呑んだ。
「……ロディ・ルゥ、貴方」
すぐ側に立っている妖魔は三人。石墨と、赤薔薇と、そしてロディ・ルゥこと白雪。
他の二人の印象はそう変わらなかったけれども、ロディ・ルゥだけは、今までの彼とは違って見えから。
繊細な銀色の長い髪に、灰色の瞳。どことなく白に近い色彩の印象を持っていたはずの彼が、黒っぽい何かに染まって見える。妖魔の皆が“色彩”と呼んでいたものの正体をはじめて目の当たりにして戸惑った。
表面上の色彩と、彼が持つ内面の色彩。それがまったく別物だと言うことを理解して、ルカは瞬く。
すっと視線を横へ移動してみると、赤薔薇は赤。石墨も、赤が強い灰色――彼女らの身体の表面と似た色彩を宿しているようにも見える。集中して目をこらすと、その色彩、そして存在を強く感じて、言葉を失った。
「大丈夫ですか、ルカ様」
周囲の魔方陣が消えたことを確認した後、ロディ・ルゥがルカの前まで歩いてくる。そして片膝をついて、ルカの手をとった。
「ああ、本当に。純粋な妖気だけが残っているようですね。――流石だね、石墨」
「伊達に墓守はしておらんぞ?」
「そのようだ。……お立ちになれますか、ルカ様」
「ええ」
戸惑いながらも、ルカはロディ・ルゥを支えに立ち上がろうとする。が、身体を動かすエネルギーの根本が、力のいれ具合が、間接の軋みが――身体を動かすという行為の仕方が根本的に変わってしまったことに気がついたとき、途方もない気持ちになった。
ぽっかりと腹の中が空洞になってしまった気がして、絶望する。
ぺたり、と、尻餅をついて、ロディ・ルゥを見上げる。ルカ様、と呼ぶ彼の声になかなか応えられない。
「どうしよう――どうしよう、ロディ・ルゥ」
「?」
「お腹すいてないのに――お腹、すいた」
うまい表現が見つからない。
まるで、人型をした空っぽの何かだ。身体の中がただの空洞になったような感覚を覚えて、途方に暮れる。
――私は、私。それは変わらないのに……。
それでも、ルカは息を呑む。人とは、さらにかけ離れた存在になってしまったことを理解したから。
「どうしよう……私」
望んだはずのことなのに、己の変化に頭が付いていかない。何か言わなければ、そう思うのに、上手く言葉に出来ないでいる。
そのままじっと座り込でしまって、目の前のロディ・ルゥは困った様に笑う。彼もまたかける言葉に困っていると、赤薔薇が持ってきていた風呂敷の包みを開ける。そうしてずいっと、ルカの目の前に差し出した。
「ほら」
「?」
「腹。すいたって、言ったから」
「……」
そう言う意味じゃないんだけどな。と、苦笑いを浮かべて、ルカは包まれていた箱に目をやる。そこには彩り豊かな細工菓子が詰まっていて、甘い匂いが漂った。
一緒に用意してあったらしい器。さらに懐紙、と呼ばれる紙の上に、彼女はそっと秋の彩り菓子を乗せた。こういうものを、ゲッショウで見たと、少し得意そうに話している。
ああ、これは彼女なりの気遣いなのだろうかと、ルカも肩をすくめる。
そして赤薔薇は楊枝でぷつりと細工菓子を切った。そのまままるで、雛鳥に餌をやるように、ルカの口もとへそっと手を差し出す。
彼女の目は真剣だった。少し気恥ずかしいが、突っぱねるわけにもいかなくて、ルカもまた小さく口を開いた。
そうして赤薔薇は、器用に菓子を放り込んだ。ねっとりとした食感が舌の上に広がってゆく。
そこから広がる優しい甘さは変わらなくて、ざわめく心が凪いでゆく。
「……美味しい」
美味しい。
ちゃんと、美味しい。
身体の変化を感じながらも、以前と同じ感覚があることに救われた気がする。
「ありがとう、赤薔薇。ちゃんと、美味しいよ」
「そうか」
「私、全部が全部、変わったわけじゃ、ないんだね」
「当たり前だ」
赤薔薇の言葉に、こくりと頷いて口を開けると、彼女がもうひと切れ放り込んでくれる。なんだか子供に戻った気分で照れたように笑った。




