人か、妖魔か(1)
「妾は番人じゃ。ああして、永久の眠りを選んだ妖魔を見守る――な」
そして――と笑って、石墨は足を進める。
「最果てへと誘う、道先案内人でもある」
転移の陣の先。たどり着いたのは、夜咲き峰ではどこの峰でも目にすることができる、螺旋階段が続く空間だった。
しかし、いつもと違って見えるのは、その空間に底が見えないということだろう。
深い闇が続いているだけで、階下の様子が全くわからない。
「なるほど、こうなっていたのか――」
隣でロディ・ルゥがゴクリと息を呑むのがわかった。どうやら彼もまた、この空間に来たことは初めてだったらしい。
さらに隣では、ぐらりと空気が揺らめき、赤の影が現れる。
「――ん」
ここまできてようやく形をとれたらしい赤薔薇は、それだけ呟くと、ルカの腰に手を回す。
何を声かけるわけでもなく、持ってきた風呂敷と一緒にルカを抱きかかえると、ふわりと宙に飛んだ。
「わっ……わわっ。赤薔薇!?」
「降りる」
相変わらずの独特のテンポで、彼女は螺旋階段の中央、深い、深い闇へと降りてゆく。
しかし、赤薔薇の表情がいつもと違うようにも感じる。鉄面皮に磨きがかかり、まるで訝しむような色があった。
ルカたちの隣にロディ・ルゥも並ぶ。ルカのお守り役を奪われ、苦笑いを浮かべた彼は、赤薔薇と並んで下へと降りてゆく。いつもより慎重になっているようで、彼の瞳には見たことのない類いの色が見えた。
「!」
深い深い地の底へと向かっていくと、周囲の空気が変化してルカは目を見開いた。
「わあっ」
鬱屈とした闇しか存在しない空間から、やがてキラキラと、まるで星のような輝きが見え始めた。
周囲に漂う光は、まるで星祭りの夜に見た生命の輝きに近い――けれども、それとはまた別のものにも感じる。
「すごいすごい、何っ!?」
その幻想的な風景に単純に高揚してしまい、ルカは目を輝かせた。先ほどの部屋で覚えた何とも言えない感情が、その不思議な光景に塗りつぶされてゆく。
暗闇の中にぼんやり光る輝きに目を奪われていると、さらに景色が変わってくる。
周囲の色彩が、闇色から紺色へ。そして宵闇の深い青へと変化する。風がふわりと舞い起こり、気がつけば周囲の螺旋階段などなくなってしまっていた。
「ふふ、生きたままここに足を踏み入れる人の子がおるとはのう――」
異なことじゃ、と、石墨が笑っている。彼女の言葉の意味が分からなくて、ルカは目を丸めたまま首を傾けた。
「この、ずっとずっと先が世界の果て。我々妖魔が、最期にたどり着くべき場所じゃ」
「最期……? でも、妖魔の終わりは、さっきの部屋の――」
ルカの疑問に答えぬまま、石墨がそっと手を前に出す。その指さす方向。広がる大地に、ルカは息を呑んだ。
先ほどまで真下に降りているだけだったはずなのに、気がつけば今度は、前に向かって飛んでいるような形になっている。
気がつけば、草の香りがふわりと漂ってきた。
季節はもう秋が折り返そうとしているのに、まるで初夏に差し掛かる若葉の、瑞々しい香りのように感じる。キラキラと星が輝く空に、広がる草原。どこまでも続く大地の果てには、川が流れ、丸い月が輝く。
まるで、峰の外の景色のようでもある。しかし、このような景色、夜咲き峰から見下ろした先には見えない。
それに、とルカは首を傾げた。
「いつの間に、夜になってたのかしら」
「ふふ、ここだけじゃ。裏側に出れば、まだ太陽が輝いているぞ?」
「……? 裏側?」
ルカの疑問に、石墨はニィ、と孤を描いた口もとをその袖で隠してしまう。朱色の鮮やかな化粧で染まった目元がくいっと上がって、妖艶に微笑む。
「ふふ――この辺で良かろう? あまり遠くへ行っても、戻るのが大変だからの。ぴくにっく、というやつじゃ」
「……石墨。よりにもよって――まさか、こんな場所で」
「最果てでもあるまい。それ以外は広大な土地が広がっているだけじゃ。妾が活用せんで誰が活用するのじゃ?」
ロディ・ルゥが渋い顔を見せるが、石墨はどこ吹く風。何が問題あるのかはルカにとっても良く分からないが、この場所が普通でないことくらいは理解できている。
「――最果て。私には、見えない」
「私もだよ、赤薔薇。あれは、私たちが今のような状態では、知り得ないのかもしれないな」
「……私は。いつか。向かうその時に。……たどり着けるのだろうか」
二人が厳しい顔で、先ほど石墨が指差した先の空を見ている。
どういうこと? と訊ねると、赤薔薇が困ったように肩をすくめた。
ふふ、と笑う石墨は、高度を落として行く。それに続いてロディ・ルゥが。そして赤薔薇も、大地へと足をつけた。
久しぶりにまともに飛行をしてもらい、ルカの足はふらついた。
くらりと体勢を崩すと、それを赤薔薇が受け止める。両手で彼女の腕を掴んで、そっとその腕の中から抜けた。
風がそよぎ、ルカの足首ほどまである草が、ざっと波打っている。
前を見ると、ぽっかり浮かんだ月の形に、なんとも言えない違和感を覚えた。
「――満月?」
本来、この季節の月は欠けている。冬に向かって丸く形を変えている最中ではあるが、満月になるにはまだ早い。
それに、秋の月が満ちるとき、やがて月は存在を眩ましてしまうことがルカにとっての常識だった。冬の間、月はその姿をいずこかへ消してしまう。そして、昇月の夜までは出会うことができないのだ。
「ここではいつも、あの形をしておる。夜の間は姿を隠すがの」
「夜の間? どうして?」
「異なことを。向こうの世界に顔を出すからに決まっておろう」
「向こう?」
「この世界とは裏側。普段皆が生活しておる場所じゃ。のう。ここが、まったく気の流れが違うこともわからぬか?」
「……」
石墨の言葉に、ルカは一歩二歩と足を前に進めた。
大地を踏みしめる感覚、風そよぎ、匂う若葉の香り。
どれも命あふれるものであるにも関わらず、ルカの心はどこか空虚だった。
「なんて、静かなのかしら」
誰もいない世界。それは、人だけではない。虫の音も、動物の息づかいも、鳥たちの羽ばたきも、何もない。世界という器だけがそこにあって、命も満ちているはずなのに、生き物の存在を感じられなかった。
「本当に、ここに広げるのですか? 赤薔薇」
「そうだ。はやくしろ」
しかし、いつまでも孤独でなどいられない。
賑やかな声が聞こえてきたかと思うと、後ろで言い争いをしている上級妖魔がふたり。上弦の峰と下弦の峰、それぞれの筆頭妖魔が何を揉めているのかと言うと、赤薔薇が手に持っていた風呂敷についてだった。
「随分と手なずけたようじゃの?」
「あはは……赤薔薇の目的は、その風呂敷の中身のようだけどね」
「……懐かしい形よの」
「?」
ゲッショウ風の包みを見つめては、満足げに目を細める。しかし、ここにいる妖魔たちの顔を確認しては、次は困ったように眉を寄せた。
「そういえば、敷物がないが――其方ら、素材は持ってきておるのか?」
「……」
「……」
石墨の言葉に、赤薔薇と白雪はお互い顔を見合わせる。そういえば……と呟きあい、目を伏せた。
「ルカ様、申し訳ありません。少し、配慮が足りなかったようです」
「へ?」
「……まさか、このような場所で“ピクニック”することになろうとは、露とも」
「その通りだ。石墨。貴女の部屋も、あったはず」
石墨を責めるとなると、この二人は妙に息が合ってきた。
二人がちらちら足元を見ていることで理解する。なるほど、地面にそのまま座ることを危惧しているのだろう。
むしろ、レオンも菫もいないこの状況で、彼らにその配慮があることにルカはびっくりすることになったわけだが。
「あー……私は気にしないと言えば、気にしないんだけど。でも、琥珀とか花梨は、いつも近場で素材採集して、何か作ってたような?」
妖魔の行動となると、ルカが忘れないはずがない。
宵闇で何度も目にしたことがある。何かものを作るとき、彼らは石や花を媒体としていたように感じる。
素材にするための向き不向きがあるのは承知しているが、基本的に、彼らは簡単な布などは、そのあたりにある自然素材から作れてしまうのではと思い込んでいた。
「ルカ様、この場所に、素材らしきものはございません」
「? そうなの?」
今立っている場所はだだっ広い草原ではあるが、向こうには森や、川のようなものだって見えた気がする。妖魔の移動速度については承知しているし、採取して来られないとは思えない。
それでも、ロディ・ルゥも赤薔薇も、肩をすくめるだけだった。
「ルカ様――ここはですね」
「ふふっ。随分脳天気よの。命なきものをどうやって素材にするのじゃ?」
「?」
「そもそも、何故其方をここに連れてきたと思っておる。其方、己の力を分かちたいのであろ? ならば、外気から余計な色彩を入れぬ場所に連れてくるのは当然ではないのか?」
「余計な色彩がない?」
ルカの目的を知っていたことよりも、彼女の話の内容が気になってしまう。
「左様。この場所には、妖気も、魔力も、何ひとつ、生命の力を持つものは存在せぬ――そうじゃの。……以前の、其方のようにの」
「……」
ルカは目を見開いた。石墨の言葉が全て理解できたとは思えない。しかし、自分に関することでとても重要なことを知らされた気がした。
「どういうこと?」
「あれを見てみよ」
「……月?」
石墨が指さしたのは、空に浮かぶ大きな月だった。その色彩は、ルカの髪の色に良く似ている。青白く輝くが、どこか、温もりすら感じるような。
「ここは地上とは裏側の世界。全ての母であるあの月は、夜になるとその身を向こうの世界へと移すが、普段はここに、こうして隠れておる」
「どうして?」
「それは妾にもわからぬ。だが、あれは地上に存在を現しながら、力をこちらに残す性質もある」
「……よく、わからない」
ルカが顔をしかめると、彼女は再びふふふ、と笑った。
理を理解するのは難しいか、と彼女は言った。それが、世界の根源と関わり、シンプルであれば、シンプルであるほど――他の言語に置き換えることが難しくなるのだろう。
「まあよい。ルカ。其方の性質は、あの月に良く似ておる――夜咲き峰を管理する適正があるのもその性質ゆえ、よのう」
「性質?」
「其方もかつて、力をこの地に隠しておったろう?」
「……!」
「魔力もない、妖気も持たぬ。そんな娘が何故地上で活動が可能だったと思う? それは、其方がこちらの世界の理で生きてきたからに他ならぬじゃろ?」
「ちょっと待って! どういうこと?」
「……これ以上は、長くなる。なに。ひとつひとつ、順番に行こうではないか」
そう告げて、石墨は己の袖からその細い指先を出した。
ほっそりとした指は、青白く、骨が浮き上がっているようにも見えた。妖魔だから、そう言った見た目と体調に関連性はないことくらいルカとて分かってきているが、それでも、見ていて不安にすらなる。
彼女の手を見たのは、これが初めてだったろうか。こんなのだっただろうか。過去の記憶と照らし合わせてみるが、どうにもぼんやりとしている。
そのまま石墨は、つつつ、と空気中に文字を書き起こしている。琥珀たちがやって見せたのと同じように、その文字はやがて光を帯びて、ルカたちの周囲を眩く照らした。
「白雪、赤薔薇。離れておれ。なぁに、これが終わったら、一服しようではないか。この場をどうするか、其方たちで話し合っておれ」
その前に、仕事じゃな。そう笑って、石墨はその光をルカの周囲に降らせた。
大地に楔が打たれていく。それはまるで円形を型どり、やがて彼女が描いた図形そのものを書き写しているようだった。
「それで、其方。どちらを選ぶのじゃ?」
「何が?」
「妖気と魔力。どちらを主体として残すのかと聞いておる」
「……っ」
石墨の質問に、ルカは咄嗟に答えられずに息を呑む。予想通りの反応だったのか、石墨はますます楽しそうに目を細めた。
「なぁに、迷うことはない。別に、どちらかを抜いたからといって、其方が別の存在になるようなことはないぞ? そもそも、同じ事を、風もしようとしていたでの」
「エリューティオ様も?」
「……いつだったか、其方を連れ出して、忘却の海へゆこうとしておったろ?」
「忘却の……?」
どこ? なんのこと? と、目を細めていると、彼女は更ににっこりと笑う。
「さあ、決めよ。でないと、儀式を進められぬではないか。其方は、どちらを残すのじゃ?」
混乱でいっぱいになったルカのことなど、待つ気はないらしい。すいっと手を上げていることから、決めなければ、どちらか勝手に決めてしまわれそうだった。
「……」
ルカは、息を呑んだ。
妖気と魔力。どちらを抜くのか。
ルカという存在は変わらないと言ったが、ルカにとってはそんなに軽い問題ではない。
――ここでもし、魔力と言ったら……私は、人間ではなくなってしまうのかしら。
――でも、それは……。
ルカだって気がついている。
抜くべきは、きっと魔力なのだろう。
妖気を主体として、夜咲き峰で生きる。それがきっと、妖魔とともに生きて行くに相応しい。
彼らのように不思議な力を使いこなせることになったら、自分にだって多くの者を守れるだろう。庇護されるだけでなく、矢面に立てる。それくらい、わかっているのに。
ルカはぎりっと両手を握りしめる。
分かっていても、言葉にするのが恐ろしい。
自分の存在が別物になってしまう気がして、心が空っぽになる。
それでも、ルカは前を見た。
力を失った妖魔がいる。
妖気が消え去り、人へと変化しつつある者たちがいる。
彼らは彼らで、その変化を受け入れようとしているではないか。
自分だけが、変わってしまうわけではない。
で、あれば。
で、あるならば。
「石墨、私から、魔力を抜いてちょうだい」
「ほう……?」
「私は、妖気を選ぶ。その力で、皆を護ることが出来るなら……!」
明らかに異なる世界で、ルカは自分の力の方向性を決めました。
次回、力を分割します。




