残り香
身体の芯はぽかぽかと。柔らかな光を帯びて守られている。
見上げる月は丸くて白い。高き峰の頂より手を伸ばすと、優しい眼差しを向けてくれるかのように煌めいた。
峰には花が咲き乱れる。ルカの足元から風がふわりと巻き起こっては、白や薄紅の花びらが夜空へと流れる。
夜咲き峰のあるべき姿。
花開く峰は光に包まれ、ルカは光の園をゆっくりと歩んでいく。
隣を征くは光の鷹。ルカの歩む先を示すかのように真っ直ぐ月へと羽ばたいていった。
――オミ……!
懐かしい後ろ姿を追うように、ルカは駆けた。
すると、ふわりと風がルカを包む。
腰を持ち上げられたかと思うと、月へ、月へと向かう足はやがて宙へと浮かび上がった。
――エリューティオ様?
目を丸めて、己の周囲を見回すけれども、彼の姿は見えない。けれども、ルカを支えるのは彼に違いない。そう信じて、真っ直ぐ、空へと向かう。
必死に月へと目を向け続けていたから、気がつかなかった。虹色の、侵蝕に。
ぬかるみに足を取られたかと思うと、浮き上がっていたはずの身体が引き戻される。
心がやがて何かに塗りつぶされる様な感覚がして、ルカは必死にもがいた。気を緩めると、ぼんやりと脳に膜がかかってしまい、それを必死に振り払う。
足元に目を向けると、いつの間にか虹色の沼が広がっていた。
時間とともに彩りを変える虹色は、輝きを帯びているはずなのに暗い。まるで深い闇に引きずられる様で、ルカは目を見開く。
助けてと声をあげたくても、身体がまるで支配された様に動かない。
嫌だ。嫌だ。
新月の夜。かつてのロディ・ルゥに支配されゆく恐怖を思い出し、身体が強張る。
呼吸が浅くなったルカの瞳に映る月。目指すべき彼方まで塗りつぶされ、やがて光の鷹は墜落する。
縋るべきものを失ったルカは、絶望に崩れゆく心に支配された。
助けてと、薄れゆく意識の中で唱えると、ルカの足元から風が巻き起こる。ルカの足を捕らえて離さぬ虹の沼を吹き飛ばす様に、強い力が噴き上がった。
***
「エリューティオ様っ!?」
払われる虹。身体中にこびりついた気持ち悪い何かが消えた瞬間、ルカはその身体を起こした。
夜空が虹色に覆われて、何かが閉じようとしていたはずなのに、ルカの目の前に広がるのは、いつも通りの空間だった。
小さな部屋の中央には、エリューティオの生まれ石が淡く輝く。いつも一緒に過ごしたソファーも、ルカが過ごすために用意してもらったテーブルも、何もかもがいつも通り。
「今の夢は……」
気がつけば、背中がぐっしょりと汗に濡れていた。秋の朝は肌寒く、寝具を引き寄せて、うずくまる。
「エリューティオ様」
悪い夢にうなされている間、側に居てくれたのだろうか。虹色を払った風の姿を求めて、ルカは周囲を見回す。
「――いない、か」
ルカの目の前に形を取らなくなった彼の部屋。しかし、まるで彼の残り香を感じ取っては、ルカはざわめいた心を鎮めた。
「エリューティオ様、ありがとうございます」
届くのかはわからない礼を告げては、ルカは胸を撫で下ろす。
まだ、足を捕らえる気持ち悪さが残っている。しかし、彼の部屋にいる限りは大丈夫、そう信じるしかない。
「大事ないか」
しかし、耳元で聞こえた声に目を丸くする。先ほどは誰もいないと感じたのに、宙から突然、紅色が溶け出してくる。
芯の強い女性の声。何事、と思った瞬間、ルカの身体は硬直した。
「うなされていた」
「あ……えっ……赤薔薇」
「ローケイディアだ」
「赤薔薇……!」
簡単に名は呼ばぬ、と強い意思を見せるが、正直ルカの心は今、それどころではなかった。
目の前に、赤薔薇の顔がある。そう、まるで、少しでも動いたら唇が触れてしまうほどに。
ルカは半身を起こしたままベッドの上に座り込んでいる。そして赤薔薇はと言うと、ルカにのし掛かるような形でルカを組み敷いていた。
おそらく彼女は無意識なのだろうが、完全に迫られるような体勢になってしまい、ルカの心臓は飛び出しそうだった。
「ちょ……何。待って、赤薔薇」
「どうした。躊躇しないで。名を。呼べ」
「ひっ……ひええっ」
声の振動が、あるいは息が、直接肌に届く。
陶器のような白い肌。
深紅の瞳は澄んでいて、血薔薇の死神という名前とは裏腹に、彼女はどこまでも無垢で汚れがない。
完璧に整った美しい顔に、女ながらもドキドキするのは仕方ないことだと思う。加えてこの体勢だ。もはやどうしていいか分からない。
「早く呼べ。今呼べ」
「ま、ままま、待って……!」
そうだった。赤薔薇は思い立ったら吉日。猪突猛進娘だった。
ぐっと肩を押され押し倒されたところで、ルカは悲鳴を上げる。
「誰か! ちょっと! 助けて! ああもうやめて赤薔薇!!」
そこまで叫んだところで、慌てて飛び込んできたのはアルヴィンだった。
どうやら奥に控えていたらしく、赤薔薇に組み敷かれた状態のルカを見て、目を丸くする。かと思うと、彼の顔はみるみる真っ赤に染まっていった。
「えっ……」
何かまずいものでも見たとでも言うような、戸惑いを隠せない様子でもじもじしている。
いやいや事は一刻を争う。すべすべの赤薔薇の肌は正直触り心地が良くてほわぁ、となるが、流石に女性に迫られる趣味はない。
「アルヴィン! 早く赤薔薇を止めてっ」
「あ……赤薔薇、ルカから離れろっ」
ルカの悲痛な願いに、慌ててアルヴィンも正気に戻る。しかし赤薔薇は聞く耳を持たない。
「どうして?」
さも不思議と言わんばかりの表情に、彼女は本気らしいとルカは悟る。
しかし、ルカだって断固として認めるわけにはいかない。ルカには、彼女の名前を受け入れる理由なんてないのだ。
「どうしても! こうやって迫ったところで、駄目なんだから!」
「?」
しかし赤薔薇は、ルカに迫っている自覚もなかったようだ。不思議そうに小首を傾げていることから、ルカは堪らなくなってため息を吐いた。
彼女の急く思いが行動に表れただけらしい。猪突猛進にも程がある。
「赤薔薇、そこをどいてくれる? 心臓がいくつあっても足りないわよ……」
「心臓がいくつも? あるのか? いくつも」
「ちょっとした言い回しよ! まったく……赤薔薇ったら」
彼女は本気で言っているらしいが、いちいち振り回されるのもごめんだ。
ルカは肩をすくめた後、彼女の肩をそっと押した。そのまま赤薔薇の横をすり抜けるようにベッドから這い出て、背伸びをする。
「んっ……んん」
よく寝た。……筈なのに、夢のことが引っかかっているからか、どうにも身体が重い。
先日、下弦の峰で眠っていたはずなのに、気がついたらこのエリューティオの私室にいたことがある。
後になってエリューティオが運んでくれたことを知った。
その後から、彼の気持ちに甘えつつ、再びこの部屋で過ごすようにしているわけだが。
――エリューティオ様は相変わらず姿を見せてくれないのよね。
影ながら見守ってくれているのは感じてはいるし、ロディ・ルゥも似たようなことを言っていた。アルヴィンも会ったと言っていたし、本気でルカから逃げているだけのようだ。
――会いたい……な。
夢に見たのも、彼に会いたい気持ちが強まったからかもしれない。
それもそのはず。
先日より火ノ鹿教主国にちょっかいをかけ始めてから、今は反応を待っている状態。
火ノ鹿はもう、例の噂を耳にしただろうか。教主国側の政府の対応はどうなっているのだろうか。
容易に情報が伝わってくる場所でもないため、次にロディ・ルゥを遣わすまでは本当に待ちの状態になっている。そわそわしてしまうのは仕方が無いことだろう。
「ルカは、わかっていない」
赤薔薇は不機嫌そうに、その目を細める。
「終焉が手を伸ばしている。護りたいなら、名を」
そのしつこさに辟易しながらも、ルカは同時に理解する。
いつも飄々とした彼女が焦るくらいの事態が起こっているらしいことに。
「わかりたいから、話を聞いたのでしょう? 赤薔薇」
火ノ鹿の二度にわたる訪問を受けた後、ルカは改めて、赤薔薇とロディ・ルゥに、知っている情報について尋ねた。
だからこそ、ルカだって己の身を守ることに対しては敏感になってきている。
――正直、あまりに桁違いの話しすぎて、ピンとは来なかったけれど。
ルカの目標は明確だ。
今、自分が護りたいのは、夜咲き峰。自分自身の身と、皆の未来。それ以上でも、それ以下でもない。
「赤薔薇、あなたの心配もわかるわ。だから、私は今、出来ることをするだけ。……アルヴィン、菫を呼んできてくれる? 着替えて、朝食にする」
「わかった」
「赤薔薇の分も用意してくれる? 夜の間、ずっと護ってくれていたみたいだし」
「ああ――その……」
「もちろんアルヴィンの分もね」
「……ああ」
ルカの言葉に彼は笑みを浮かべて、奥へと消えていった。
アルヴィンの身体は以前のものとは違う。睡眠も、食事も、十分にとらなくてはいけないのだろう。夜も奥の部屋で仮眠をとっていることが多くなったのも知っている。
アルヴィンは自分の部屋に執着がないから、ルカの側にいる方が彼にとっても落ち着くのだろうが。
――近いうちに、アルヴィン達も過ごしやすいように、部屋を調整しなくちゃ。
ルカが来て、その後にリョウガ達が来て、更にゲンテツたちが来た。
空き部屋でどうにかやりくりしていたけれども、空を飛ぶことが出来ない者がこの峰に増えた。
扉の解呪の関係もあるし、一度住居環境を整理しないといけないだろう。
でないと、菫や波斯たちの負担も増えるだろうし、名前を縛った妖魔たちだって同じだ。
それに――と、ルカは赤薔薇に目を向ける。
万が一、赤薔薇の名を縛るとしたら、彼女だってルカから離れそうにない。それも考慮しないといけない日が来る。そんな気がする。
それもこれも、すべて、彼女の話を聞いたからだけれど。
真っ直ぐにルカをとらえて離さない深紅の瞳を見やって、ルカはため息をついた。
――わかってる。彼女の名は、縛った方が良いのでしょう。ただ、私が覚悟しきれていないだけで。
ルカの心に重たくのしかかるは、終焉の話。
ロディ・ルゥと赤薔薇。二人を交えて話し合ったあの日のことを、ルカは忘れられずにいた。
目覚め。
虹の残滓を感じつつ、新しいスタートです。
次回、赤薔薇とロディ・ルゥを交えて、終焉の話です。




