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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第二章 火の主の愛し子
109/121

-幕間- 夜咲き峰からの使者(2)

 研究棟の中でも、目的の部屋はかなり奥まったところにある。

 魔術具研究や星術研究、素材開発が中心となった研究院の中で、歴史学研究は肩身が狭い。

 成果が形になりにくいことも理由のひとつだが、研究内容のかなりの範囲が、近年では神学の分野に分類されるようになったことも要因のひとつだ。

 しかし、神学を学ぶには教会への所属が不可欠となる。

 魔力を持たないルカが歴史学へ落ち着いたのは、彼女の持ちあわせている性質からして、当然のことだったのかもしれない。




 埃の溜まった薄暗い廊下に差し掛かったところで、花梨が眉を顰めた。古びた校舎は、塗装が剥がれ、石材が完全にむき出しになっている。木材もガタがきているのか、完全に締まりきらない扉が半開きになって並び、警護するための環境としても劣悪と言える状況だ。

 レオンがいた頃からますますひどい有様になっていて、今は清掃をする者すらいないのかと苦笑する。

 愕然としている花梨の前に立ち、更に進んだところで、目的の部屋が見えた。



 軽くノックするが、返事がない。いつものことだから、普段は問答無用で立ち入るわけだが、鍵はとうの昔に返却してしまった。

 仕方なしにノックを強くして、レオンは声を張り上げた。


「教授! ブライアン教授! いらっしゃるんでしょう? 俺です、レオンです!」


 かなりの音量を出しているのに、一向に返事が返ってこない。

 仕方がないので、声が廊下に響き渡るのも御構い無しに、レオンは続けた。


「教授、聞こえてるんでしょう? ルカお嬢様の代わりに、古語の読める女性を連れてきましたよ! さあ、観念して入れてください!」



 がたりと。ここでようやく、扉の向こうで物が動く気配があった。

 レオンの声が聞こえたのか、他の部屋からもちらほらと覗き込むような視線を感じたが、想定の範囲内だ。 どうせここに軒を連ねる史学や文学連中はブライアンの茶飲み仲間。後でブライアンに群がれば良いだろうと高を括る。


 案の定、レオンの言葉に釣り上げられた教授ブライアンも、自身の研究室の扉をわずかに開けては、入れ、と短く言葉を切った。





 久方ぶりに研究室に足を踏み入れると、元から酷かった部屋が、更に足の踏み場もない状態へと変化していた。

 後ろで花梨の小さな悲鳴が聞こえるのは、致し方ないことだろう。


 大丈夫ですか、と小さく声をかけると、彼女は恐る恐る部屋へと足を踏み入れる。そんな彼女に一瞥することもなく、ブライアンは、ここに座れ、と彼女を呼び出した。



「ブライアン教授、今日はお嬢様の――」

「やる事をやってからだな」

「――はぁ」


 全くレオンの話を聞こうともしない頑固者は、無精髭をたくわえ、皺だらけの服を着込んでは、狭い空間に己の身を押し込めている。

 ずっと引き籠もっているのだろう。身体を何日も拭いてすらいないようで、見かねた花梨が顔をしかめていた。

 しかしブライアンはどこ吹く風。積み上がった文献のうちいくつかを手にとっては、ちょいちょいと手招きをする。



「あー……扱いには気をつけろよ。ここから、ここ。それと、こっち。俺とて、かの国のことは専門外だ。――頼んできたのはあの娘なんだからな。必要な情報はてめえらで訳せ」

「手紙、お読みになってたのですか。だったらお返事くらい――」


 そこまで言ったところで、ブライアンは文献をレオンに押し付ける。語ることなど何もないと言わんばかりにすぐさま己の世界に没頭してしまい、もう反応はなかった。



 押し付けられた文献に目を落とし、レオンはため息をつく。

 身を強張らせている花梨に向かって横に首を振りながら、レオンはブライアンの手前の大テーブルにそれを置いた。


 完全に物置になってしまっているが、もともとはルカが使用していた座席。慣れた手つきで不要なものをかき集め、必要なものはひとまとめにする。それでどうにか一人分のスペースを作っては、花梨のために場所をあけた。


「花梨様、お手伝い、お願いしてもよろしいですか?」

「ペンとインク――まるで、ルカみたいですわね」

「そうですね。お嬢様は、いつもそこで、あなた方のことを調べていたのですよ」


 ルカの話を引き合いに出すと、花梨は覚悟を決めるように表情を引き締めた。

 そして、じいとテーブルを睨みつけると、ふるりと空気が振動する。かと思うと、うっすら積もっていた埃がさらに細やかな塵となり、空気に溶けてゆく。

 その様子にブライアンは気がつかない。どれだけ研究に没頭しているのかと苦笑しながら、部屋の環境を整えていく。


 花梨は花梨で、ブライアンの提示した文献に視線を落としている。彼女が問題なく古い言葉を読めるのは気がついていたが、さらさらと目を通していく様子に、問題なく任せられそうだと安堵した。


 紙とペンを手渡すと、彼女は流麗な筆跡でペンを走らせた。レオンとて、ルカの研究に付き合うことも少なくなかった。だからこそ古い言葉が全く読めない訳ではないが、彼女ほどすらすらと訳せる訳でもない。

 やがて彼女が楽しげに口の端を上げたことを見て、安堵する。ブライアンと二人、没頭してしまっている様子がなんとも懐かしく、かつてのように、レオンもまた動き出す。

 先にお茶でも用意するか。そう考え、レオンは颯爽と研究室を後にした。




 ***




 これは、人の民謡を集めたものかと、花梨は瞬く。火ノ鹿国に生きる農民の嘆きと祈り。あるいは教主の紡ぎ出す未来への希望。縋り付くような民の声に、神は手をかざす。火ノ鹿国の未来が永遠であるように、と。

 パラパラと全てを読み終え、花梨は馬鹿馬鹿しいと息を吐いた。ルカは彼に何かを依頼したらしいが、こんなものが何につながると言うのだろう。

 ルカやレオンの願いだから聞いてはいるが、正直、意味のある行為だとは思えない。



「あの娘は、元気にしとるか」


 文献を目の前にため息をついていると、ブライアンが声をかけてきた。話の内容からして、花梨の正体には気がついているのだろう。とはいっても、彼の視線は史料を追ったまま。


「事情を聞いてはいませんの?」

「興味はないな。彼の国の教主について知りたいと言うから、協力してやってるだけだ」

「これ、さらりと読みましたけれど、役に立ちそうなことは――」

「それを決めるのはお前さんじゃない、俺だ。……どれ」


 ピシャリと言ってのけた後、花梨の書き起こした文章を手に取る。

 詩篇の一部。そして、過去の火ノ鹿国の学者がそれをどう解釈したのか。ふうむと唸りながら目を通し、なるほどと大きく頷く。

 少しだけ表情が穏やかになったような気がした。どうやら、花梨の実力を試していただけらしい。



「なるほどな――どこまで読める?」

「えっと?」

「三百年ほど前の古語と、彼の国のシンラ語の古語。どちらも読めるだろう? もっと古いものはどうだ?」

「シンラ語?」

「なんだその知識の偏りは。――来なさい」


 呆れるように告げ、ブライアンは席を立つ。ボロボロで立て付けの悪い奥の扉の鍵を開け、その奥へと花梨を誘う。

 入った瞬間、薄い魔力の膜を感じた。大切なものをしまいこんであるのか、環境の維持に気を使っているのがわかる。


 乱雑に文献が積まれた先ほどの部屋とは違い、こちらは、一つ一つが箱に詰められて保管してあった。箱にもまた、簡素であるが魔術具が取り付けてあるらしく、どうやら湿度を管理しているらしい。


「これは読めるか?」


 箱のうち適当なひとつを開いては、中から巻き物を取り出す。表面がかさつき朽ち始めたそれは、触れるだけで壊れそうで、少々怖い。

 色あせた文字列を指で追いながら、花梨はその場で言葉を紡いでゆく。少々回りくどい言い回しが意図を読み取りにくい言葉。即ち、人間の中でも、それなりの身分の者が私的に書いた手紙だと推測できる。



「ふぅむ、問題ないか。ならばこれは」


 花梨の実力を確かめたらしいブライアンは、目の前の巻き物をさっさとしまい込み、別の巻き物を取り出した。

 表面の変色がはげしい。それだけで、保存環境がかなり変わったものなのだと推測できる。


「今は火ノ鹿教主国の一部だが、鹿ノ戸という国があってな。そこで使われていた言葉なのだが」

「そうですの」


 花梨は短く言葉を切った。ブライアンの言う言語の違いはいまいちよくわからない。花梨に判断できるのは、それは己の中にある知識(もの)か、ない知識かだけ。

 ――いや、もうひとつ。花梨の感覚が惹きつけられるのは、この文献がもつ僅かな残り香。

 赤の残滓がある。それだけ感じ取って、花梨は内容に向かい合う。



『年が明けるまでに、準備をせねばならぬ――』

「読めるのか!?」


 ブライアンが初めて、大きく声をあげる。花梨は視線を流して、一度軽く頷く。そして再び、続きの文章を語り出す。


 名もなき者のしたためた書簡のようだった。人の文化には詳しくはないが、商いをするために、先方に伺いを立てるためのものらしい。


「ところどころ、文章として成り立っていませんわね」

「――? どう言うことだ?」

「……」


 花梨の感覚を伝えるのは難しい。言語の食い違い、混ざり合う奇妙な感覚。

 欲しいものがあると伝えたいはずなのに、その欲しいものを自分から渡すという話にすり替わっている。この奇妙な感覚がもどかしくて、花梨は何とか、気持ちの悪い一文を指さす。


「ここで、話が変わっていますの。目的が――逆になっていると言うのでしょうか」

「何?」


 険しい顔をしてブライアンがその文章をのぞき込む。取引したい商品を、とある娘が持っていくと書いてあるように見えるが、文脈からしてよくわからない。


「文法を間違えているのか」


 ブライアンはうむむ、と手を額に当てて唸り始める。


「……もしや、これは鹿ノ戸の者が書いたわけではないのか」



 そこからブライアンは、花梨に続けるようにと要求する。直訳で良いから、違和感があってもただただ訳せと。

 命じられることに慣れているはずもない。花梨は顔をしかめたが、目の前の人間の男は花梨の感情など気にする様子もない。ただただ目の前の文章にしか興味がないようで、怒ることすら馬鹿らしくなってくる。

 こんな男でも、ルカの恩師なのだという。

 峰を出る前に、ルカは花梨に何度も頭を下げていた。出来ることなら、ブライアンの助けになってくれないかと。


 ――本当に、私もルカには甘いですわね。


 ため息をつきながら、花梨は続ける。彼の要求するままに、今の世界の言葉に置き換える。

 ブライアンの意図はわからないが、彼はひたすら訳すようにと要求し、花梨の言葉を書き付け続けていた。




 とはいえ、花梨でなければ読めない文章は、そう数多くは存在しなかった。鹿ノ戸の言葉で書かれた文献自体が多くないらしい。

 ブライアンは一通りの文章に再度目を落とした後、ううむと再び唸り出す。幾つかの仮定を立てては打ち消す。そんな思考をぶつぶつと声に出した後、その本音を少しだけ漏らした。



「あの娘がな。――俺に“お願い”をしてくることなんて、今回を除くと、一度しかなかったのさ」

「?」

「強い娘だが、弱い。たまに、卑屈とさえ感じるほどに、自分の望みをしまい込む」


 ああ、と花梨は思う。

 花梨も感じ取っていたことだ。好きなものにはまっすぐなクセに、突如引っ込み思案になることがある。


「あの娘は世界の片隅に、わけてもらった分しか自分の居場所を持たない。あの娘の世界を広げられるのは、あの娘の家族とレオンくらいだな」

「そこまで、ですの?」

「ここに寄越すくらいだから、君にも甘えているのだろう。かの地は、あの娘にとって悪くない場所のようだな」



 そう告げて、ブライアンは天井を仰いだ。少し肩の力を抜いて、表情をゆるめる。


「あと一年だった」

「?」

「今年いっぱいで、あの娘はここの高等部を卒業するはずだったのさ。それすら待ってもらえず、未知の地に向かう決意をしたあの娘の諦めが君たちにはわかるか?」


 ブライアンの言葉に花梨は瞬いた。

 違う。それは、花梨の知っているルカではない。

 彼女は、自分の環境を受け入れ、誰に向かう時も一生懸命で、笑顔を絶やさぬ娘だ。

 彼女がたまに見せる卑屈さの中に、一体どんな感情が眠っているかなんて、考えたことがなかった。


「特殊な娘だ。レオンがいなければ、この学院の敷地にすら入って来られない。貴族の身分も持てない。少しでも魔力に携わる道には進むことが出来ない。そんな彼女が、唯一見つけた道を、途中で絶たれたんだ」

「でも、あの子は――」

「万一、王都にあの子が戻されたとして、彼女はどう生きていく? 高等部を出ていなければ、本当の意味で研究者にはなれぬ。論文を書いたとて、ただの道化と見られるのが関の山だ」

「ルカは、夜咲き峰の主! 王都に戻ることなど……!」

「今、妖魔の都合であの娘を振り回しているんだろう? 信用できるか。――あの娘が、以前のように流されでもしてみろ。次は火ノ鹿教主国の奴隷だ」

「それは――」


 花梨の薄紅の瞳が蔭る。ブライアンの言っていることは、完全に間違っているとは言い切れない。

 しかし、同時に花梨は首を横に振る。

 以前ならば――以前の夜咲き峰の皆ならば、絶対的強者の風の主や火ノ鹿には抗おうとはしなかったろう。ルカを捧げ、また何事もなかったかのように、永い時を揺蕩う。

 だが、今は違うと、花梨は思う。



「ルカを、渡しはしませんわ。火ノ鹿にも、彼女が望まぬ人間にも」

「ほう――」

「あの子が全てを捨てて峰に来てくれたと言うなら、全力で応えるまでですわ。――時間の無駄です。早く、次の史料をお持ちなさい。私たちの知識を分けて差し上げます」


 そう告げて、花梨はどっかりと椅子に腰掛け、長期戦の構えをとる。

 ブライアンは僅かに目を見開くがそれだけ。彼もまた、次に進むためにと史料を持ち出す。

 そのブライアンの背中に目を向けた後、入口の方に目を向けると、僅かに微笑むレオンがいる。そして彼は、安心したかのように背を向け、向こうの部屋へと戻って行った。

琥珀や鴉たちに続いて、花梨も気持ちを新たにしたのでした。


もう一話だけ王都編続きます。次はハチガとの合流です。

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