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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第二章 火の主の愛し子
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加速する刻のなかで

 風に身を溶かすのは容易い。

 夜の帳に紛れるように、縹の色彩が空に溶ける。脚を伸ばすのも手を伸ばすのも同じこと。ほつれの方向に身を寄せては、繕いが必要な妖気の糸を見つけ出し、風より出でては手を伸ばす。

 光も何もない空間。しかしエリューティオには確かに見えた。月白の糸。妖気を操りきれない峰の主がどれだけ妖気を張り巡らせようと、完璧なものは出来はしない。


 月白のわずかな隙間。人を退けるは容易でも、それ以外のものは簡単に通してしまうだろう。

 ただでさえ、警戒心のない主。糸の条件付けはエリューティオ自身が導いてはいるものの、限界がある。現に、今だって――。




 忍び寄る虹色の色彩。姿形を留めず、数多の色彩に変幻するのは、彩度は違えどルカの持つ妖気に近いとも言える。

 しかし、その本質は全く違う。峰へと侵入を試みる虹色の何かは、明らかに“良くないもの”と言い切れる。


 自然の法則を完全に無視した、暴力的とも言える圧倒的な能力。目の前に忍び寄るその虹色は、そんな力の主から逸れた塵にすぎないが。

 泥のように広がるそれを一瞥した後、エリューティオはその手をかざした。核ごと握りつぶすように圧をかけると、簡単にそれらは色を失う。

 そしてすぐに別の場所に虹の気配を感じては、エリューティオは強く地面を蹴った。



 タン、タンッ、と、木々の間を軽く蹴って行く。体重を感じさせないエリューティオのステップに、木々は風に揺れるだけ。さらさらとその身を揺らしては、縹色の存在を受け入れた。


 地を這うように進むのは、あの虹色が地面から流れ込んでくるものだからだ。

 峰の主が代替わりし、味をしめた虹色が侵蝕を始める。いや、彼等はずっと、侵蝕しようとしていた。ルカに峰を受け渡す前から。



 これだけの侵食、きっと彼女の負担も増えているはず。それなのに、ルカは未だ外部の攻撃に対して無防備だ。

 幸か不幸か、妖気と魔力の両方を備え持った身体は、相反する色彩の原理がぶつかり合っている。せめて方向付けだけでもしてやりたいが、何故だか今、彼女と向き合うのは気が重い。


 虹の侵蝕。新たな足跡を見つけては消し去る。

 月の出る夜は、奴らの動きも活発になる。早く月が隠れればよい。水の月になると、今よりは神経を尖らせることも無くなるだろうか。

 終わりのない作業に息を吐き出しながら、エリューティオは再び走り出す。己を風に溶かし、峰の周囲をぐるりと駆けた。



 月夜を見上げた。夜咲き峰は変わらぬ月白のベールを纏い、淡い温もりを地上に降らせる。

 今ごろ、宵闇の者たちは月に祈る頃だろうか。ルカはそろそろ、眠りにつく頃だろうか。


 下弦の部屋に戻った彼女の顔を見ることが、めっきりと減ってしまった。気になって近くを漂おうとしても、琥珀が気配を捉える。彼女に知らされるのを恐れ、側にいることも出来ない。どれだけ臆病なのだと、自分で自分の弱さを自覚しては、途方も無い気持ちになった。


 ルカに名を縛られたからか、彼女の妖気でエリューティオ自身の力も安定してきた。

 しかし、己の器はそうはいかぬ。風化し、崩れ行く砂の器。いくら妖気で満たそうとも、形を留められぬ器では、やがて妖気を溜めることも出来なくなるだろう。

 それだけは、彼女に知られてはならぬ。せめて、次の昇月の夜までは。




「厄介なものだ」


 無意識のうちに言葉がこぼれ落ちた。執着という感情を自覚するようになったのはいつからだろう。

 せめて彼女に何かを残してやりたかった。その結果が、これだ。彼女はエリューティオの前で涙して、あらぬ方向に奮闘し始めた。儘ならぬものだと眉を寄せては、同時に不安が押し寄せる。


 これだけ虹の塵が活発に見られ始めている。押し寄せる終焉は、やがて月を侵すだろう。エリューティオの力では対抗する事など叶わぬ。彼女自身に、抗う力を手に入れてもらうしか、救いの道はない。


 近づく大罪の刻。月に最も近かった己の器が砕けようとして、ようやく理解した。せめて昇月の夜まで持ち堪えられねば、エリューティオ自身が大罪を犯すことになる。

 三柱の内ひとつ。この均衡が崩れたとき、どれほどの影響が出るかは窺いしれない。


 無理はしてはいけない身。それはわかっているのに、放ってはおけない。だからこそ、エリューティオは再び呟いた。

 本当に厄介だ、と。




「あまり、無理はしない方が良いんじゃないか?」


 目につく虹塵を消し去ったところで、図上から声がかかる。見上げると、灰色の瞳が細くエリューティオを見据えている。


「何のために蜘蛛を動かしてると思ってるんだい。……その身体で、あまり無理はしない方がいい。ルカ様が悲しむ」

「悲しみなど、ほんのひとときのこと」

「以前なら、私もそう答えたけどね」


 くつくつと笑みをこぼす顔は、記憶に残らぬ程に薄い顔。

 彼を見て、誰が妖魔だと思うだろう。

 先代の白雪を思い出す。あの歪みの塊だからこそ、人という存在に紛れられるように白雪を形作った。彼が他の妖魔を従えようとしたのも、もしかしたら先代の意識の残滓がそうさせたのかと考えたこともある。

 けして美しいとは言えないこの男。しかし、見ようによっては最もルカの隣に並ぶのが自然にも見える。それが気にくわないのか、と、一瞬脳裏によぎった考えを振り払う。


「どちらにせよ、もう、手遅れだ」

「へえ」

「火ノ鹿は乗り気だろう? ならばもう、あの男に託すしかあるまい」


 むしろ、鷹もよくその気にさせたものだと感心してしまう。今のルカが持つ妖気の器は、妖魔社会でも並び立つものは殆どいない。

 更に、彼女の器を広げられる者など、エリューティオが思いつく限りでも二人しかいない。少なくとも、自分では力及ばなかった。



「本当にそう思うのかい? 私たちの主は、思った以上に強情で、我儘だ。……今日も、君のことを想って泣きそうになってたよ」


 白雪の言葉に、身体が強張る。

 涙。あれは、良くない。

 ああも素直に感情をぶつけられると、壊れ物を扱っているようで、思考が停止する。本来成さねばならぬことを放り出して、彼女の望み通りに動こうとしてしまいたくなるから、厄介だ。


「そんなに、終焉が、怖い?」

「終焉に唆されて、ルカを取り込もうとした口で、良く言える」

「最もだ!」


 ハハハハハ! そう、大きく笑って、白雪は髪をかきあげた。


「ああ、本当に。実際手のひらの上で転がされて、よくわかったよ。アレは厄介なものだ」

「アレがルカを取り込もうとしているのは明白だろう?」

「まあね。“彼女”の次、となるとそうなるだろうね」


 “彼女”――忘れようもない妖魔の話に、エリューティオは目を伏せた。

 記憶の中の月白の髪が、ルカの姿に重なる。ルカの平凡な顔には似ても似つかない筈なのに、“彼女”の纏う穏やかな雰囲気は、どうしてもルカを思い起こさせる。


「せめてもう少し、平凡な器であれば良かったのだが」

「“彼女”の忘れ形見(・・・・)なのだから、当然と言えば、当然だろう?」

「“彼の方”は、まだ!」

「分かった分かった。本当に風は、“彼女”のことになると煩いんだから」

「仕方が無いだろう」


 吐き捨てるように言って、エリューティオは白雪から目をそらす。

 妖魔であるならば“彼女”を大切に思うのは当然だ。鷹だって、同じだろう。ルカを護ることは、ひいては“彼女”の意思を護ること。それ以上でも、それ以下でもない。

 ルカを見守るのもまた、“彼女”のためでしかない。自虐的に笑っては、首を横に振る。


「だが、ルカは“彼の方”とは違う」

「そうだよ、違うんだ」


 白雪は、エリューティオを肯定する。

 するすると、彼は宙からその身体をエリューティオに近づけてくる。

 無彩色の男、白雪は、静かにエリューティオの隣に並んだ。


「彼女は人間だ。私たちが思っているより、ずっと、弱い」


 そう告げる白雪の顔が強張った。

 彼が、その本心を表情に出す。その事実も気に食わなくて、目を細めた。

 間違いなく、彼女の影響だ。白雪にも、他の妖魔にも、ルカの影響を見つけては、ひどくもどかしい思いをする自分がいる。


「気がついているだろう? 器と、その身体が釣り合っていない。今日だって、火ノ鹿の訪問の後から、ずっと眠っているんだ」

「……」

「君たちが二人とも頑固だから、彼女は満月で眠ることすら遠慮している」


 それは。と言いかけて、口を閉じる。

 エリューティオ自身も、彼女と面と向かうのにまだ抵抗がある。ルカ本人も同じだろうと言われると、初めて彼女の気持ちがわかった気がした。


「早いところ、何とかした方がいい。虹の迫るこの状況。今度は妖気の回復が間に合わなくなるよ」

「……良く分からぬところで強情な」

「君もだろう」


 からかうように告げられて、返答に困る。が、彼女の体調に影響が出ているのであれば、一刻も早く原因を取り除かねばならないだろう。


 何も告げずにエリューティオは飛んだ。

 その身を風に溶かした方が速度は出る。ふぅ――と風に紛れて峰の上を目指すと、あっという間にルカの部屋の前へとたどり着く。トン、と地面に足をつけては、その身を再び形にした。

 エリューティオに続いて、白雪が後ろに立つ。

 そうして二人並んで彼女の部屋に入ろうとしたところ、彼女の部屋から一人の妖魔が飛び出してきた。




「鴉か。――どけ」

「風の主……」


 エリューティオの存在に、鴉は複雑な表情を見せた。

 夜咲き峰では比較的穏やかな妖魔だからか、彼は以前からエリューティオに対しても協力的な側面があった。しかし今、彼はエリューティオをルカの部屋に入れて良いものかと警戒を強めている。

 何か問われるのも面倒で、どうしたものかと思案する。しかし、エリューティオが行動を起こす前に、白雪が前に出た。


「鴉。風を通してやってくれないか」

「しかし……!」


 戸惑うように、鴉は首を振る。

 ルカに縛られた妖魔が三人。お互い睨み合うようにして立つ中、エリューティオは鴉の存在を無視して中に入ることにした。


「ちょっと、待て!」

「大丈夫、私もついているから。――心配なら、君も来るといい」


 白雪が鴉を説得しているうちに、彼女の部屋へと足を踏み入れる。瞬間、部屋に飽和した彼女の空気を感じ取っては、目を細めた。


 厄介な、と再び唱える。

 彼女の存在を感じるだけで、どうにも心が満たされる。自分の心にこんな穏やかな一面があったのかと思い知っては、気が重くなる。エリューティオ自身、そのような心など、必要としていないのに。



 久しぶりに間近で見る彼女の顔は、確かに顔色が良くないように感じた。白雪の言っていた通り、身体に力が満ちていないからだろう。

 しかし、それだけではない。目もとがわずかに腫れている。彼女は本当に泣いていたのかと、心がざわついた。


 深く眠る彼女に、そっと手を伸ばす。両腕で彼女を抱きかかえて、己の胸に引き寄せた。



「風の主!」


 咎めるように鴉が声をかけてくるが、一瞥をくれるだけだ。


「満月の峰へ連れて行くだけだ。心配ならば、其方も来れば良い」


 それだけ告げて、再び彼女の部屋を飛び立った。

 規則的な寝息を立てる彼女の身体。この腕の中で眠っているのは、いつぶりだろうか。

 途方も無いほど一人の時間を生きてきたはずなのに。彼女との二人で過ごす夜が、いつの間にか当たり前になっていた。


 十人並みの彼女の顔だが、あの方の面影もなくは無い。

 しかし、ルカはやはりルカだった。あの方の代わりではなく、もっと近くで、エリューティオに寄り添ってくれる存在。

 そっと、彼女の髪を撫でる。優しく輝く月白を、自分でなくて赤き妖魔が触れているのはひどく不快だった。

 彼女を泣かせておいて、火ノ鹿に引き合わせておいて、随分な感情だと自覚する。


 思い通りにいかない己の心にうんざりしながら、エリューティオは、彼女の月白に口づけを落とした。



 ――私は、臆病なのだろうか。


 ハチガも、ルカも、エリューティオに対してそう言った。儘ならぬ己の心を抑え込み、エリューティオはルカを抱きしめる。


 そうして満月の峰。己の部屋へと降り立つと、彼女をベッドまで抱えたまま運ぶ。

 眠ったままの彼女をそっとベッドに下ろすが、腕を離すことに抵抗があった。

 人だからこそなのだろうか。彼女の温かな体温に触れることは、ひどく落ち着く。


「……エリュー……ティオさま」


 すると、名前を呼ばれて心が跳ねた。

 本当に、不本意なことに――名を縛られたからだろうか、名を呼ばれるたびに幸福感を感じてしまう。

 彼女の顔を見つめると、依然夢の中らしい。深い眠りについているにも関わらず、彼女の眦から涙の雫が溢れ落ちる。

 一体、どのような夢を見ているのだろうか。

 本当に、泣かせてばかりだと、眉を寄せた。自惚れでもなんでもなく、彼女は己を想ってくれているのだろう。



 そっと彼女の頬を撫でた。

 これから先、幾度自分は、彼女に涙を流させるだろう。


 しかし、どうか、理解して欲しいとエリューティオは思う。これ以上、エリューティオ自身に近づくことも、やめておいた方が良い。

 彼女は目覚め、終焉は動き、そして刻は加速した。

 あと季節はひとつと少し。そうすれば、彼女とは永久の別れ。


 これ以上、近づいてはならない。

 そう思うのに、いつまでも彼女の側に居たくなる矛盾。それは、名を縛られているからなのか、そうでないのか。もはやエリューティオ自身にも、判断できなくなっていた。

これがエリューティオから見た世界でした。


次回の舞台は王都ローレンアウス。

レオンと花梨の様子を覗いてみましょう。

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