ひとりじゃない
霞む天井に朱色の光が反射している。
ぼんやりと、眠りから覚めて気がつく。ああ、これは、とても良くない目覚め。
ずるりと身体を持ち上げると、自分の身体の中に、ぽっかりと穴が空いているような空虚さを感じた。
「レオン……あ」
目覚めと同時にぼんやり呼んで、すぐさま気がつく。そうだ、彼はもう、この峰からいなくなっていたはず。
記憶が曖昧なのは、ここ数日、体調がいまいち安定していないからだろう。原因もわかってはいるのだが、どうしたものかとため息をつく。
「菫。菫、いるかしら?」
石を通して呼びかける。一方的なものだが、すぐに彼女が奥から飛び出して来てくれたから、ほっとした。
「今日は、遅いお目覚めでしたね。起き上がれますか? ルカ様」
「うん、大丈夫」
もぞもぞと、布団から這い出て腰掛ける。起きたら起きたでげんきんなもので、からっぽな気がするのは単に空腹なだけなのかもと思えてくる。
お腹すいちゃった、とぽろりとこぼすと、菫が安心したかのように苦笑した。
「どれくらい眠ってた?」
「昨日の夜からですよ、大丈夫です」
大丈夫とは言っても、以前のことと比べたらという前提があるからだろう。ちらりと外を見ると、すっかり日が落ちようとしていて、すでに夕暮れ時の寂しい空だけが目に入る。
「火ノ鹿は?」
「――まだ」
「そう」
眠っているときに訪れたら、彼に問答無用に起こされるのだろうか。彼が次、いつ姿を現わすのかわからなくて、常に不安は付き纏う。
周囲の環境を整えるためにも、一度は、彼とまともに話さなければと思うわけだが、今日はもう現れないだろうか。……現れなければいい、と、ルカは思う。
ルカの目覚めを悟ったのか、部屋への扉に妖気があてられる。すぐに扉から誰かが現れて、ルカはそちらに顔を向けた。
常日頃からこの部屋に自由に出入りできる者は、限られてはいる。現れた姿を確認して、ルカは表情を和らげた。
「ルカ様、お目覚めですか」
「ロディ・ルゥ」
まっすぐルカの元へと歩いてくる彼は、ルカの手前で膝を折る。そうして少し心配そうに顔を覗き込んでくるため、少し戸惑った。
「やはり、満月に移られては? 顔色が、良くない」
ロディ・ルゥの提案に、ルカは静かに首を横に振る。
満月の峰のエリューティオの部屋と、下弦の峰のルカの部屋。両方過ごしてみると嫌でもわかる。次の日の回復具合が段違いだった。
エリューティオの姿は相変わらず見えない。だからあの部屋で過ごそうとも問題はないかもしれないのだが、何故だろう――彼の居場所を奪ってしまうような気がして、躊躇した。
微笑を浮かべてルカは立ち上がる。こんな時間であるが、動き回るなら着替えなければならない。
ロディ・ルゥに一旦下がってもらおうかと思ったとき、彼は意味ありげに笑みを浮かべる。
「動かれるのでしたらご報告を。赤薔薇たちが“彼ら”を連れて帰って来ましたよ」
***
「お嬢~!」
「トモエー!」
きゃあああ、と黄色い声をあげて抱きしめ合う。歳も近くて同じ家で育ったトモエとは、立場はあるものの、友人であり姉妹に近い感覚がある。
懐かしい顔に、ルカがぎゅう、と彼女を抱きしめると、眩しそうに笑顔を見せた。
「お嬢~、いい匂いがする」
くんくんと、彼女は鼻をひくつかせ、ルカの髪の匂いを嗅ぐ。僅かにくぐらせたコロンの香りに、トモエは幸せそうに表情を緩めては、ますます強く抱きしめてくる。
「ちょっと、ちょっとちょっと! トモエの変態!」
「んふ、今さらだよ。でも、お嬢、ちょっと大きくなったね」
「やっぱり?」
「やっぱりやっぱり!」
きゃっきゃっと声を掛け合い、久しぶりの再会に胸躍らせる。ひとしきり騒ぎあったところで、ルカは後ろの二人にも目を向けた。
「ゲン爺、いらっしゃい! テッドも、相変わらずね! どうだった、空の旅は?」
くすくす笑いながら声をかけると、うんざりした状態の青年が首を垂れる。色素の薄い浅黄の髪に、薄鼠色の瞳。全体的にぼんやりした印象の彼は、トモエを除けばゲンテツの末弟子にあたる。
気の弱いところがあるから心配だったのだが、やはり、かなり精神的に負担が大きかったのだろう。その表情も正気を失っている。
「ったく、この通りじゃ。だらしないったらないわい」
「ゲン爺」
「おうおうお嬢様、何て顔色をしとるんじゃ。元気にしとると聞いて安心しておったのに……」
年の割にガッチリした体つきをしたゲンテツは、トモエに抱きついたままのルカに歩み寄ってくる。いかつい顔つきで、ルカの顔色をじっくり覗き込んでは、肩をすくめる。
そしてルカの額、そして首の数カ所に手をあてては、怪訝な顔つきを見せた。
「こりゃいかん。この峰に医師は?」
「医師? ああ、そのような存在は、峰におりません」
「……なんという環境じゃ」
ロディ・ルゥの返答に、ゲンテツは呆れて言葉を失う。ぐるりとルカの部屋を見回し、環境を確認する。ロディ・ルゥに厨房の場所を確認し、荷物を担ぎ直した。
「まったく! おぬしもお嬢様に仕えとるとか言って何をしとるんじゃ! リョウガ様もどこにおるんじゃ! どいつもこいつも……!」
ぷりぷりと怒りを隠そうとしないゲンテツは、ロディ・ルゥを顎で使う。ロディ・ルゥも流石に苦笑いを浮かべているが、ルカは彼に、ゲンテツを手伝うようお願いした。
ゲンテツの怒りを適当に受け流しながら、ロディ・ルゥは奥へとゲンテツを連れて行く。慌ててテッドが。そして、しばしの別れを名残惜しそうにしたトモエが後に続いた。
「お嬢! また後でね!」
大きく手を振りながら、トモエが奥へ消えてゆく。人が減り、寂しくなった峰にはまた、明るい人々が出入りするようになる。それが嬉しく、ほっとしながらルカはソファーにもたれかかった。
「……」
身体の気怠さ。それは日増しに重なっていく。
近いうちにくる火ノ鹿の再来に備えて、緊張感を感じているはずなのに、身体と精神の疲労は完全に切り離された状態にある。
ルカは己の腹を押さえた。
火ノ鹿は子を孕め、と言った。たった一度の口づけで、どれほどルカが染められたかはわからない。
完全に彼に染められる前に、間に合うだろうかとルカは思う。彼に抗うためとは言え、少なくとも何度かは彼と会わなければならないだろう。そして、その度にあの口づけを受け入れるのだ。
今回、火ノ鹿に対抗するために、方々に動いてもらうようお願いしている。とはいえ、即効性の見込めるものでもない。だからこそ、皆、ルカの覚悟については理解しているようだった。
少なくとも火ノ鹿は、ルカを今はこの峰から動かすつもりはない。直接攻撃されるようなこともないのだろうから、それが救い。そして突破口だ。
最終的に彼を退けられるなら、多少の我慢くらいしてみせる。
ぼんやりと、一人になった部屋で、ルカは己の左手に右手を重ねた。冷たい石の感触を感じ、目を細める。
ルカのレイルピリアとエリューティオの石の欠片。隣り合う石が愛しくて、ルカはおし黙る。
エリューティオが何を考えているのかはわからない。
それでも彼がルカを突き放したのは、ルカのためであるからこその行動なのだろう。
けしてありがたくはないけれども、そう信じるしかない。どうしても信じたいのだ。
この峰は今や、ルカを中心に回っている。
お互い干渉することなく過ごしていた妖魔たちは、下弦の峰からどんどんまとまりを持ちつつある。お互いを尊重し、誰かのために動く。その感覚が、少しずつ浸透しようとしている。
妖魔にとって間違いなく、大きな変化。彼らの趣向からはかけ離れた行為なのに、確実に受けいれてくれている。
ルカはもう、ひとりじゃない。
皆に支えられているから、こんなに怖いのに、ちゃんと前に向かって歩いて行けている。
膝を抱えた。
とろとろとした微睡みに揺蕩いながら、ぼんやりと外の景色を見ていた。
赤く染まっていた空は、だんだんと深い紺へと彩りを濃くしてゆく。同時に、峰からは淡い光が放たれて、ぼんやりと宵闇へ染まる空に浮かび上がっていった。
「……綺麗だね」
凛とした少女の声が聞こえて、ルカは顔をあげる。
「これが、お嬢の魔力なんだね……」
しみじみと呟く彼女の声には、感嘆と安堵の感情が混じっていた。
「トモエ」
「聞いたよ。魔力、使えるようになったんだって?」
人手が足りて解放されたのだろうか。ひとりこちらの部屋に戻ってきたトモエは、窓の方に目を向け、にっこりと笑った。
素直に賛辞を送られて、ルカは少し気恥ずかしくなる。しばし返答を考えて、目を伏せたのち首を横に振る。
「ううん、宿ったみたいだけど、使えるようにはまだ。それに峰の光は、魔力によるものじゃないみたいだから……」
人ならざる者が使う力。妖気と呼ばれるものまで身に宿したことを知られるのは、少し戸惑う。
ずっと一緒にいたレオンとは違って、トモエは本当に、何も知らない人間の女の子だ。信頼している友人ではあるけれど、少し、怖い。
「一緒だよ。お嬢の力! 良かったね」
「トモエ」
トモエはぱたぱたとルカに歩み寄り、ルカの隣に座る。そばかすの似合う明るい笑顔は相変わらずで、まるで実家にいるときのように気持ちが軽くなった。
かと思えば今度は彼女、両手でペタペタとルカの頬やら額やらを触る。難しい顔をし始めたものだから、何ぞと声をかける。
「体温が下がってるってお爺ちゃんが。今、玉子がゆを作ってるよ」
「病人じゃないのに」
否定しても、トモエは相変わらず真剣な顔つきだ。あったかい手のひらで、外側からルカを温めようとしている。
その気持ちが嬉しくて、ルカはいよいよ吹き出した。明るい声が部屋に響いて、トモエはようやく頬を緩める。
「うん、色々聞いたけど。元気なさそうだから。食べやすいものだって」
「ゲッショウ風?」
「そう、ゲッショウ風!」
「やった!」
懐かしいシンプルな味を思い出して、ルカはにまりとする。
「そう! ゲッショウと言ったらね! すごいの! 行ってきたの、ゲッショウ!」
「手紙に書いてあったね! いいな、いいなあ! どんなのだった?」
「あのねえ、四ノ島に行ってきたんだけどねえ……」
そうして、きゃっきゃと語り出す。
生まれはゲッショウなのに、ルカの記憶には残っていない、懐かしい風景を。
いつか、この目で見られるだろうか。そう想いを馳せ、ルカはトモエの話に耳を傾けた。
ゲン爺たちと合流しましたが、ルカは体調不良なようです。
次回、火ノ鹿の再訪です。




