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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第二章 火の主の愛し子
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それぞれの変化 -鴉-(2)

「だから、ちょっと待ちなって、鴉!」


 部屋を出るなり、琥珀の大きな声が下弦の峰中に響いているのが聞こえる。

 螺旋階段の下を見ると、飛んで降りた琥珀が、アルヴィンの服の裾を引っ張っているのが見えた。


 あわてて追いかけ、螺旋階段を下っていく。

 パタパタと駆け下りる音が聞こえたのだろう。すぐさまアルヴィンは階段の上に目をむけ、戸惑いを露わにした。


 急いで彼の元へ駆けつけたくて、スカートの裾をつまむ。

 しかし、慣れない行動につるりと足が滑った。

 あっ、と声を出すと同時に、ルカの体が前のめりになる。長く続く螺旋階段を転がり落ちそうになる恐怖に目を瞑り、身を強ばらせた。

 腕をぐっと胸へとよせて、顎をひく。衝撃が訪れるのを覚悟したが、それよりも早く、身体を支える腕があることに、ルカは気がついた。



「ルカ。慌てるのはわかるけど、ちょっと気をつけなよ」

「……琥珀」

 

 顔を上げると、琥珀色の瞳と目があった。透き通るような色彩が、明らかに安堵しているのがわかる。

 どうやらとっさに駆けつけてくれたらしい。

 ルカも安心して息を吐くと同時に、はっとする。思い出したかのように階段の下の方を見ると、眉を寄せて、身体を強ばらせたまま突っ立っているアルヴィンがいた。


 今の彼の身体では、ルカが倒れる前に助けることなど出来はしなかったのだろう。

 その事実を突きつけられて、アルヴィンはルカから背を向ける。そして彼は、気持ちを振り払うようにして首を横に振った。

 そのまま螺旋階段の縁へと移動したかと思うと、一気に階段の下まで重力にまかせて飛び降りる。



「アルヴィン!」


 彼の名を呼び、階段下に目を向けるが、彼は無事に地面に降り立ちはしたらしい。そしてそのまま外へと飛び出した。

 琥珀の腕が、ルカの身体をしっかりと抱きしめる。追うよ、とそう告げ、琥珀もまた宙へと浮いた。




「誰かと関わるようになって、僕たちは、臆病になったんだと思う」


 耳元でそう告げる琥珀の声は、穏やかだった。


「それでも、僕は、君と出会えて良かった。きっと、鴉もそうだと思うよ?」

「うん」

「ちゃんと、話を聞いてあげて。僕にそうしてくれたように」

「わかった。ありがとう、琥珀」


 地面に降り立ち、外へと続く扉の前で、琥珀は再びルカの背中を押した。

 いつかと同じ花咲く庭。断崖絶壁から吹き上がる風にスカートを押さえながら、ルカは緑の中を歩き始める。




 琥珀は、離れて見守っているつもりらしい。入り口の方でその足を止めている。

 崖の手前に目を向けると、鴉は相変わらず、ぼんやりと峰の外の世界を見つめていた。

 黒のマントが風になびく。それを彼は自分の手で押さえ、じっと風のなすがままになっていることに違和感を覚える。


 そしてルカはすぐに気がついた。

 どんなに強い風でも、彼ら妖魔の髪や衣装はさほど乱れることはない。それは、彼らが風を弱める結界のようなものを張っていたからだった。

 その力を失った彼に、風に抗う術など、ない。



「アルヴィン!」


 強く彼の名前を呼んだ。

 ルカの声に、反応しない彼ではない。ピクリと、身体を震わせて、少し――ほんの少しだけ頭が動く。しかし結局、彼は振り返ることがなかった。遠くの空を見つめるように背中を向けたままだ。


「アルヴィン、呼んでるのに。ひとりで、どこかに行かないで」

「……琥珀は」

「え? 今は、アルヴィンと話がしたいから、はずしてくれ……」

「駄目だ。ひとりになるな、危ないから」


 ルカの言葉を遮るように、アルヴィンは声を荒げる。

 しかし、彼の苛立ちは彼自身に向いているような気がしてならない。ルカは目を細め、怯むことなく彼の方へと歩いていった。



 すっと、彼の横に並び立つ。

 今日は雲が多くて、少し空が霞んでいる。風が強くてどんどんと動いていく雲を追いながら、ルカは両手を天にかざして背伸びした。


「風が――強いね」

「……」

「いつもはみんなが防いでくれるから、こんなに風の力を感じられなかった」


 アルヴィンの方を向かず、ただただ空に視線を向けたまま、ルカは呟く。

 その隣では、アルヴィンがしばらく考え込むように口を閉ざした後、絞り出すようにして声を出した。


「俺では、この程度の風からお前を護ってやることも出来ない」

「うん」

「倒れそうになったお前を、支えてやることも出来ない」

「うん」

「火ノ鹿が来たときも……峰に足をつけたまま、空を見上げることしか出来なかった」

「……うん」


 ただただ、彼の気持ちを受け入れる。もどかしさと悔しさ。それが流れ込み、ルカ自身も胸が苦しくなる。


「俺は、お前を護衛することすら、出来ない」


 ぎゅう、と、彼は胸に輝くペンダントを握りしめた。

 彼に渡したときから、肌身離さずに身につけている皆月の欠片。彼がそれをどれだけ大切にしているのかくらい、ルカだってわかっている。


「俺はあの時、妖気を失って。峰の妖魔のくせに、この空を飛ぶことすら出来ない。今、俺の手元にあるのはこの――俺の核とも言える、刀だけだ」


 彼が前に手を突き出すと、その手には二本の刀が握られている。おそらく彼の身体の一部とも言えるそれらを大事に抱え込みながら、アルヴィンは更に言葉を続けた。


「俺は、翼すら失ってしまったから」

「……」

「妖気などほとんど残っていない。人化が進もうとも、人のように魔力すら持ち合わせていない。だったら、俺は何だ? お前に何がしてやれる?」


 彼は苦しそうに息を吐く。眉を寄せ、力ない自分に絶望するように、瞳を閉じる。

 抱えた二本の刀はやがて再び姿を消し、何もない彼だけがその場に残った。


「今だって、レオンの力を借りっぱなしだ。せめて人間として動けるようになるためにって、彼奴の手を煩わせて――」


 それはちがう、と言おうとした。

 しかし、言葉を発する前に、アルヴィンは己を責めるように結論づける。


「自分の力で、生きることすら出来なくなってるのに、俺は」


 自分が許せないのだろう。それでも彼は、思い詰めすぎだ。

 新月の夜、アルヴィンがいなければ、ルカはどうなっていたのかわからない。

 ルカの代わりにロディ・ルゥに立ち向かって、その結果の力の喪失なのに。それが、ここまで彼を苦しめているのに、ルカは何もしてあげられない。

 彼が自分を責める必要なんて何もない。


「せめてお前の護衛だけでもと思うのに、それすら出来ない。俺は、お前に名前を呼んでもらう資格なんて」

「アルヴィン」


 しっかりと呼びかけると、びくりと、彼は震える。ルカに名前を呼ばれることが、彼に強い感情の揺さぶりを与えるらしい。

 やめてくれ、と、懇願するかのように彼は告げる。けれどもその要望を聞くつもりなどなかった。



「アルヴィン。私はさ、貴方に何をしてあげられた?」

「ルカ……?」

「魔力も、妖気も持たなかった私を、大切に護ってくれたのはなぜ?」

「それは――」


 気まずそうに、彼はふいと視線を逸らす。そのまま自虐的な笑みを浮かべて彼は告げた。


「お前はもう、力を持っているじゃないか」

「それは今の私でしょ。答えになってないよね?」


 アルヴィンを逃がすつもりはない。回り込むように言葉を浴びせると、彼はますます困惑するように一歩足を引いた。



「アルヴィン。貴方はずっと、私を隣で支えてくれたじゃない。この峰に来たときから、ずっと」

「それは――」


 少し頬を赤らめて、彼は瞬いた。

 言葉に詰まるが、ぎゅっと皆月のペンダントを握りしめて、やがて決意したかのように首を縦に振る。


「お前が、ずっと、俺を気にかけてくれたから」

「うん」

「俺にはそれが、嬉しかった」


 そっか。ルカは短く、アルヴィンの言葉を実感する。

 改めて聴くと、少しくすぐったい気持ちになる。彼の言葉は純粋で、本物だ。だからこそ、彼が今抱えるもどかしさも、ルカにはわかる。

 ルカだって同じ気持ちだ。生きているだけで迷惑をかける――その考えが自分を苦しめた時期もあった。しかし、そんなものはただの杞憂に過ぎない。


「私も同じだよ、アルヴィン。力がなくても、貴方はいつも、私のためを思ってくれている」

「でも」

「……突然力がなくなって、もどかしい気持ちもわかるわよ。だからといって、自分で自分を追い込んで欲しくない」

「……」


 ルカは屈託のない笑顔を見せた。アルヴィンは眩しそうに目を細めて、ルカに手を伸ばす。 呆然と立ち尽くしているルカの月白の髪に触れようとしたところで、強い風が吹いた。

 瞬間、ぴたりと彼の腕は硬直する。宙に浮いた手が所在なく彷徨うが、やがて彼は手を下ろす。



「俺は、お前のために何が出来る?」


 同じ質問を繰り返す。しかし今度のそれは、彼自身を傷つけるための、言葉の刃ではなかった。


「お前のために、何がしてやれる?」


 言葉を変えて、彼は問い続ける。まるで、己に課せられた使命であるかのように、懸命に彼は模索し続けている。

 だから、ルカは首を横に振った。彼の質問は、正しいようで、少し違う。



「アルヴィン。一緒に考えましょう。貴方がどう生きたいのかを」


 アルヴィンが、ルカのために生きたいと言うなら、それを否定するつもりはない。彼に返せるものは数少ないけれど、だからこそ、変わりゆく彼を見守っていきたいと思う。


「この峰は、変化の最中だから。力を失った妖魔がどうなるのか、私だってわからない。でも、私は。貴方も、みんなのことも、大切だから。一緒に考えましょう」


 アルヴィンが瞬いた。少し気まずげに一度視線を彷徨わせるが、やがて再び、首元の皆月を握りしめる。


「もどかしいことも、たくさんあると思う。貴方たち妖魔が、力を失うことを恥ずかしいと思っていることも、わかってる。でもね、アルヴィン。……ちゃんと、話して。貴方がひとりで悩んでいるの、とても嫌だから」

「ルカ」

「貴方のことも、ちゃんと、大切だもの」


 気恥ずかしげにルカが告げると、アルヴィンは頬を緩める。少し困ったように頬を赤く染めて、今度はためらうことなくその手を伸ばす。

 ルカの頭に手を置き、眩しそうな目をして、二、三度頭を撫でる。

 ルカも気恥ずかしい気持ちになるが、悪くない。やがて満足して離れていく彼に笑いかけては、入り口に向かって足を進める。



「お昼、食べにいきましょう。私、お腹すいちゃった」

「……俺もだ」


 苦笑するアルヴィンに、ルカは大きくうなづいた。


「お腹がすくの、お揃いになったね」

鴉は、己の力を失ったことをようやく打ち明けられ、少し肩の力が抜けたようです。


鴉に続いて、次回は、レオンの変化です。

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