◇◆ 四 ◆◇
ふと目を覚ますと、ベッドの中にいた。周囲を見渡すと、いつも通りの光景で特に変化は見られなかった。
やはり私の想像通り、あれは夢だったのだ。
当たり前といえば当たり前のことだ。それ以外に考えようがない。
妙にリアルな夢だった。実際に起きたことを夢で追っただけなのだが、いつも見る夢とはどうも異質な何かを感じた。普段は視覚的な情報ばかりなのに対し、今回の夢では触覚を始めとした五感全てに訴えかけてくるような感覚だった。それこそ、本当に当時に戻ったかのような錯覚を覚えるほどだった。
私はいつもよりも若干の気怠さを感じつつ、ベッドから出た。洗面所へと向かうと、歯を磨いた。寝起きすぐの口臭が我ながら嫌いなのだ。
その後、お湯で顔を洗った。タオルで顔に付着した水滴を拭き終わる頃には、思考を夢から現実へと切り替えることができていた。
もう少し、夢の余韻に浸っていたい気持ちはあったが、如何せん朝は時間が無い。
私は「着替え・髪形のセット・朝食」といういつも通りの順番で支度を済ませ、新聞片手に玄関を出た。何となく、今日のネクタイはお気に入りのピンクのものにした。
電車内は相変わらず混んでいたが、新聞を読むスペースだけは何とか確保することが出来た。今日の紙面は新しいことが多く、この乗車時間だけで全てを読み切れそうになかった。それこそ、大げさな言い方になってしまうが、私の知らないところで大きく社会情勢が変わったのかと思わせるくらい記事が豊富だった。仕事柄、情報に疎くなるのは致命的だ。先方とのやりとりを円滑にする上で、こちらの持つ情報量が大切になってくる。そういう意味で少し反省をし、私は急いで目を通した。
最寄り駅から会社までは徒歩七分程度だった。その途中には飲食店が名を連ね、私の勤めている会社は観光地にあるのだということを改めて感じさせた。道中、いくつか新たに出店したお店が見られた。そこには以前、別の飲食店が入っていたわけで、生き残りをかけた戦いが毎日繰り広げられているのだということをまざまざと見せつけられた気がした。それは我々にとっても他人事ではないはずだ。しかし、今の会社の財務体力を考えると、やっぱり他人事のような気がした。
会社に到着すると、いつも通り挨拶をしてデスクへと向かった。
「あれ?」
デスクに着くとすぐに違和感に襲われた。私のデスクの景色が以前と異なっていたのだ。
私はあまり片づけが得意ではない。そのため、普段はノートパソコンの脇に色々と不要な書類を平積みしている。すぐに気づいたのだが、それが無くなっている。
一瞬、誰かが私に嫌がらせをしたのかと思った。しかし、無くなっていたのは不要な書類であり、むしろ整理整頓されたといった方が表現方法としては適切だった。
誰かが気を利かせてくれたのかと思うと、私は申し訳ない気持ちになった。そして、入社してから初めてのことだったので、戸惑う反面、そういう風に私のような人間にも気遣いをしてくれる方がいるのだということに、嬉しさも感じた。
そんなことから始まり、今日は予想外のことばかりが起きた。
まずは、私がしてしまった失敗についてだ。出勤直後に確認をしたところ、私の知らない間に修復され、しっかりと形になっていた。恐らく、私のことを哀れに思った誰かが裏でやってくれたのだろう。失敗のきっかけが私だったので、どうしてこうなったのかを周囲に聞くことは憚られた。しかし、この事実を知っているのは上司と池田さんしかいないはずなので、間違いなく池田さんがフォローに入ってくれたのだと思う。池田さんは私よりも二十分くらい遅く出社してくるので、私はそのタイミングでお礼を言いに行こうと決めた。
それまでの間に、私はメールチェックを行うことにした。
メールは相変わらずひっきりなしで、一つ一つを確認するだけで最初の一時間は要しそうな勢いだった。
「いーまーだーさんっ!」
うんざりしながら大量に届いているメールを確認していると、後ろから両肩を軽く叩かれた。
「え?……あ、はい」
こんなことをされたのは一度も無かったので、少し驚いてしまった。池田さんを除いて、私にフレンドリーに接してくる人などほとんどいないからだ。
それだけでも驚きなのに、なんと、声をかけてきたのは、あの平塚さんだった。平塚さんの方を向くまでのわずかな間に、ここ最近の不愉快そうな表情を浮かべた彼女の姿が脳裏をよぎった。どんな対応をしたら一番無難なのか、答えも見つからないままに、視線は彼女へとたどり着いてしまった。そして、開口一番、予想もしないことを言われた。
「先月もまた一位でしたね!」
「え、一位…と言いますと?」
「もう、とぼけないでくださいよー。新規顧客獲得数のことですよ」
平塚さんはそう言うと、オフィスの壁にあるホワイトボードを指さした。この営業という仕事は、顧客を獲得してなんぼの世界だ。社員の意識をそこに向ける意図だと思うが、ホワイトボードには社員の名前とその実績を記した新規顧客獲得数の棒グラフが描いてあった。
私は全営業の中でも下位をうろうろしていたはずだったのだが、何故か棒グラフは高く延びていた。それこそ、地上からエンパイアステートビルを見上げるような感覚だった。
「え、いやいや。あれは誰かがいたずらでやったんだと思いますよ。私、そんなに実績出したことありませんから。ちょっと上司に報告してきますね」
「ふふふっ、今田さんって面白い人なんですね」
「え、何でですか?」
「だって、一昨日にこの件で表彰されたばかりじゃないですか」
この平塚という女、一体私をからかって何をしたいのだろうか。あまりにも会話が成立しないことにだんだん苛立ってきた。
女という生き物は本当によく分からない。嫌がって避けるならまだしも、こんな形で接してくるとは思わなかった。しかし、こうやって普通に会話が出来るだけでも、過ごしやすさが変わるのも事実だ。とりあえず今は適当に流すのが得策か。
「はぁ…あ、ちょっと仕事を思い出しました。一旦ここで失礼しますね」
「あ、お邪魔しました。お疲れさまです」
平塚さんの謎の笑顔に愛想笑いを返しつつ、私は席を離れた。
私は仕事で彼女に迷惑をかけ、それ以来、必要最低限しかやりとりをしていない。何か特別なことをした覚えもない。なのに、手のひらを返したような態度の変化。何度記憶をたどっても、その要因となるものは何も該当しなかった。本当に、私は彼女に何もしていないのだ。だというのに、これはどういうことなのか。やはり、私は彼女にからかわれているだけなのだろうか。
時計を見ると、あれから二十分程経過していた。
そろそろ池田さんが出社してくる時間なので、私はお礼を言うべく彼のデスクへと向かった。
私のデスクから池田さんのデスクまでは三十メートルくらい離れていた。そこまで着く間、先ほどと同じような違和感があったが、その正体はすぐに分かった。諸々の配置が変わっていたのだ。私は普段はあまりこちら側に来ないが、ここまで全面的に変わっていて気づかない訳がない。衣替えをしたかのような変わりようだった。あまり社内でそういうことをしたという話を聞いたことが無いが、これはこれで気持ちも新たになるし、頑張れる良いきっかけになるのかもしれないと思った。
しかし、この「衣替え」によって池田さんのデスクがどれか分からなくなってしまった。見たところ、池田さんはまだ出社してきていない様子だ。私は仕方なく、周囲の社員に確認をすることにした。
「あの、池田さんはどちらにいらっしゃいますか?デスクがどれなのか、ちょっと分からなくてですね」
「あれ?この前の朝会で言われましたよね?池田さんは退社されましたよ。というか、今田さんも一昨日の送別会に参加されたじゃないですか」
「……はい?」




