その7
博士の天才 その7
博士は透視眼鏡を外して涙をぬぐった。
自分のささやかな願望はどうしてこうも叶えられないのだろう・・・。
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失意のあまり博士は大学の研究室を辞して引きこもり生活に・・・。
元々めったに研究室から出なかったので生活習慣自体は大して変わらないが、今までは気にしなくとも入って来ていた給料がなくなり、僅かにあった蓄えもみるみる減って行く。
このままでは暮らして行けない・・・博士はやむなく製薬会社の研究室からの誘いに応じた。
その製薬会社は社運を賭けた新薬の開発に失敗して今や風前の灯、そして博士の大学時代の恩師でもある主任研究員は博士の頭脳に賭けてみようと思い立った・・・学生時代から突如として突拍子もない研究を始める変人として物笑いの種ではあったが、そのひらめきと集中力には目を見張るものがあったのを思い出したのだ。
並外れた博士の能力はすぐに発揮され、傾きかけていたその製薬会社の株価は一夜にして10倍に跳ね上がった。
実現不可能と言われていた風邪の特効薬をあっさり完成させたのだ。
従来の症状緩和薬ではない、一度飲めば半日もしないうちに風邪そのものが奇麗さっぱり治ってしまう夢の薬だ。
しかし、透明人間薬、幽体離脱マシン、性転換薬、透視眼鏡と人知れず立て続けに発明してきた博士にしてみればその程度のものは大した発明とも思えない、時の人として新聞、雑誌やテレビからインタビューの申し入れが殺到したが全て断り、ノーベル賞まで断ってしまった、名誉欲はかけらも持ち合わせていなかったのだ。
博士にしてみればインタビューで人に会うなど億劫なだけだし、授賞式のためにわざわざスウェーデンまで行くなど面倒なだけ、ましてダンスパーティなど論外・・・ただ研究室に篭って自分の興味がある研究に没頭出来ればそれが何よりなのだ。
滅多に研究室から出ない博士を直接知る者は少ない、しかも、今や博士は製薬会社にとって至宝と言って良いほどの唯一無二の存在、他社に引き抜かれでもしたら一大事だ。
その点、博士の顔が知られていないのは好都合、雑用は全て代わりのものが引き受けて博士がなるべく外出しないで済むように配慮する、博士にとってもそれは好都合、おかげで思う存分好きなだけ研究室に篭る事ができるのだ。
マスコミは博士の写真を血眼になって捜したが、人付き合いをほとんどしないので写真と言えば高校の卒業アルバムの集合写真が最新のもので、それすら顔が下半分隠れてしまっている始末。
顔写真が出回らないので、以前は毎日の様に通っていた弁当屋のおばちゃんや小さなスーパーの店員も、ぼさぼさの頭によれよれの白衣のお得意さんがまさかノーベル賞を断ってしまった時の人だったなどとは夢にも思っていない。
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しかし、博士の名前は更に世界中を稲妻のように駆け巡った。
透明人間薬を調整が効き即効性のあるものに改良したのだ、これは医療現場に革命をもたらした。
なにしろ患者の胸に塗れば肺を、腹に塗れば胃を、手に取るように観察できるのだ。
レントゲンやCTスキャンと言った大掛かりな機械は即座に無用の長物と化し、医療機器メーカーは頭を抱えた。
「どうしてもノーベル賞を受け取って欲しい、これほどの大発明に賞を授与できないと賞そのものの権威に関わる、お願いだ、お願いだから賞を・・・」
ノーベル財団からの懇願にも博士が首を縦に振らなかったのは言うまでもない。
いまや博士の名を知らないものは居ないほどだが、望んだとおり、博士の生活は何も変わらない。
住まいは研究室の隅にベッドがあれば良く、服はトレーナーの上下に白衣があれば充分、食事は生命と頭脳の活動を維持できれば良く、とてつもない勢いで増え続ける預金通帳の残高にも無頓着・・・博士にしてみれば研究に没頭出来さえすれば良かったのだ。
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ある秋の夕暮れ時、頭髪の問題に悩むすべての男性にとって福音となる外用薬、すなわち確実性と即効性を兼ね備えた毛生え薬を完成させた博士は、中庭のベンチに腰掛けてぼんやりしていた。
ここ数週間研究室に篭っているうちに秋はその深さを増していた。
夏には爽やかな木陰を作ってくれた銀杏の葉も黄色く色づき、そこに夕日が当たって何とも美しい・・・久しぶりに研究室の外に出た博士は飽かずに眺めていた。
「ハックション!」
もうトレーナーに白衣だけでは肌寒い季節・・・博士が腰を上げようとしたその時、ひざ掛けと紙コップが差し出された。
差し出したのは若い女性、制服を着ているところを見るとこの製薬会社のOLらしい。
「あ・・・ありがとう・・・でもどうして?」
「さっきからこの肌寒い中うっとりと紅葉を眺めていらっしゃいましたので・・・お見掛けしないお顔ですけど、研究所の方ですか?」
「うん、そうだけど」
「きっと根を詰めていらしたんでしょうね、そんな格好では風邪をひきます、特効薬も出来ましたけど、ひかないに越したことはないでしょう?・・・これ、小さいですけど少しはましかなって」
彼女が肩にかけてくれたひざ掛けはとても暖かだった、そして紙コップのココア・・・普段はブラックコーヒーばかりの博士だったが、一口飲むとその暖かさと甘さに心が溶け出して行くかのよう・・・。
「美味しいな・・・それに温まるよ」
彼女の優しい心遣いと笑顔の温かさは心まで温めてくれ、ちょっぴりふくよかな体つきと少し丸っこい顔も気持ちを和ませてくれる。
「そうですか、良かったぁ・・・ひざ掛けはそこに掛けて置いてください、後で取りに来ますから」
「あ・・・もう行っちゃうの?」
「まだ仕事中ですから」
「わざわざ僕の為にひざ掛けとココアを?」
「とても疲れていらっしゃるご様子でしたし、ちょっと寒そうに見えたものですから」
「出来たら、もうちょっとここに・・・」
博士がベンチの端に移ると、彼女は微笑んで隣に座ってくれた。
夕日が彼女の笑顔を明るく染める・・・。
「奇麗だなぁ・・・」
「そうですね、秋の夕日に銀杏の葉が映えて・・・この中庭の秋、大好きなんです、あなたも見とれていらしたようなのでつい嬉しくなって・・・」
「いや・・・僕が奇麗だと言ったのはね・・・うん、葉っぱも奇麗だけどね・・・」
「夕日ですか?」
「うん、夕日もそうなんだけどね・・・その・・・なんだ・・・君の事なんだ」
女湯を覗くことには執念を燃やしたものの博士に恋愛の経験はない、しかし、女性と付き合ったことがない分、その言葉にうそ偽りも計算もない、それを感じ取った彼女は恥じらって深く俯く。
彼女の頬が赤く染まっていたのは夕日のせいばかりではなかった・・・その初々しい横顔を目にした瞬間、博士は生まれて初めて恋に落ちた。
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それから毎日のように昼休みには中庭のベンチでのささやかなデート。
博士は彼女が用意して来てくれる弁当に舌鼓を打ち、彼女も博士が喜ぶ顔を見て微笑む。
お互いに名前も知らないまま、気持ちは日に日に寄り添って行った。
初めて博士の名前を聞いた時、彼女はベンチから転げ落ちんばかりに驚いた。
自分の作る弁当を毎日嬉しそうに頬張ってくれる人が、二度もノーベル賞に推されたほどの研究成果を挙げて医療に一大革命をもたらし、傾きかけた製薬会社を今や世界有数の大企業にしてしまい、ひいては日本経済の活性化にまで貢献し、そして今なお画期的な新薬を次々と生み出し続ける頭脳の持ち主だったなどとは思いもよらなかった。
なにしろ、同じ敷地内に勤めていてさえ博士の顔を知るものはごく限られていたので、社員にとっても博士は謎の人物、OL仲間の間でも面白可笑しい噂が飛び交っていたのだ。
曰く、「聞いた?聞いた?頭が異常に大きくて三頭身なんだって?」
曰く、「コーヒーとサプリメントしか口にしないから扇風機の風圧で転んじゃうんだってさ」
曰く、「三年間一睡もしないで、次の三年眠り続けるってホント?」
そして極めつけは。
「ねぇねぇ・・・あの博士ってさ・・・実は地球人じゃないらしいよ・・・」
しかし実際に触れた博士は多少変わってはいるがごく普通の男性、そしてその心はまるで子供のように純粋、博士の気持ちが本物であることには疑う余地もない・・・数週間後、彼女は博士の求婚を暖かく素直な心で柔らかく受けとめた。
「はい・・・私で良ければ・・・」
博士の頭脳ではなく、もちろん預金通帳の残高でもなく、ただただ純粋な博士の人柄に惹かれ、無償の愛に謙虚な気持ちで応えたのだった・・・。
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件の温泉地で愛する妻と楽しむ露天風呂。
博士はもう透明になる必要も、幽体離脱の必要も、性転換の必要もない、もちろん透視眼鏡も。
今、愛する彼女のすべては彼だけのものなのだから。