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◆20◇

旅館の外に足を踏み出すと、すでに外は真っ暗だった。

夏にしては少し肌寒く感じる外気に触れ、ぶるっと身震いする。

慌てていたから上着をもってこなかったが…


旅館の玄関の外に突っ立ったまま、頬にじんじんと熱く痺れる様な痛みが広がっていくのをただぼんやりと感じていた。


そういえば叩かれたんだっけ…、と今更ながら思い出す。


頬に残る冷たい感触。

手で触れると左の頬がじんわりと熱をもっているようだった。


櫻坂さん―――……


申し訳なさで胸がいっぱいだった。

彼女の表情がちらついて頭から離れない。

悲しみと苦しみが入り混じったような表情……

叩かれたことに対して、悔しさも怒りも何も感じなかった。

感じたのは彼女に手を出させてしまった自分自身への怒り。

自分が彼女をあそこまで追い詰めた。


大体…なんで私はあそこで泣いたりしたんだろう。

櫻坂さんの言うように私は泣ける身分なんかじゃないのに。


悔悟カイゴの涙?

悲しかったから?だとしたら何に?

昂へ想いが通じなかったこと?

周りを巻き込んで色んな人を傷つけてしまったこと?

それとも愚かな自分に対して?


――解らない。


今だって意に反して涙が頬を伝っていく。

そんな自分が心底憎らしかった。


本当に情けない―――。

お前はもう泣かないって誓ってたんじゃないのか!


心の中で自分に一喝する。


一体……いつから自分はこんなに涙脆くなってしまったんだろう。

少なくとも昂のことを好きになるまではこんなに涙腺は弱くなかったはずだ。


はは……まさかこれが「恋する乙女」ってやつなの?

……ってそんな可愛らしいもんじゃないか、自分は。

むしろ櫻坂さんだよなあ……その言葉がぴったりなのは。


自嘲気味に笑いながら空を見上げた。

都会の空とは違う綺麗な星空。


---『迷惑だって言ってたわよ』


「迷惑」。

いざその言葉を耳にすると、空から地上に一気に突き落とされたような気分だ。


……分かっていたはずなのにな。


こうなる事は分かっていたはずなのに、何であの時後先考えずに告白しちゃったんだろう。

ついカッとなって、そのまま勢いに身を任せて―――。

どんなに後悔しても、無駄なのに。

こればっかりは自業自得だからしょうがない。

タイムマシーンで過去に戻れるわけでもないし、過去を新しく塗り替える事も出来るわけがないのだ。


なのに―――

今更後悔したところでどうにもならないと分かっていても、どうしても自分の愚かさを悔やまずにはいられなかった。


「………」


目を閉じて耳に届いてくるのは静寂の中に響く虫の音。

生暖かい風が時折頬を撫でていくのを肌で感じているうちに、いくらか心が落ち着いたようだ。


……―――けじめをつけなきゃ。


昂のためにも、櫻坂さんのためにも。

そして何より自分自身のために―――


自分の優柔不断で曖昧な態度が理子や暁君や他人まで巻き込み、昂や櫻坂さんに迷惑をかけ傷つけてきたのだ。

償いには到底及ばないかもしれない。

だけど、今までずっと逃げてきたぶんきっぱりと決着をつけなきゃならない。


「よし」と宙を見据えて、踏ん切りをつけるように小声で呟いた。


この涙が止まったら、昂のもとへ行こう。

それで今までのことを謝って潔く振られに行けばいい。

笑顔で昂の言葉を受け止めよう。


だから今だけは……

この涙が枯れるまで―――――


そう決心を固めた瞬間だった。


「薫?」


――― 何の前触れもなく、風の音に紛れて耳を掠めていった低い声。

その声に思わずギクリと背筋をはる。


―――そんな、まさか。


ここにいるわけがない――思考が回らない頭に空耳だと必死に言い聞かせる。


そう、ここにいるはずがないのだ。

だって彼は今、体育館にいるはずなのだから……


暗闇の中で小さく人影が動いた。

暴れ回る心臓を抑えながら、目を細めて相手の姿を捉える。


う、そ―――――……


「なんで、」


驚きのあまり、言葉が続かない。

彼は自分との距離を2メートルほどにまで縮めてきた。

その瞬間、暗闇に紛れて影しか見えなかった姿がアラワになる。


なんで…、なんでここに昂がいるの…!?


ロゴの入ったTシャツに黒いジャージを身に纏ったラフな格好。

彼の薄茶色の癖のある髪が風でナビいている。

いつも部活で見慣れているはずなのに、そんな格好もやっぱり様になっていてついドキリとしてしまう。

こんな姿を見たらファンの女の子達なんて卒倒してしまうに違いない。


昂は突っ込んでいた手をジャージのポケットから出すと、呆れたように溜め息をついた。


「なんで、じゃねーだろバカ。お前がいつまで経っても来ないから迎えに来たの。俺、シュート練2時間もしてたんだからな」


に、にじかん!?

咄嗟に自分の腕を見つめる。


あ、ヤバ、腕時計持ってなかったんだっけ……


「あの…いま何時?」

「ったく、時計を家に忘れてきたのか?今ちょうど8時過ぎたとこ」


8時ってことは……6時からずっと待ってたの!?

6時っていったらご飯食べ終わってからすぐってことだよね!?


とんでもない罪悪感が胸に押し寄せてくる。


「ご、ごめん!!!謝ってすむことじゃないけど―――!」

「いいって。お前のことだから何か事情が―――」


なぜか昂はそこで言葉を区切ると、じっと私の顔を見つめてきた。


な、何?なんか顔についてる?


動揺を隠し切れず意味もなく自分の背後に目をやるが、そこに誰かいるわけでもない。

視線を昂に戻すとやっぱり昂は私を見ていた。


やっぱり私の顔に何か問題が?

…まさか虫がついてるとか。―――いや、虫だったらいくらなんでも自分で気付くか。


「泣いてたのか?」


一瞬、なんの事を指しているのか分からなかった。

言葉につられて人差し指で目の下に触れると、冷たく濡れている感触に突き当たる。


――やばい。

自分がさっきまで泣いていた事などすっかり頭から抜け落ちていた……


「いや、これはさっきまで顔洗って―――」


慌てて取り繕おうとするが、昂の怖いぐらい真剣な目つきにぶつかって思わず体が強張る。

どこか嫌な予感を胸に抱えつつ、私はごくりと息を飲み込んだ。

どくどくと自分の激しい動悸だけが耳元に響いてくる。


「それにその顔」


昂はそう言って、労わる様にそっと私の左の頬に触れてきた。

昂の冷えた指先に頬の熱が奪われていく。

硬直したまま体が動かせなかった。


「…誰にやられたんだ?」



――――――空気が凍りついたような気がした。











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