プールの出来事
夏休みが明けると肌が焼けているクラスメイトが多かった。ほとんどが部活の練習だろう。中には文化系の部活のはずなのに、顔だけが以上に焼けているものいた。
九月の半ばに差し掛かろうとしているはずなのに、蝉が一向に鳴りやまない。ラストスパートだと言わんばかりの大合唱は集中力を散漫させる。
残暑は季節の移り変わりというものを知らないように、未だに居座っている。
暑い。誰もがそう思っている。
夏休みが終わり、二学期が始まって一学期の成績を挽回したいところだが、この暑さでは融けてしまいそうで身に入らない。暑さのせいか、まだ夏休み気分が漂っている。 少しは気温が下がり早朝が冷えて来たと言っても、それは山の麓くらいだ。早朝も四時から五時くらいで、健全な学生ならまだまだ夢の中に居る。
この暑い日には川にでも入りたくなる。
「モアイ、Tシャツは脱げって」
「プールで泳ぐのに何でTシャツ?」
「見学? えっ、泳ぐのにその格好?」
学校指定の水着に着替えた男子生徒は、タオルを肩に掛けたりフラダンスの様な格好でグラウンドを横切りプールへ向かう。
暑さに負けない声がグラウンドを駆ける。
「着てないって。分かるだろ?」
「モアイ、何の冗談にもなってないぞ」
「見て分かるだろ」
「早く脱げって」
「痛っ、引っ張るな」
「モアイ、早く脱いだ方がいいよ」
「翔まで言う」
モアイとあだ名で呼ばれる生徒の本名は佐藤英秀。あだ名のモアイとは全然関係ない。何かをもじったわけではなく、顔がイースター島のモアイ像に似ていることからそう呼ばれることがある。ごく一部だけだが。
同じ部活で、同じ中学の翔にまでいじられる。
プールに行くのに体育服を着ることは、男子では珍しいかもしれないが可笑しくはない。
でも、英秀は服など来ていない。
来ているのは、水着だけだ。
だが、遠くから見れば服を着ているように見える。
小麦色よりも焼けえた肌は、焼けていない素肌との境がはっきりと分かるほど焼けていた。マスキングテープでも使って肌を覆ってペンキで塗ったようなだった。
Tシャツの形に日焼けしていない姿は、本当にTシャツを着ていると思わせる。しようと思って出来るものでもない。
脱がそうとするクラスメイトをあしらう。
水着を着ているわけだし上半身裸はあまり気にしないが、Tシャツを着ているといじられるならとタオルでマントように羽織り、プールへと急ぐ。
プールサイドで整列して座る。
「何やら可笑しな格好の奴もいるみたいだけど、今日もいつも通り泳ごうか」
眼鏡を掛けた長身の体育教師の才川は英秀を見ながら笑って言った。
黙れとクラスメイトに言うノリでツッコミを入れようとして、喉から出ていく前に口を噤んだ。もう少しで、暴言扱いされるところだった。まあ、前に立つ教師はそのくらいでは暴言扱いにしないことは皆知っていた。
後ろから亮が横腹を指で突く。ニヤニヤしているのが分かる。
お前だなと言わんばかりにクラスメイトの視線が集まる。反対側のプールサイドから変な視線(本人は物珍しさだと思っている)が突き刺さる。
月曜日から気分悪いな。
「シャワー浴びたら水慣れして、いつも通りクロールと平泳ぎを二十五メートル二本ずつと往復二本しようか」
生徒の出席を確認しながら授業内容を簡単に説明する。説明が終わると何か指示されたわけでもなく、バラバラに立ち上がりシャワー室に向かう。前は使われていたであろう腰洗い用の消毒槽に一度降りて、すぐに登る。もちろん消毒槽には何も入っておらず、入学してから何で満たしているところを見たことがない。
左右にあるシャワー室に分かれて入る。半分に分かれても全員が入り切れるほどの広さもないため入口付近で待つしかない。
プールの水に慣れる前に、それよりも冷たい水が体から体温を奪う。
いつも思うが、何故にシャワーの水はこんなに冷たいのだろう。いきなりプールに入ると心臓に悪いと毎年のように聞かされるが、プールよりもシャワーのほうが明らかに心臓に悪い。
冷たいとはしゃぐ声がシャワー室の外まで響く。
そんな声に紛れて誰かが静かに言った。
「待って、ドア開いてる」
声が聞こえたシャワー室だけ静かになる。
外で待つ生徒と反対側ではしゃぐ生徒には聞こえていない。
声を殺し紀杜は指を指す。
その先には開いたままになっているドアが一つあった。
誰かが息を飲む。
「誰も開けてないよね」
弾もうとする声を抑えようとして、変な声になった志田が尋ねる。
「誰も開けてない。ずっと開いてた」
ドアが開いていることに気付いた紀杜ではなく絵士が答える。
なるべく音を立てないような歩きで近づく。シャワーの冷水がコンクリートの床に当たって足音をかき消す。
早く出ろよー、と後ろから声が聞こえるが無視する。
体育の授業時間よりも大切なものがあると彼らは考える。今では決して見ることのない景色があることを。
紀杜はドアの曇りガラスに手を付いて中を確認する。
何か見たのか、振り返り微笑む。
「マジだった」
「マジで?」
自分もとシャワー室の中にいた生徒が集まる。中身を見ようと押しやりドアの向こう側を覗く。
そこは、十二畳ほどの広さの部屋と扉のない正方形のボックスロッカーが縦に五列・横に八列だった。籠の数少なかった。籠とロッカーには脱ぎ捨てられた制服やタオル、通信端末が散らかっていた。
だが、そこは問題ではない。なぜならこの部屋はプールに隣接するどこにでもある更衣室なのだから。服が散らかっていても何も問題ではない。そういう部屋なのだから。
それが男子更衣室なら。
確かにドアの上には、『男子更衣室』と書かれたプレートが見えるが、飾られているだけにしか過ぎない。
男女それぞれにあるプール隣接の更衣室を二クラスで使うことは広さ的に出来るわけがない。そのために、大抵の学校は体育館もしくは教室で男子が着替えることになっている。女子は更衣室になっている。
そう、今みんなが覗いている部屋は男子更衣室でありながら女子が着替えている。そのため、散らかっている服は女子の制服である。
プールは水着に着替える。そのため、散らかっているのは制服だけではない。
下着も例外はない。
服の一番下で隠している女子生徒もいるが、何もせずに見られることを気にしていない生徒もいる。女子しかいないのだから当たり前なのかもしれない。
「無用心過ぎるだろ」
温泉来ているかのように脱いでいる。
男子に観られないという前提条件で、実際に見ることが出来ないことが分かっているからこそ適当に脱ぎ散らかしているのだろう。
「これ意味ないよな」
雄一がドアを揺らしながら指摘する。
「確かに」
「覗いてくださいって言ってるようなもんだもんな」
「何かのアピールかよ」
「発情期なんだろ」
シャワー室の中だけで聞こえる声で笑う。
覗き・盗撮禁止と言われているけれど、そんなことを言う前にドアを閉めることぐらいは心掛ける以前に常識だと思う。男子でも閉める。
鍵を閉めていないことはあるかも知れないが、男子も使うシャワー室に直接繋がるドアは必ず閉めて欲しい。思春期の男子の目の前に女子更衣室のドアが開いていて誰も居なかったら覗きたくなるだろう。温泉に入っていて男湯と女湯を区切る仕切りが透明だったり無かったりしたら誰でも見てしまう。見るなと言う方が無理である。それと同じことである。
女性が男性の更衣室を覗いた場合はどうなるか分からないけど、男性が女子更衣室を覗いたら弁解なしに犯罪者と一生変態扱いを喰らうだろう。
でも、こいういう場合は許してやりた。
彼らに悪意なんてない。
その先にあるものを知りたいという人間の欲求心・探求心に従っただけなのだから。
覗いたことは他のクラスの女子に蔑まれるだろうが、そもそも開いていることが悪いのだ。男子もシャワー室を使う事は最初から分かっていた事なのだ。見られたくなければ閉めるのが道理である。
黒板にテストの答えが書いてあれば誰でも見るのと同じことだ。
空き巣に入りたくなければ戸締りをしっかりとすることが当たり前だ。
原因となりうることを自らが作らないことがもっとも大事なことだ。
早くしろー、とシャワー音に混じりながら才川の声がする。
反対側のシャワー室にすでに誰も残っていなかった。
「戻るか」
「何だかんだ言って、ここに居ると寒いもんね」
「さっきからシャワーが右側にだけに当たって麻痺してきた」
シャワーを止めて、寒さに体が震える。
階段を下りてまた登る
「人が居たら面白かったけどね」
「それはさすがにまずいぞ」
志田の言ったことに紀杜が真剣な顔で答える。
笑いながらみんなに合流するけれど、女子のほうを見ることが出来なかった。
律儀にドアを閉めて。
「先生、そろそろ自由時間あってもいいと思います」
泳ぎ着かれたのか、単純に飽きたのか、調子の良い声で宇佐美知宏が才川に言う。
その態度にも怒ることなく、笑みを浮かべたまま、もう少し泳いだらね、と返す。
「今週で水泳も終わるからいいじゃないですか」
「次は考えるとくよ」
目を逸らしたことが次もないと周りで聞いていた生徒も分かった。
高校に入ってから水泳で自由時間と言うものはほとんどなかった。いつも、クロールと平泳ぎを二十五メートル二本ずつと往復一本ずつ泳いで他に何かやれば、終わる。
普通ならもっと押すか粘るかするが、今回は簡単に諦めた。
彼らも学んだのだ。
才川の目線が自分たちではなかったことを。そこから、察した。
厄介なものがいるということを。
楽しそうな高い声の聞こえる方を見て誰かがため息を吐いた。正確には、その中のある人物を見て。
皆川久。才川と同じ体育教師で、二クラス合同でやっている体育の女子を担当である。
商業と工業を併設したこの学校は、大きく分けて商業科と工業科に部類される。柊たちは工業科で、彼らと一緒になるクラスは商業科に分類される。大きく分けた二つの科はあくまで生徒や教師がそう呼んでいるだけであって正式なものではない。三つ以上の科が存在する学校ならあるあるのことだが。
大きく分けただけでなんとなく分かると思うが、工業科には女子はいない。もちろん、柊たちも例にならっている。だからと言って、商業科に男子がいないわけではなく、少数だがいる。
そんな女子たちと駄弁りながら戯れている皆川を呪うような眼で見る。彼女らの担任は、もちろん皆川だ。
彼らが呪うような眼で見ているのは嫉妬からではない。嫉みや妬みという感情を彼らは、皆川には抱いていない。少しぐらいはあるかも知れないが、眼の奥に宿る炎は別の事で燃え、その視線から感じ取ることは出来ない。
女子と楽しそうに笑い、優しく教え、無理強いさせたりしない指導は、賞賛を貰っても可笑しくはない。良い指導者である。
一般的に見れば。
「終わりまでには、自由時間を取るよ」
何も変わらないけれど、ありきたりな言葉で宥める。
彼らもまた一歩引いて、それを受け入れる。
解りきっている夢は持つものではない。
気を取り直して現状を楽しくしようと、列ごとにレーンに並ぶ。
二十五メートルを泳ぎ切るとプールサイドに上がり、プールの横で整列して並んでいたが、往復になるとスタート地点に戻ってくるため、前の人が行ったら合図なしに各自勝手にスタートする。
最前列に並ぶ生徒たちが水の中に入り、笛の合図で泳ぎ始める。それに続いて後ろに並んでいた生徒がプールへと入る。水飛沫をあまり上げないようにゆっくり入る生徒もいるが、それは商業系のクラス。回転式の椅子の上に立って回るような小学生みたいな行動をするバカなクラスの中には、ワザと背中から飛び込んで水をまき散らしたり、プールの中から差し出した手を掴むと無理やり引っ張り誰かが後ろから蹴るとそのまま顔から水面にダイブしたりする。もうほとんどお決まりみたいなものだ。
その度に、鋭い視線を感じる。本人たちは気にしていないようだが。
「柊、静かに入れー」
プールから上がるために設置してある手すりに手を付いて体重を掛けている才川が注意する。
笑っている顔は、ふざけていることに関して咎める様子はなかった。むしろ、楽しんでいる。教師と言う立場上、一応は注意したというところだろう。
あのまま落ちないかなあ、と考えている。
プールに落ちたのは日向で、手を差し伸べたの柊、蹴ったのは弥市だ。このようなことは、大抵が日向か海斗の役割になっている。
ゴーグルをする暇もなく落ちた日向は、顔を手で拭きながら焦っていた。何に焦っているのかは分からないが。コースを区切るための浮を潜り、自分が泳ぐはずだったレーンに移動する。
「準備良いか?」
歯で挟んだ笛を手に取り尋ねる。
「オッケーです」
右を上げて柊が答える。
笑いながらもぶれた笛の音を鳴らす。
合図なしにスムーズにスタートするはずだったが、今ので仕切り直しというわけだろう。
最初にスタートしたのは柊で、それを見ていた海斗が追うように壁を蹴る。日向以外がバラバラに泳ぎ始める。日向はというと、首に下げたゴーグルを装着している所で笛がなった。柊が答えた時には、まだ何の準備もしていなかった。それを分かっていて才川も笛を鳴らしている。
慌ててゴーグルを着け壁を蹴る。
五メートル進んだところで、日向は水中に潜り何かを始めた。別に潜水をしているわけではない。一人だけ遅れているのに、ここで潜水を始めたら変な目で見られるだけだ。それは分かっている。
それでも、潜らなければいけない理由があった。
水中で溺れるような動きをする。亮の言葉を借りるなら、行動がうるさい。その動きは変な目で見られても可笑しくはない。
その場に立つと最後の確認を済ませて泳ぎ始める。
壁を蹴ってスタートした時に、水圧に負けて水着が脱げかけた。それを直すために水中で変な動きをしていた。プールの中であっても水が透明なのは変わらないのだから、みんなには見えている。
それと、水着が緩くて脱げたかけたと日向は思っているが、実際は、壁を蹴った瞬間に紀杜が後ろから手を伸ばして水着の無理やり脱がそうとしていた。
そんな事には、気づくことなく泳ぎ続ける。
「須田、あまり虐めるなよ。女子もいるからな」
注意する気などさらさら無いことが声色から伝わってくる。
明らかに、差がありすぎて追いつくことは出来ない。
固く結んだはずなのに半ケツ状態になっている。
「あいつ、何がしたかったんだ」
「あんな変な動きまでした意味ねえーな」
それを知らせることもせずにケラケラと笑っている。
前を見て誰もいないのは日向も分かっているので、特にスピードを上げて泳ごうとはしていないが自然と速くなる。一人で泳いでいるのも恥ずかしくなっている。一人で泳ぐよりも、半ケツ状態で泳いでいる方が恥ずかしいと思うが。
Uターンする時に、息を整えるついでに周りを見渡すと、すでに次のグループは泳ぎだしていた。
少し焦ったが記録も取ってないし大丈夫だろうと考え、スピードを変えずに泳ぐ。
後ろの人と当たらないように右側を泳ぐ。通常は一人しか泳がないことを前提に幅を取っているレーンの右側は浮きに手が当たりそうになる。平泳ぎならすれ違うときに当たるだろう。
折り返して半分ほどまで来たが、日向は誰ともすれ違わない。
あれくらいで終わるはずがない。先程はほんの遊びでしかない。彼らの本気の悪戯はこれから始まる。
距離を確かめるために顔を上げる。上下する波の間に不気味な笑みを浮かべた見知った顔があった。こちらを見据えたまま口角が上がっている。
止まって底に足を着こうとする。
でも、すでに遅い。
柊はゆっくりと近づきながら沈んでいく。左から誰かに腕を掴まれ水中に引き込まれる。
「ちょっと、待って」
横をみると海斗が居た。
掴むことの出来ない水を掴もうともがく。口の中に水が入ってくる。吐き出すことを忘れてでも、水を掴もうと必死になる。足裏が底に着いたのが分かり力を入れて立ち上がろうとする。が、不自然に体が前のめりになり脚に力が入らなくなる。力を向けるものが無くなった脚をバタバタさせる。足首を掴まれているのが分かる。抑え込もうとする誰かの手を無理やり振りほどこうと、さらにばたつかせる。
紀杜は足首を掴み引っ張る。上下に動く足を無理やりにでも止めようと力を入れる。必死になっている人間の力は普段よりも強い。火事場の馬鹿力というものだろう。
周りから見れば、プールの中で虐めているようにしか見えない。
少しずつ近づき目の前に立った柊は体を水面下に沈める。底を蹴って距離を縮める。懐に入ると日向の水着を掴むと一気に下ろそうとする。もともと半ケツ状態だった水着は簡単に脱げる。見えてはいけないブツが出そうになる前に、自由に動く左手で上に上げる。ブツこそ出なかったものの、お尻は全て出た。
「おい、マジで、止めろ」
口から空気を吐き出し、新しい酸素を取り入れる。
必死に抵抗するが、三人がかりの水中では無駄なあがき程度にしかならない。動けば動くほど体力が削られて、酸素が体から失われていく。振りほどくより酸素を確保することに必死になってくる。
本当に虐めているようにしか見えない。それも命に関わる様な行動で、訴えられても可笑しくはない。それを止めない教師もまた悪い。
それが、本当に虐めならすでに問題になっているはずだ。教師もプールサイドで笑っていたりしない。彼らも虐めるなら公開処刑のような真似はしない。多くの目に留まるような場所なのは分かっている。
彼らの悪ふざけは必ずしも一方通行とは限らない。
息を吸って潜った柊はそこで停止した。急いで顔を出すと、周りを見渡して誰にも(クラスメイトより女子に)見られていない事を確認してから水着を上げ紐を固く縛る。後ろで日向の脚を握っていた紀杜も同じように水着が脱がされそうになった。紐を固く結んでいて下ろせずにいた。
紀杜は出なかったものの、柊はブツが完全に露出した。女子に観られた変態扱いは間違えない。いや、変態という称号と一緒に副賞で停学も貰えそうだ。才川はそれを見て笑っているが、女子たちに教えている皆川に見られたらその場で生徒指導部へ連行される。今、こんな悪戯をやっているだけでも見られたら何を言われるか分からない。
幸いにも、女子も皆川も見てはいなかった。
柊の水着は知宏が、紀杜は匠平が下ろした。
因果応報ということだろうか。少し違うが、そんな感じだと思う。自分がしていたことが、そのままの形で帰って来る。ブーメランとはまた違うが、どんな行いも稀に自分に返って来ることがある。
こういう場合は、連鎖と言うべきか。
不意を突かれたことに、露骨に悔しがる。
別に日向と二人が手を組んでいたわけではない。助けを求めた訳でもない。仕返しの合図を送ってもいない。どんな関係もない。二人は、柊たちと同じことを考えていて先を越されただけ。先を越されたものの、実行できるタイミングが目の前に転がり込んできた。偶然転がって来た野球ボールを拾い上げるように、実行に移した。
まさか、同じことを自分たちにされるとは考えもしなかったはずだ。大勢の生徒の前で怒られることよりも恥ずかしさを覚えた。同じ悪戯に引っ掛かったことと、ブツを露出してしまったことの二重で。
日向は、拘束が解けたことが分かると振り払い、近くに居た海斗の水着を下ろした。彼なりの仕返しだったのだろう。顔が抵抗している時よりも、必死だった。
「お前ら早く上がれー」
いつまでも遊んでいる六人に促す。このままでは、授業を忘れて時間まで遊びそうな雰囲気が漂っていた。
プールから出ようとする生徒を引っ張ったり押したり水の中へと戻す。少しは戯れながら上がる。
プールから出るだけでも無駄に時間を食ってしまう。
腕時計で時間を確認している間に整列する。グラウンドの向こう側の校舎に掛けられた普通よりも大きい丸い時計は、遠くて長針と短針が分からない。数字はぼやけて形さえ捉えることが出来ない。何かある程度には分かる。
何かを考えながら、今度は教師用手帳を開き眺める。
早くして欲しい。生徒たちの心はそんな事を考えていた。まだまだ夏の残暑が続いているとは、濡れた体では寒さを感じる。ぶるっと体が震えて鳥肌が立つ。太陽は出ているが、時折、吹く風が肌を滑り体温を奪っていく。服を着ていれば、心地よい風に思えて快適な昼寝が出来る。
何故、一番暑い時に水泳しないで、中途半端に寒さを感じるときにするのだろうか。初夏は、まだまだプールに入るには寒い。九月は風が濡れた肌を震わせる。どちらも、入っている時の方が寒さを感じない。本当に、疑問である。
「寒いから早くしてくれないか」
体を震わせながら誰かがぼやく。
その声に反応にして、教師用手帳からもう一度確かめるように腕時計を見る。周りを見渡す。
時間的に少ししか経っていないが、寒さのせいで長く感じてしまう。
少しだけニヤけて言った。
「自由時間にするか?」
寒さで早く終わってほしいと思っていた生徒たちの顔に笑みが戻る。諦めていたから予想外だったのだろう。
震えていた体が、そわそわし始めた。
「時間まで好きにして良いぞ」
その言葉が言い切る同時に、歓声にも似た声が上がった。
よっぽど嬉しかったのだろうか、授業中という事を忘れて叫んでいる。
水を与えた魚のように、プールの中へと入る。喜びのあまり無駄に綺麗な飛び込みを絵士がした。水飛沫を派手に上げず静かに入水して端まで浮き上がることなく進んだ。それを真似して紀杜と柊も飛び込む。綺麗とは言えないが、形になっていて腹から着水することをなかった。後を追うように飛び込む日向であったが、みんながみんな上手く出来るわけではない。特にこのクラスでは奇跡のようなことも起こる。
空中での姿勢は綺麗だった。そのままの形で水に入れば絵士のように教科書通りのお手本になる飛び込みが出来た。でも、ある意味で奇跡を起こしてくれる日向は、みんなの想像を超えるものを見せてくれた。
誰もが腹から着水して、痛みに悶える日向を期待していた。空中での綺麗な姿勢を見て才川は、上手いけど面白くないな。腹から行ってほしかったな、と思っていた。教師でさえ失敗することを楽しんでいた。
指先が水面に触れようとした時、固く凸凹した何かに触れたような気がした。気がした直後、顔を押し潰れるような痛みを感じた。美顔ローラーのローラーだけをボコボコの溶岩に交換したような痛みだ。本当に顔が変形しそうになる。
コースを区切るための浮は、顔の次は胸板を転がり足先までとても痛いマッサージを喰らった。
綺麗な形で指先から入る予定だった飛び込みも、顔からの着水となった。
前方に水飛沫を上げた日向は、素早い速さで底から浮き上がって来た。
「痛っ、イタイ。あーマジでヤバい」
顔を抑えて叫ぶ。
鼻血こそ出ていないものの、顔は赤くなっている。鼻血でプールが赤く染まっていたなら、感染症などを恐れてすぐに中止になっただろう。そうなると、楽しみにしていたプールの自由時間は当然無くなり、子供からおもちゃを取り上げたような罵声を浴びた事だろう。鼻血ではなく血祭りになってもおかしくない。
浮きに激突するというアクシデントを起こした日向だが、それは誰かが予想していても可笑しくはない。プールサイドで笑っているクラスメイトの中にいるはずだ。起きる期待をしていた生徒が。
如月や雄一は何となく予想していたと思う。
でも。
「マジで痛い」
「そんな事はどうでもいいと思うよ」
絵士はどこか引いた声で言う。
「どうでもは良くない。マジで痛い。壊れそうになるくらい痛い。もう上がろう」
「上がるのは止めた方が良いよ」
冷静にアドバイスをする。
何で? と訳の分からない日向は訊き返す。何が起きたか理解できない。
言いにくそうに、目で教える。
近くで笑っていた柊や紀杜の笑い声が消えている。プールサイドに腰を下ろした弥市や亮の抑えた今にも吹き出しそうになっている笑い声が聴き取れた。真ん中から向こうで遊んでいるクラスメイトの楽しそうな水の音が聞こえる。
追った目線の先に水面を漂う群青色のパンツ。波に揺れる水着を気まずそうに、けれど、面白いと言いたげな笑みを絵士は浮かべる。
それが何かはすぐに理解できたが、何が起きたのかは理解できなかった。けれど、すぐに現状が理解できた。
プールから上がるために縁に手を掛けて少し持ち上げていたことに気付いて、手の力を抜いて水の中に戻る。顔だけを出して周りを見渡し誰にも見られていないか確かめる。女子はすでに授業が終ったらしく姿が見えなかった。
「ちょっと取って」
恥ずかしそうに絵士に頼む。
「そうね? うーん」
素直に従うわけもなく、ワザとらしく考える。
その横を悪意に満ちた笑みを浮かべた柊が通り過ぎる。まずいと感じた日向は股間を隠しながら水着に手を伸ばしながら近づく。
「ただの露出狂だな」
「女子がいないのが、惜しかった。出来れば皆川が居ても良かったのに」
「確実に停学だな」
「二か月はこのネタでいじれた」
楽しそうに弥市と亮がワザと聞こえる大きさで話す。
そんな事を気にしていられない日向は水の抵抗に苦戦しながら漂い少しずつ遠ざかっていく水着に近づく。焦りと羞恥心の混ざった顔は面白い。必死な日向を周りで見ているクラスメイトは笑っている。
もうすぐ届くというところで、柊に先を越されてしまった。
「ちょっと待って。マジでお願い」
そう頼んでも素直に返って来ないことくらい分かっている。
「はい、紀杜」
後ろにいる紀杜に投げ渡す。
「おう」
受け取ると、丸めてボールのようにする。キャッチボールでもするかのようにプールサイドに向けて投げる。水分を含んだ水着のボールは放射線を描く。頂点を過ぎる前に広がり空気抵抗によってスピードが落ちる。ひらひろと空中を泳ぎプールサイドを囲むフェンスに当たる。
「そこは違う。マジでヤバい」
フェンスに当たったのを見て、弥市と亮が静かにプールに入り遠くに泳ぐ。
「ねえ、取って」
二人に頼むが、耳に入ることはない。
今は女子がいないと言っても、いつ現れるか分からない。遠くから見てるかもしれない。もとより、温泉ならともかく学校のプールで裸のまま歩きたくはない。皆川にでも見られた日には次の日から教室に居ることはない。
どうやって取ろうか考える。
きっと、誰に頼んでも面白がって取ろうとはせずに裸のまま行けよと言われそうだ。才川は、笑って濁しそうだ。自分で取ろうにも裸では何もできない。このままでは、教室に戻ることも出来ない。
恥覚悟で取りに行くしかないな。
「日向、俺が取り行こうか?」
柊が唐突に言った。
予想していなかったから藁にでもすがる思いで頼みそうになったが、眼が笑っていなかった。何か悪事を考えている時の顔だ。
「取って来て」
遠慮がちに頼む。悪意だろが、善意だろうが、どっちにしても誰かに頼まなければならない。少しくらいの条件は飲める。恥をかいて露出狂のレッテルを張られるよりはマシだ。停学にならないだけでも良い。
入学してもうすぐ一年と半年くらいになる。クラス替えもなかったのだからクラスメイトの正確は少しくらいは把握しているはずだ。
柊が自ら始めたことにただの善意を向けるはずがないことを。
日向はただでさえ何も考えていない馬鹿だと弥市に普段から言われているのに、少し考えたくらいでわかるはずもない。
ジュースを奢れという簡単な条件を出されると考えているが、そんな甘いことは考えていない。面白いおもちゃが目の前にあるのだ、いじるネタを一つや二つは作って置きたい。
「これが出来たら良いよ」
水の中に潜り、段差を登ると体を丸めた。
何をするのだろう、と考えていると答えにたどり着く前に水面からイルカがジャンプした時のように何かが飛び出した。三メートルほどの高さまで舞い上がった柊は月の様に円を描き後ろに一回転する。
落下は綺麗とは言えないが、見事なジャンプではあった。
「どう? 出来たら取って来るよ」
いじめっ子がいじめを止めてほしければ自分を殴ってみろよと言うかのような口調で日向を尋ねる。
誰でも一回はやった事があるから分かるかも知れないが、これは土台となる人間との相性も大事になる。起き上がるタイミングと飛び跳ねるタイミングが同時でなければ成功しない。どちらかが早ければバランスを崩す。慎重にやると土台になっている人間の息が持たない。
出来ると思う、と根拠もない返事をする。
だからと言って飛ぶ人間の技量が要らないわけではない。
絵士は息を吸い込み潜る。その肩に日向が乗り、バランスを確認すると頭を叩いて合図を送る。肩に乗ったことを合図で確認して絵士はプール底を力の限り踏み込んでて垂直に立つ。映画で怪獣の海の中から出て登場した時のように水を四方に飛ばす。絵士の膝が真っ直ぐになるのとほぼ同時に肩を蹴って空中に真っ直ぐ飛ぶ。柊と同じくらいかそれ以上に舞い上がった日向。そして、重力に逆らう力を失い自由落下を始める。派手に水飛沫を上げて絵士のすぐ目の前に落下した。
「危なっ!」
目を丸くする絵士の代わりに柊が声を上げた。
「今の危ない。気を付けろよ」
プールとシャワー室を繋ぐ階段に腰を下ろし教師用手帳に何か書き込んでいる才川が怪我はするなよと注意を促す。
水中から顔を出した日向に見ていた生徒が、一斉に注意や罵声を浴びせる。声が重なり言葉が織り交じる。何を言っているのか聞き取れない。この声の中では、聖徳太子も聞くことを諦めるだろう。注意されているのは分かるが、その声よりも罵声の方がはっきりと聞こえる。
飛んだ姿には褒めることも悪いところを指摘することもしない。触れようともしない。触れないようにしているとも言える。
「もう一回やろう」
罵声を気にせず絵士に頼む。
心優しい絵士はたった今、危険な目にあったのに頼みを受け入れる。心優しいと言うか頼まれたら断れないのかもしれない。
「おーい、そろそろ時間だからな」
そろそろ上がってシャワーでも浴びろと言いたげな才川の声が聞こえる。
校舎に掛けられた丸い大きな時計の長針は薄らと9の数字がある場所を指していた。
シャワー室と更衣室の向こうから元気な女子の話し声や笑い声が聞こえる。着替え終わって教室に戻るのだろう。まばらに数人の女子が太陽に照らされたグラウンドを横断している。
自分たちの思うように遊んでいた生徒達も少しずつ上がり始めている。
息を肺に入れて潜る。
身長も高く身体能力の高い絵士が土台なら少し失敗しても高く飛ぶことは出来る。
今度は出来ると信じる日向は、肩に手を掛けて飛び乗る。水に押されながら頭を叩き飛ぶ合図を送る。合図を受け取った絵士は少し浮かんでいた体から脚を伸ばして立ち上がる。
相性が良くて息が合い高く飛べたとしても空中で回ることが出来なければ、飛ぶことは出来ない。飛び上がる時は真っ直ぐ上に上がるのではなくて、体を少し斜めにして足を振り上げるなければならない。
先程と同じ高さまで上がり、体を丸めることなく足を広げて回った。ミュージックCDのジャケットや何かのポスターなどによく使われているような格好。太陽の光の中に映るシルエットだけなら格好良く見える。
おお、という小さな歓声が上がった。
落下を始めた直後に才川の名前を呼ぶ女子の声が周りで見ていた生徒の耳に入る。真上を見上げていた絵士が声のする方を見る。
面白がって笑っている如月と亮が声が漏れないように抑えている。知宏が何か言おうとして口を噤んだ。悪意に満ちた柊の表情が面白いものを見たというような笑みに変わった。
頭が下に向いたときに日向は落下し始めると感じた。ほんの僅かな時間だけ――実際には感じることは出来ない。そう脳が錯覚しているだけ――無重力を味わったような気がした。
現状を何も知ることなく、ゆっくりと回りながら落下していく。
才川と話していた女子生徒は周りの小さな歓声を聞いて、みんなの観てる方を見上げる。つられて才川も振り返る。
足を広げて高く宙に舞った日向の姿が目に映った。回転している日向を凄いと感じた。少しだけ格好良いとも思ってしまった。
でも、すぐにその全ての割れたガラスのように崩れる。
ほとんどのクラスメイトからは太陽で黒いシルエットに見えている姿も、太陽を背にした女子生徒と才川には別の姿が見えた。
宙に舞う表情さえもはっきりと見える程に。
一瞬、何を見ているのだろうという表情を浮かべて固まった。すぐに自分の見たものが何かを理解して、女子生徒は困惑する。ドラマなんかだと、視線を外して見ないようにするのだが、現実はそうはいかない。落下する日向を落ち終わるまで見ていた。もともと、落下時間もそんなに長くない。飛んで落ちるまでは一分も満たない。
その一分も満たない間に、ある意味では奇跡が起きた。
日向がその姿でCDジャケットのように足を広げて回ったこと。
授業が終わり着替えて教室に戻っているはずの女子生徒が来たこと。
漫画でもこの二つのことが同時に同じ場所で起きているところをなかなか見ない。
一回転することが出来た日向はお尻から水面に当たり派手に水飛沫を上げ、周りにいたみんなに飛び散った。
水の弾けた音を聴いて女子生徒は我に返った。
ありがとうございますと早口で告げると、その場を足早に立ち去った。
女子生徒の後ろ姿がグランドに見える。プールから離れたのに、まだ走っている。
立ち去る姿を見て、誰もが顔を見合って笑った。これから、面白くなると。顔を出した日向は、笑い声は自分が成功したから起きたことだと勝手に思い込んでいた。
もしも、太陽に目を眩ませて見ることが出来なかった。もしも、プールを上がったばかりでコンタクトを外したままにしていて視界がぼやけていたら。女子生徒が走って立ち去ることもなく、クラスメイトが声を出して笑わなかった。いじるネタにならなかったかもしれない。
けれど、何が来たかは今の日向が知っているはずもなかった。
「成功したから取って来て」
近くて笑っている柊に言う。
手を差し出して、待ってとジェスチャーで送る。
咳き込むほど笑った柊は笑いすぎて外れそうになっている顎を確かめる。
「分かった分かった。取りに行くよ」
素直に約束を守る。この時ばかりは笑って素直になる。
たった今、面白いものを見たのでこれ以上弄っても可哀想だ。全裸でプールの中に居ただけでもネタになる。それに加えて、本人は気づいていないけれど、一生のうちでこれ程までに恥ずかしい姿を見られている。
ただ一回転してくれれば、それだけで醜態をさらせることが出来ると考えていた。出来ることなら背泳ぎもやってもらおうとは少し考えていた。
でも、予想していた以上の事が起きた。
もう十分だ。これ以上は可哀想に見える。
スタート時の飛び台のある方から上がっていく生徒の流れを横断して、群青色の水着が引っ掛かったフェンスに近づく。手すりを使って水から上がりフェンスに手を伸ばす。
それぞれ勝手にシャワーを浴びて柊が戻るのを待つ。
日向だけがプールの中に入って静かにしている。宙に舞って女子生徒に見られたのだから気にすることないのに、と思っているみんなはまだ気づいていない。彼がまだ何も知らないことを。
少し触ることを嫌がる素振り見せる。
風が生徒の間を通り抜け、素面を撫でる。
フェンスに当たり引っ掛かったままの水着は風に揺れ、向こう側へと舞う。手を伸ばしても届かない程に。
「嘘でしょう」