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たまには昔の話をしようか  作者: 世界の子羊
10/11

人間も蟻と同じ

 快晴とは言い難いが、雲が少ない今日は三階からでも遠くの山が見える。あと一時間もすれば、あの山も夕焼けの影で黒くなり背を向けている山が茜色に染まる。紅葉に染められたような山よりも鮮やかに、けれど、寂しそうに染まるのはこの時期の夕暮れのひと時だけである。

 夏が過ぎ秋が窓を叩いて訪れを知らせたけれど、それを感じさせないほど気温が高かった。いつまで残暑は頑張っているんだと言いたくなるほどに、駄々をこねる子供みたいに居座った。

 それでも、夕暮れから朝にかけて一気に冷え込むようになった。朝が肌寒くなったけれど、長袖を着るほど寒くはなかった。

「これって、あと二週間で完成すると思う?」

 パソコンと片手に持った専門書を交互に見比べながら、空いた手でレゴブロックで組み立てられたもの指差す。無造作にパソコンやカーペットの上に置かれたそれらは、子供が作るようなお伽噺に出てくる建造物でも乗り物でもなかった。大人が見ても何を作っているのかは分からない。

 作った本人たちにしか分からない。もしかしたら、彼らでさえ何を作っているのか理解していないのかもしれない。

「さぁーね。誰も残ってないしね」

 琳太郎は如月の問いに素っ気ない答える。

 紙の束を一ページ見ては、すぐに捲る。そこに書かれているのは英数字と記号、少しの日本語だけ。何かの規則よって並べられ組み立てられた簡単な文章が数十列あった。行も段も纏まっていない。参考書や専門書などの説明する日本語も存在しない。たまにその行が何を示しているかを簡単に見分けれるように緑の文字で書かれた日本語だけを理解することが出来る。一般の人は。

 プログラム。

 琳太郎の見ているディスプレイに表示されているもの。正確にはプログラム言語で組み立てられたもの。

「多分、無理よね」

 心配はしているけれど、焦る気持ちはない。多分と言いながらほとんど無理だと思っている。

 授業中に与えられた時間では絶対に終わらない。それ以外の時間を使っても完成するかは分からない。少数人数で取り掛かれば終わらないこともない。

「まぁ、俺らは終わったけどね」

 胸を張って自慢してくる。

「お前、何もやってないだろ」

 消しカスを丸めて飛ばす。

 慣れない文を専門書を見比べながら片手でキーボード入力しているせいか、頻繁に打ち間違えてエラーを知らせる音がなる。

「やったよ。片付けとか整理とか」

「誰にでも出来ることだろ。むしろ、やらなくてもあまり困らないけどな」

「英秀が困るだろ」

「英秀が困っても、俺は困らないぞ」

「そうでもないくせ。みんなで組み立てたんだから」

「みんなっていうか、三人だけどな。それにあれの完成形は俺の頭にしかなかったぞ。俺が分かれば、一人でも完成するぞ」

「……そうだけど」

 広い間隔でキーボードを押す音が聞こえたと思ったら、向かい側でエラーを示す音が部屋に鳴る。

「打ち間違えてるぞ」

 慌てて文字を消したせいか、あーという声が漏れる。明らかに消し過ぎたのが、連打音で分かった。

「如月の頭にあったのは認めるけどさ、何もやってない訳でもないぞ」

「整理と片付けならもう聞いたぞ」

「知ってる。それとは、別の」

 向かいのパソコンの横から顔を出すと胸を張って言う。

「レポート書いただろ」

 班で作ったものに関するレポートを兼ねた説明書を製作したのは確かに琳太郎と福井忠則の二人だ。

 展示するの無くても口頭で説明できるが、一人ひとり説明できるほど人数がいるわけでもない。それは建前で本音は説明をするのが面倒なだけ。

「書いたのは知ってる。暇だったからだろ?」

 五人で組まれた彼らの班は、英秀と如月、亀沢泰の三人が出された課題のものを作り上げた。琳太郎と忠則は、遊んでいたという二人が不真面目に聞こえるが仕方ない。何もやっていなかった事は変えられない事実なのだから。

 付け入る隙がない二人を見かねた教師は全体が完成してから製作するはずだったレポートを兼ねた説明書を書くように指示した。

「暇っていうな」

 どうしても暇だった認めたくないらしい。

「暇じゃなかったのは分かったけど、説明文も半分くらいは泰が考えていたじゃん?」

「まあそうだけど、半分は自分で書いたしレイアウトも考えた」

 二人がいなくてもレポートを兼ねた説明書も三人で終わらせることは出来た。むしろ、三人でやってもすぐに今よりも時間が掛かることはなかった。なぜなら、何を目的として、どのような用途のものを作ろうとしたのか分かっているから。誰かに聞かなくても、答えを探さなくても頭の中で組み立てることが出来た。

「作業が減ったんだし良いじゃん」

 作業は減ったのは確かである。そこは素直に感謝する。面倒なことをやらなくて済んだから。

「そうね、枯れ木も山の賑わいってやつだな」

 使い方が少しおかしいが、彼らは慣用句の意味など気にしていない。正しい意味を知らないということもあるが。

「それで暇になったけどね」

「これから暇だな」

 他の班よりも早く終わってしまったせいで、授業中は何をすればいいか困ってしまう。適当に遊んで時間を潰すことになるだろうけど。

 何台かのパソコンのファンの音が静かな部屋で普段よりも大きく聞こえる。

 ブラインドの隙間から漏れる夕焼けの茜色が天井に幾何学的な模様を作る。

 キーボードを叩く指が疲れると伸ばしたり強く握りしめたりする。その度にポキポキと骨の音が鳴る。ページをゆっくり捲っているかと思うと、何十ページも前に戻るために激しく捲る。

 命令式を書き加えてデバックする。

 エラー音と共にデバックの実行は強制的に終了して、下の方に異常な命令式や関数があることを知らせる。テキストを見比べながらどこが違うのか見つけていく。単純な入力ミスなら簡単に見つけられるが、行の全体が可笑しいと解決策を見つけるのに手間取る。Oと0の違いが一番分かりにくい。テキストはゼロのつもりで、そう見えることが少ない。どちらも試して、正解を見つける。

 地味な作業を繰り返す。

 時間が経つに連れてキーボードを叩く音は大きくなり、異常を知らせるエラー音は鳴る数を増していく。

「あぁああああああ、分かんねぇ」

 集中力が完全に切れた琳太郎は廊下にも聞こえそうな声を上げる。片手に持った参考資料のプリンタの束を机に放り投げる。ホッチキスの針で止められた部分から数枚が千切れる音がした。

 椅子に座ったままゆっくりと回る。伸ばした足が椅子や机に当たりそうになる。

「どうした? 行き詰った?」

「行き詰った。実行出来ないって意味が分からない」

 先に進まない作業に飽きている。

「何が違うのか分からない。エラーしか出ない」

「さっきからエラー音しか出てないもんな。スペルとか間違ってない? Oと0ならよく間違えて入力することあるよ」

「両方試してみたけど、無理だった。スペル間違えはないと思うけど」

 わかんないと匙を投げる。

 スペル間違えがない事は、エラーの箇所を見れば分かる。違っていれば、”正しくない関数が存在します“と表示されるか、別のプログラムを実行したりする。参考資料をそのまま入力したなら命令文が間違っているということはない信じたい。それを製作した人が間違った知識で読み取れない命令文をかいていない限り。

 専門書の間にペンを挟んで机に置き、如月は琳太郎の座っている向かい側に回る。近くの椅子に適当に座りディスプレイを覗き込む。察した琳太郎は、椅子ごと場所を譲って後ろから眺める。

 千切れた紙が散らばらないように一枚ずつ手に取り、間違えがないか確認する。気を抜くと自分がどこを追っていたか、分からなくなる。

「スペルは間違ってないな」

 紙の束の上下左右を綺麗に整える。

「そのままパクったから間違えは多分ないよ」

 背もたれを抱えるように腕を回して顎を突き、ただ眺める。

 もう一度デバックを開始してどこが読み取れないのか確認する。

 途中までは上手くいくけれど、エラーが出ると強制的に保存して終了する。

「どこかが可笑しいのは分かるけど」

 途中で終了するからバグがあるのは分かる。

「でも、それがどこだか分かんないんだよな」

 代弁するように琳太郎が暢気に言う。

 如月の横に置いた参考資料の束を取って、一枚ずつページを捲る。

 二人がどれだけ眺めていても分からないものは分からない。ディスプレイ表示された文字列も、参考資料の解説も、完璧に解説することは出来ない。参考資料を読むためのテキストを見なければ、何が書かれているか少ししか分からない。見たところで分かるわけでもないけれど、何も無いよりはマシである。

 マウスを適当に操作して、ポインタを無意味に動かす。

 いくつかの単語を別のものに変換してみるけど、思い通りのプログラムが実行されることはない。

 設定が変更されていないか、オプションを開いて確認する。

「何も変わってはない」

 初期設定のままで特に変更されていない。

 ファイルを保存してウィンドを閉じる。そして、もう一度プログラム製作ソフトを立ち上げる。何も書かれていない真っ白なウィンドに簡単なプログラムを書いて実行する。背景が黒一色の別の小さなウィンドが表示されて、不可解な規則によって並んだ文字列が数行だけスクロールすると止まり、中央部分に白色で”hello“と表示される。

「普通に出来んだな」

 まだかなーと待ち草臥れた琳太郎が気の抜けた声で言う。

「やっぱり、これが間違ってるとか」

 参考資料の束を指差して如月が言う。

「それだったら、あいつが悪いけどね」

 保存したファイルをもう一度立ち上げる。

 今度は一行ずつ消しては、また書き足す。

 その地道な作業を時間掛けてやっていく。

「あれ?」

 半分くらいに差し掛かった時に、何かに気付いたのか如月が気抜けな声を上げる。

「ここか」

 文字列の書かれた後ろにカーソルを動かす。

 普通なら何も書かれていないから最後の文字の後は次の行に移動するけれど、この行は移動しない。何も書かれていないエリアでカーソルが点滅を繰り返す。

「スペースキー押したままになってる。ここ消さないと誤作動起こすことあるよ」

 バックスペースキーで無意味な空白を消す。

 念のために他の行も確認する。意外に空白が多かった。

「多分これでなるよ」

 横に移動して場所を譲る。

「ホントだ。ありがとう」

 小さなウィンドには、正方形の四十九の画像が縦に七つと横に七つに配置されている。小さな画像が大きな正方形を作り意味のある絵を表示している。

「空白には気を付けたほうが良いよ」

「そうね」

 紙の束を渡して、自分の使っていたパソコンの前に戻る。

「誰も来ないな」

「明日は来ると思うよ」

「流石にね」



 校内は慌ただしく、いつにも増して忙しいという雰囲気が漂っていた。

 夏休みが終わり九月も過ぎ去り、秋が冬の手を引いて訪れる。長期休みで足浮立っていた生徒達が気温の下がりに伴って地に足を着いた。けれど、十月が始まり早くも半分が過去となる頃には、また、足浮立っていた。

 イベントの少ない一学期とは違い、二学期はいろんな行事が行われる。やりたくない行事も人によってはあるけれど、大抵の生徒が文句を吐きながら楽しんでいる。浮足立つのも仕方ない。

 時にも息抜きが必要だと思う。

 このクラスの場合はいつでも息抜きをしているようなものだけれど。じゃれ合いの息抜きが勉強みたいになっている。

「そっち出来たー?」

 喜一はクラスメイトたちの飛び交う声に掻き消されないように一際大きな声で尋ねる。

「もう一回言って」

 弥市は聞き取れなかった。

 何か言っているのは分かったけど、言葉が途中で揉み消されたせいで何も届かなかった。

「出来たー?」

 さっきよりも大きい声は確かに聞こえた。

「まだ出来てない」

 申し訳なさそうな声は周りの音に乗せられて別の場所に運ばれて、喜一の元には届かなかった。それでも、雰囲気とジェスチャーで伝えたいことを読み取った。

 分かったー、と一応声に出すけどきっと届いてないと思う。

 弥市は喜一の表情から意味を読み取り、自分の作業に戻る。

 クラス全体で作る工場の最初を任された弥市の班は、ベルトコンベヤを製作することになっている。なっていると思いたいが、実際はそれ以外に作れそうなものが浮かばない。本当はもう少し複雑なものを作りたいと弥市は思っていたが、ベルトコンベヤが限界ということを分かっている。

 時間的問題でもないことも知っている。いくら時間が与えられても、作れるものは何も変わらない。

「人選が可笑しいだろ」

 誰にも聞こえないように小さな声で呟く。

 そんなときに限って無駄に聞こえている奴がいる。

「は? 何て?」

 一メートルは離れている志田が呟いた言葉に反応した。

「今、何か言った?」

「何も言ってない」

 聞かれたくないから小さくつぶやいたのに、そのまま言ったらまた意味の解らないいじりが始まる。時間がないのだから、邪魔に入られるのは困る。

「何か言っただろ? 正直に言えよ。ホントは俺の力が必要なんだろ」

 少年漫画で脇役の少年が言いそうなセリフを自慢げに恥ずかしがることもなく言う。

 正直にキモイと言いたい。けど、言ったら面倒なじゃれ合いが始まることが簡単に予想できる。

 作れるものも限られていて、ただでさえ時間もないのに意味の読めない絡みは避けたい。

「喜一と話していただけだよ」

「それだけか? あとから分かっても知らないぞ」

 その答えで一応は納得してくれるらしい。それでも、まだ何か疑っている。本当に無意味なところで地獄耳だ。

 作業しろよ。今度は声に出さずに心の中で吐き捨てる。

 限定されたものしか作れない原因が班を構成しているメンバーであることも理解している。

 五、六人の班構成の振り分け方を知りたい。どんな人選の仕方を取ったら極わずかな限定的なものしか作れない班が出来るのだろうか。今後のためにも知って置きたい。

 働かないメンバーを集めて何を作ればいいのか迷うことも出来ない。

「これで成績低かったら、呪おう」

 班の中で自分がまともに作業をしているから、きっと、ある程度の成績は貰えると信じている。

 キットに存在する小さな歯車と一番大きな歯車を組み合わせる。

 前に何かの授業で歯車の減速比をやっていたけど、何の授業だったかな。担任が黒板に下手な歯車を描いて得意げに話していた記憶がある。まぁ、減速比の公式なんかは忘れてしまったから、思い出しても意味はない。

 小さい歯車に駆動装置となるサーボモーターから伸びた棒を差し込み、ベルトコンベヤの骨組みとなる部分に取り付けた大きな歯車にかみ合うように設置する。

 作っているもののノウハウがほとんどないが致命的で、どうやればいいのか分からない。

 制御ディバイスをパソコンに繋ぎ立ち上がっているソフトで、最初に習った単純なプログラムを組む。

 プログラミング言語を使用しないこのソフトは、命令文や関数などをアイコンとして使うため、各アイコンがどんな動きをもたらすか分かっていれば、言語を知らなくてもプログラムを組むことが出来る。あと、数値を入力するだけで簡単な動きは再現できる。

 パレットから必要な動きを指定するアイコンをドラッグして数値だけ入力する。制御ディバイスへデータを送信する。送信完了と表示されるとUSBケーブルを外し、サーボモーターから伸びたコネクタを接続する。制御ディバイスに存在するプログラムファイルの中から使用したファイルを選び、スタートボタンを押す。

 サーボモーターが周り始め取り付けた小さな歯車が回転する。回転方向を気にていなかったせいか、逆回転している。

「間違えたけどいいか。テストだし」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 小さな歯車は組み合わせた大きな歯車に力を伝達する。ゆっくりと回り始めた歯車は回転こそ逆だけど、順調に回っている。

 息を吐いて少し安堵する。

 まだまだ初期段階だが、これが出来なかったらこの先ずっと進歩するっことなく時間だけが過ぎていく自信があった。

 終わるための条件を書き込んでいないため、歯車は制御ディバイスの電池残量がゼロになるまで回り続ける。

「次何作るんだっけ?」

 この先に作らなければいけないものが分からない。

 パソコンの前に置いた緑色のファイルを手探りで取り、簡単な設計図が描かれているはずのページを開く。A4の印刷用紙には何度か消した後は残っているけど、設計図らしいものは描かれていない。ページを間違えたと思い用紙を捲るけど、設計図らしいものは見当たらない。簡単なラフスケッチすらもなかった。その代わりに、班員が描いた落書きならたくさん見つかった。

 何を作るか考えている時に描いたことは覚えている。

 それが無いと、どんな形になるのか分からない。

 キーボードの下や椅子の下に挟まっていないか持ち上げて確認する。ディスプレイの後ろの隙間に落ちていないか、身を乗り上げて机と机の間を覗き込む。薄暗くて光が届いておらず、ケーブル以外に確認することが出来ない。手を伸ばしてケーブルの下を見てみようか迷ったけれど、止めておいた。賢明な判断を弥市はした。掃除が行き届いていない隙間に無闇に手を入れるものではない。

「無いな」

 無くても何とかなるけれど、手元にあった方が作業が捗る。一から考えるのが難しい。

 時間はないけど、見つけないと後でいろいろと困りそうだから探す。

 他の班に紛れていないか、見て回る。回るついでに、他の班がどんなものを作っているか見物する。

 何かのヒントを得られたらいいと思う気持ちもあった。

 一人で黙々と作業しているとどうしても行き詰ったり思い通りに上手くいかなかったりと、壁に当たることが多い。スタートした時からずっと当たりっ放しで前に少しも進んでいない。

 参考書に載っている写真を見よう見真似で苦戦しながら組み立てて、授業で習ったことの応用をいくつか組み合わせているもの。形はさまざまで動きもバラバラ。こんなもので一つの作品を作ることが出来るのか、不安になって来る。

 苦労しながらも話し合い楽しく作っている印象は持っている。

 簡単な設計図の書かれた用紙を見つけていたはずなのに、探すことを忘れて展覧会にでも来ているような気分で見て回っていた。

 最後の班は何をやっているのかわからないけど、インターネットを開いていたり、教材で遊んでいたりして暇を潰している。

 この班は見ても参考にならない。

 遊んでいるから参考にならないのではなくて、課題をあまりにも簡略化しすぎる程に理解していると言う意味で参考にならない。全ての班の課題を理解して、自分たちがどんなものを作れば楽できるか知っている。他の班の課題に被るところは、アドバイスと言って押し付けている。

 だから、完成したものを見ても参考に出来ない。

 見て回っても用紙は発見できなかった。

 各班の課題内容な知っているけど、実際に作ろうとしているものは知らなかった。

「ねぇ、ここにあったプリント知ってる?」

 何もやらずに、カーペットの上に胡坐をかいて駄弁っている紀杜に訊いてみる。

「いや、知らないけど? 教室に置いてきてない?」

「それはないと思う。さっきまであったから」

「だったら、その辺に転がってるよ」

「見つけたら教えて」

 一通り見て回ったから、落ちていることはないと思う。

 班員に呼ばれた紀杜は、教師に呼ばれたかのように素早く立ち上がり軽い足取りで、下を見ながら駆けていく。

 近くに座っていたから見かけてないかと思ったけど、知らなかった。

 他に知っていると言えば、班のメンバーだけだ。同じ班だから、もしかしたら持っているかもしれない。

「でも、話しかけたくないな」

 心の声が出てしまった。

 時間が無いからこちらから話しかけることはあまり気が進まない。無駄な絡みが始まったら、大切な時間を無駄にしてしまう。普段なら、一緒に乗ってじゃれ合いふざけ合うのも良いが、今週だけは遠慮したい。

 それでも、当てがないために話しかけるしかない。

「志田、ここにあったプリント知らない?」

「プリント? 知らないけど、どうかした?」

「無いからどこかに紛れてないかなと思って」

「見てないけど。それって必要?」

「あった方がいい」

「無くても出来るんなら、見つけなくて良いじゃん」

「無くても出来るけど、手元にあった方がいろいろと便利」

 簡単に言ってくれるけど、あれを描いたのは弥市だ。志田は何もやっていない。他の班員だって何も手伝ってくれずに、鳥澤にアドバイスを貰って描いた。自分で描いたものだから、簡単に無くなってしまっては悲しくなる。

 それに、いろいろ書き込んでいるからレポートを兼ねた説明書を書くときに楽することが出来る。

 早く作業しろよと言いたげな目を向けてくる。

 ため息を飲み込み、死ねと睨む。

「作業終わった? 早くして」

 暢気な声が聞こえてくる。

「はあ?」

 近くに居たら殴っていたかもしれない。

 肘を突いて手の平に頭を乗せ横になって寛いでいる日向がいた。体で陰を作って弄っているスマートフォンを後ろ見られないように隠している。蹴り飛ばしてやろうかなと思った。

「早くやってよ」

 手伝う気は無いのか、間抜けな欠伸をしている。

「だったら手伝えよ」

「何したらいい?」

「とりあえず、土台作って」

「分かった。あとでやる」

 右から左に流しているのが分かる。

 人を挑発しているのか、素なのかは分からないけど、スマートフォンごと手を踏み潰したくなる。

「それで終わった。残りたくなよ」

「ふざけんな。スマホ弄ってないで、何かやれよ」

「だから、あとでやるって」

 何を言っても無駄だ。

 三日前になっても終わっていない未来が予知能力を持っていて見える。

 どうせ、やらないだろ。そんな言葉さえ呆れて声に出ない。この時は心の底から死んでくれと願った。

 プリントを探す気にもなれず、椅子に腰を下ろして考える。

 簡単な歯車の組み合わせは出来たから、あとはどのくらいの長さを作ったらいいのだろう。長すぎても意味はないし、短すぎると面白くもない。適切な長さが分からない。作りながら考えれば、丁度いい長さが分かるかも知れない。

 考えて答えは出ないから、作ってみる。

 何故、自分だけが作業しているんだろう。

 手を手を動かしながら、その事が頭の中を巡る。

 横でダラダラ寝そべって、どうでもいい話に盛り上がっている班員が視界に入る度に、笑い声を聞く度に、全てを投げ出したくなる。

 ほとんど惰性で作業を続けているようなものだった。



 十月の終わりの週は太陽が山の向こう側に隠れた頃には長袖のシャツを着なければ風邪を引いてしまいそうなほど、寒かった。

 七時を過ぎると、辺り一面が闇に包まれた。

 街灯が少なく車のライトだけが進む道を照らしていた。校舎から見た風景はどこも黒色に染められ、明かりの集合する場所と先の見えない闇の部分を明確に分けていた。左と右では、見える風景が違った。まるで、暖かな幸せと冷え切った希望との境目みたいだった。横に伸びる山も静かに座り、それが怖く感じる。一部だけライトアップされた巨大な細長い岩はに不気味にしか見えない。

 彼らは狭い電気と電子関係の実習を行う実習棟に集まっていた。階段を登った先にあるエントランスで、苛立ちを募らせ愚痴を飲み込んで終わるのをただ待っていた。

 亮は休憩のために設けられている椅子に座り机に肘を突いて重い瞼が落ちないように耐えている。椅子は十本の指で数えるほどしかなく、その内の三つは教師が占領していた。残りは、座りたい生徒が勝手に座った。あとは壁に凭れるか地面に座っていた。

 細めた目の視界は普段の半分しか見えておらず、所どころぼやけていた。

「眠いなー」

 近くの誰かには聞こえるくらいの小さな声で呟いた。

 さっきまでは早く帰りたいと思っていたけど、最初の欠伸が出た頃から睡魔が雪崩のように襲ってきた。

 気を少しでも抜いたら夢へ旅立つ。見ているだけで何もしていないと、いつ旅立っても可笑しくはない。別の事を考えて現実に繋ぎとめる。時々、思考が停止してどこか遠くに一瞬だけ飛んで行こうと羽を広げる。その度に、顔を左右に振って頬を軽くビンタする。

 それぞれが作ったものを組み合わせて一つのものにしようと、目線の先で数人の生徒が動いている。それを囲むように集まっている。

 たまに通る他のクラスの生徒が邪魔だよと視線で見渡して行く。

 邪魔だという事は分かっている。けれど、これは仕方ない。設置する場所がここしかないのだから。文句は先生にでも言ってほしい。出来ることなら、コンピューター室から動かしたくはなかった。

 こんな陰湿な所に誰か見に来るのだろうかと場所を教えられたときはクラス中が思っっていた。

 静かな空間でそれが動く音は大きく煩わしい。

 サーボモーターが回転し擦れてテレビのノイズみたいな音。歯車が上手くかみ合わず外れ時の音。骨組み同士が接触して動作範囲を超えて動こうとする今にでも折れて壊れそうな音。

 何度も聞いて苦労を積み重ねた音は、残りの余生で望んで聞くことはない。

 向かいに座る鳥澤は寝ているようで、眼鏡を外している。寝ない努力すら放棄している。ここまで堂々と寝ていると、ある意味清々しい。

「この暗さが余計ね」

 隣に座っていた如月も気怠そうに腕を組んで猫背になって見ていた。

 エントランスを照らす蛍光灯の光は弱く隅まで届かない。廊下の二つと中央を照らす四つの十二本しか点いていなかった。亮たちの座る休憩のための四つの机までほとんど光が届かずに薄暗かった。

「何か暇だよな?」

「見てるだけってのは退屈だもんな」

「帰っていいかな? 時間の無駄にしか思えない」

「みんな居ても意味はないな」

 ほとんどの生徒がエントランスに集合していて、退屈そうにしていた。時計の針が時を刻む。今日という日が少しずつ終わっていく。

 二十人以上が集まっていても作業しているのは五人だけで、それ以外は疲れと退屈さのせいで睡魔と戦っていた。帰っても良かったが、雰囲気的に帰ることが出来ない生徒がほとんどだった。クラスメイトの目よりも教師の事を気にして残っている。あとから担任にグチグチ言われるのも嫌で残っている。

 早く帰って海外ドラマを見たいと柊は愚痴っていた。

 トイレくらいなら自由に行けるけど、息抜きにと外には行き難い。

「そう言えば、弥市居ないな」

 半分しか見えていない眠たげな眼で部屋を見渡す。弥市の大柄な姿は見当たらない。狭い空間にクラスメイトが集まっていても、特徴のある癖毛の髪と大きい体を見つけられないはずがない。

「あいつなら帰ったよ」

「何で? サボり?」

「サボり。面倒になったって」

「ついにぐれたな」

「前から少しぐれてたけどな」

 本当は家庭の事情というやつで先に帰宅した。遅くまで居残りをするときに限って、家庭の事情が入って帰る。一度くらいならみんな信じるが、何度も重なるとサボってるという噂だけが一人歩きしている。冗談だという事は分かっている。

 同じ作業を繰り返しているようにしか見えないクラスメイトの動きは慌てていて空回りしてる様子だった。

 どうしたら不具合が直るのか分からなようだ。

「でも、分かるな。弥市が嫌になるのも」

 ノートパソコンのディスプレイの光が如月の顔を照らす。薄暗い中で見ていて、眩しくないのか疑問に感じる。

「まぁね。一人で作ってたらどうでもよくなるよな」

「あいつ、文句は言うけど、無駄なところだけ責任感が強いもんな」

「似合わねーよな」

「まぁ、弥市が居てもあまり意味はなかったけどね。というか、ここにいるほとんどが意味ないと思うけどね」

「役に立たないしね」

「だね」

 キーボードを叩く指が忙しく動く。こちらも上手く行ってい無いようで画面中央に長方形の小さなウィンドが表示されたり、バックスペースを何度も連打したりしている。時折、専門書を開いてはページを捲っている。

 中央で作業しているクラスメイトには見向きもしない。

「如月は手伝わないのか?」

 手を止めてノートパソコンの陰でスマートフォンを操作する如月に尋ねてみる。

「何で?」

 質問に驚いて訊き返された。質問された事よりも質問の意味に驚いているようで、ワザとはないらしい。

「如月の班が作ったものも少しくらいは、調整が必要だろ」

「リンとか英秀がやってくれるから問題ないよ」

 誰でも簡単に調整できるように作ったんだから、同じ班ではないクラスメイトが調整することも出来る。わざわざ、作った本人たちでないと調整出来ないシステムにすると展示中に問題が起きた時に、一回一回呼びに来られても困る。メンバーを見つけるのも大変だ。

「お前が手伝ったらもっと早く帰れると思うけど」

「そうかもしれないけど、早く終わってもこっちやらないといけないから」

 専門書のタイトルを指差す。

「確かに」

「手伝ってもいいけど、それじゃ何のために簡略化して授業中に早く終わらせたか、分からなくなるだろ」

 あとから調整に苦労するなら最初から簡単な作りにしてしまえばいい。評価のために複雑にするから大変な作業が増えてしまうのだ

 それに、と続ける。

「どうせみんな作業まともにやってないんだからいいじゃん」

 少し距離があるからクラスメイトには聞こえていないけど、もし聞かれていたら反感を買っただろう。

「それは言うなよ」

「亮こそ手伝ってやれよ。苦労してるぞ」

 ノートパソコン越しに照明の照らす中央を見ている。

「別に何もしなくて誰かがやってくれるよ、喜一とかが」

「人任せだな」

 何だかんだ言って二人とも手伝う気はない。

 慣れないクラスメイトの作業を見て笑っている。

 起動しているプログラム製作ソフトに書かれたプログラムを下から上へとスクロールさせる。右往左往を繰り返す二つの目が瞬きを忘れている。三分の二を過ぎた所で一度スクロールを止めて、目頭を親指と人差し指で押す。十数回ほど連続で瞬きをして、目を擦る。照明が届かない環境でのパソコンの光は目を痛くなるらしい。椅子の横に置いた鞄から目薬を取り出し、瞼を無理やり開いて右と左に二滴ずつ落とす。強く目を瞑り、もう一度目頭を押す。少しだけ潤うとノートパソコンに向き合い、スクロールを再開する。

 薄暗い中でよく目薬が差せるな、と亮は横目で見ながら思う。

 人の通りが途絶えて外からの声を少しずつ聞こえなくなってくれると、このクラスだけ無人の孤島に残されたみたいな感覚になる。実習棟の間を吹き抜ける風が砂浜に打ち寄せるさざ波のように聞こえる。

「何か出そうね」

 目を擦り眼鏡を掛ける鳥澤がそう呟く。

 結構、長い時間ねていたような気がする。五時過ぎにここに来たから二時間以上寝ていたことになる。机で寝ていて体が痛くないのだろうか。腰の辺りが痛くなったりしそうだけど。

「おはよう」

 定番の挨拶で返す。

「ここも学校だし、何か出ても可笑しくはないね」

 笑みを浮かべ、何かを期待している目を如月は見せる。

 学校の七不思議はオカルト的な話ではもっとも定番で誰でも聞いたことがある。ホラー映画も廃屋か学校か病院が舞台となることが多い。

 年頃の高校生でも少しくらいは何か出ることは期待している。普通は何も起きない事を願うが、怖いと思っていてもそれに遭遇したことが無いため、逆に期待してしまう。好奇心というやつかもしれない。

 こういう好奇心が女子から子供っぽいと言われる原因なのかもしれない。

「例えば?」

「元総理大臣の銅像が夜の校舎を回ってるとか。夜間俳諧老人? 徘徊銅像? そろそろ捜索願?」

 怖い七不思議というより馬鹿にしている話にしか聞こえない。

 図書室前に設置されている銅像のことを言っているのだろう。この学校が統合し名前が変わる前に卒業し総理大臣となった人物を讃えて作られたらしい。銅像は上半身のみで大理石の土台に乗っている。以前、亮はその銅像を叩いて鼻に指を突っ込んでいた。敬意を持つわけもなく馬鹿にして遊んでいた。叩いた時の音があまりにも軽かったために中が空洞である誰にでも分かった。銅像と土台のお金の掛け方が可笑しいとその時は思った。

「それ、怖い話じゃないだろ。馬鹿にしてるし」

「徘徊っていうよりテケテケに近いよ。もうテケテケでいいよ」

「でも面白いだろ?」

「他には?」

 睡魔から解放されて覚醒した鳥澤が促す。

 そうね、と面白い話を探すように如月はエントランスを見渡す。慌ただしさと活気のある準備とはほど遠い。夜と朝は長袖のシャツが必要になり衣替えを感じさせているほど肌寒くなってきたけれど、エントランスだけは先に冬を招き入れたように冷え切っていた。梅雨の時期よりもどんより陰鬱な雰囲気が漂う。この空間に活気があると思える人間はいないはずだ。

 廊下側の窓ガラスの外は真っ暗で車のライトだけが通り過ぎていくのが分かる。外側が黒く内側が明るいせいか、鏡ように室内の生徒たちを移している。マジックミラーと同じ原理で映る姿は色が少なく黒の比率が多い。雰囲気をそのまま映し出している。

 クラスメイトたちの顔を一遍するけど、何もヒントになるものが見つからない。

 早く、と小声で亮が急かす。スマートフォンを机の下で操作しているけど、画面の光で顔が照らされていることに気付いていない。鳥澤は教えることなく、声が出ないように抑えて笑う。

 机を突く指が止まり、閃いたようで微かに笑みを浮かべる。

「何かあった?」

「うん」

「話して」

 ワザとらしく咳払いをする。亮が鼻で笑った。

「えっと、あれは七月くらいだったかな? 七月の初めごろ? いや、七月の終わりだったと思う。夏休みに入る前だったと思う。学校が終わって、いつものようにグダグダな部活やってたんだ。その日は珍しく遅くまで残ってたんだよ」

 それはいつもの事だろ、と亮がツッコミを入れる。まあね、と認める。何かのホラー小説の語り口調を真似したのだろう。変な話し方を今、弄ろうか、それとも、日を置いて弥市と雄一も混ぜようか。他の話は、と急かしとして鳥澤はそんなことを考えていた。聞き流す程度に耳を傾ける。

 その日は珍しく朝から雨が降っていた。

 梅雨が明けて二週間、カーテンを開けて差し込む陽射しが体を照らした時のように気温も日に日に高くなっていった。肌寒かった朝も、暑さで寝苦しくて日の出と同じ時間に起きるようになり、睡眠時間がごっそりと削られる。

 梅雨と初夏の香りを乗せた風は、湿度だけを置き忘れて世界へ旅立った。

 もうすぐ夏休みが始まるということで何故か学校全体に活気があった。水を得た魚のように生徒たちは生き生きとしていた。

 朝から降り続く雨と夕方を気にしない気温のせいでジメジメとしていた。

 全ての授業が終わり終礼を終えて、それぞれの部活に向かったり車で帰るために親に電話を掛けてたりしていた。

 当然のように如月も自分の所属する部活へ向かった。更衣室に入り、先に来ていた部活のメンバーと扇風機を点けて鞄を枕にコンクリートの床に寝転んだ。寝るわけでもなく、ただ、仰向けになってスマホを弄ってどうでもいい話をする。

 湿気が肌に触れて、不快な気持ちになる。

 1時間ちょっと何もせずに時間だけが過ぎていった。グダグダと過ごし、雨が屋根に打ち付ける音が同じリズムを刻む。

 駐輪場を行き交う生徒たちの声が途切れた頃、重い腰を上げ着替えて部活を始めた。下級生も経った今来たようで、部活を行う準備も何もされていなかった。

 各々が与えられたことを始める。

 如月は同級生たちと、部活が始まっても話しながら進める。

 教室の半分もない部屋で床や椅子、机に座って手よりも口が多く動く。愚痴や笑い声が雨音に負けじと響く。

 そろそろ真面目に部活やろうか、と言い始めた時だった。狭い部屋の一角に積まれた机が突然崩れた。派手に大きな音を立てて、三つの机が床に転がった。衝撃で床が少し凹んだ。

 その時は、積み方が悪かったとありきたりな理由で気にはしなかった。普段と変わらずのんびりと行動する。

 それ以降も、不思議な物音がなったり物が落ちたりした。

 けれど、適当に片付けていたし物も古かったから次は崩れないように部活を中断して、倉庫や身の回りの整理を行った。そんな無駄な事をやっていたせいで本格的に部活を行う時間が遅くなってしまった。特に早く帰る理由もなかった彼らは、珍しく遅くまで残ることを決めた。

「それでさ俺、CAD室に忘れ物していたことに気が付いて、取りに行った訳よ」

 あそこって意外に不気味なんだよ、と付け加える。

 聞いていた二人は、廊下の方へ目を向ける。

 CAD室はこの実習棟の二階にある。製図室の隣にあって、エアコン完備で設定を自由に変更できることから生徒たちは手書きの製図をCAD室で密かにやっている。夏や冬に製図室での手書きは集中力が十分と持たない。冬は手が悴み、夏は暑さに溶けそうになる。

「九時過ぎるとさ、あいつらの声しか聞こえなくて、聴いてると面白くて一人で笑ってしまうんだよな」

 うんうん、と亮が首を縦に振って賛成する。

「部活にすんなり戻るのも嫌だったから、時間潰しつもりでゆっくり歩いていたんだよね。窓の外とか見ながら十分くらい掛かったかな」

「それは遅すぎるぞ」

「歩く時間より止まってる時間の方が多いだろ」

 それぞれにツッコミを入れられる。それを受け流して、話を続ける。

「CAD室の内窓から光が漏れていたから、月明りか実習棟の光かとその時は思ったけど、今考えると、その雨降ってたしCAD室とコンピューター室はいつもブラインドで光がはいらないようにしてるから、どちらも有りえないよな」

「廊下の電気くらい点けろよ」

「面倒だったし、普通に歩けるから問題ないかなって」

「それでも明かり点けないと、たまに警備員さんに鍵閉められるぞ。あれは意外にショックだぞ」

 鳥澤は過去の経験を思い出して苦笑する。

「経験済みかよ」

「どうやって出た?」

「普通に鍵開けて、また閉めた」

「警報と鳴らなかった?」

「いや、鳴ってないと思うよ。誰も来なかったし。それより、話進めて」

 脱線しかけた話を戻す。

「そうね。えっと、それで、あまり気にしなかったんだ。どうせ、何も起きないと思っていたし。だから、鍵を開けて中に何気なく入っけど、校舎側の一番奥のパソコンが点いていたんだよ。誰かの付け忘れかと思って少し近づいたら、人影が見えたんだ」

 亮の口角少しだけ上がる。

「さすがに立ち止まって、ヤバいかもって思ったんだ」

 夜の鍵が掛かったCAD室に一瞬でも人に見えたら、何もないと分かっていても立ち止まってしまう。

「目を凝らして見たら、髪が肩よりも少し長い女子が居たんだ。いや、そう見えただけかもしれないけど。でも、その女子の姿がね」

 一度言葉を切って、息を吸い込み吐き出す。

 頭の中で何をいうか、確かめる。

「裸だった?」

 如月が口を開こうとする前に鳥澤がそう言った。ここぞと言うような表情を見せる。

 裸という単語を聞いたとき、笑いを堪えていた亮は吹き出し、続きを言おうとしていた如月は咳き込む。

「はははっ、ちょっと待って」

「何で裸なんだよ?」

「そういう展開でしょ」

「いやいや、違うでしょ」

「夜の学校で裸の女子が居たら、ただの変態だよ」

「ていうか、CAD室の女子が居るかよ」

 今の工業科に女子は一人もいない。オネェっぽい奴なら数人は居るけど。商業科の女子が誰もいない夜の実習棟に来るはずがない。商業棟の一番離れた建物なんだから。

「居るかもしれない。いや、居てくれた方が嬉しい」

「引くよ」

「亮はそのまま食べるだろ」

「食べねぇよ」

 オチが完全に裸の少女が居たという方向になっている。

「もちろん、猫耳着けているよね?」

 学校の怪談が、鳥澤の欲望になっている。

 机を叩き声を出して笑う。

 どんよりとしたエントランスの中で、この三人だけ台風の目のように晴れている。明かりが少ししか届いていないけど、スポットライトで照らされているみたいだ。

 声を上げたせいか、みんなの視線が集まる。

 近くに居て聞こえていたのか、琳太郎も口を押えて笑っている。

 刺さる視線で声が大きかったことを感じ腕で声が漏れないようにする。

「お前ら楽しそうだな。みんなが作業してるのに」

 大量の水を被せるような声で吉井が水を刺す。

「暢気に笑い話か? 何かおもしろう事であったのか?」

「いえ、特に」

「何もないわけないだろ。何かあったから笑ったんだろ? みんな帰らずに残って完成を静かに待ってるのに、お前らは何もせずに喋って笑うんだ」

 帰らずに残っているわけではない。帰れないからここにいるのだ。誰も好きでこんな所に遅くまで残っているわけじゃない。誰だって終礼が終わったらすぐに帰るか、部活か、遊びに行く。帰っても咎められないなら、残らない。

 確かに残れとは言われていない。帰りたい奴は帰っていいと吉井は言った。でも、素直に受け入れて、「はい、そうですか。帰ります」と言った生徒はいなかった。クラス全員が、課題を終わらせなければいけないという責任感を持って自ら意志で残ったものはほとんどいない。面白い暇潰しのつもりか嫌々ながら残った生徒のどちらかでしかない。どちらかというと後者のほうが多い。

 残る雰囲気が生徒たちの間にあったわけでもない。

 最初の一時間くらいは、教師が来る前に帰ろうという打ち合わせをみんなしていた。けど、思いのほか早く来てしまったせいで、帰るタイミングを失った。教師の前で、特に担任である吉井の前で、用事もなく帰りますと言えない。

 吉井の性格を知っているから、面倒なことは避けたいと思っての行動だ。

 今も静かにしているのは遊んだり話したりしていると、いろいろと言われるからだ。遊ぶなら帰れ、と言われて帰るとそのことをいつまでも引っ張って面倒だからだ。

「手伝おうともせずに、人任せにして暢気に遊んでるんだな。自分たちはなにもしなくても、誰かがやってくれってことか。なあ、如月。自分たちの班が早く終わったら、それで終わりか。協力はしないのか? 村崎、人任せで就職してもやっていけるか?」

 何の話をしているのかが、分からない。

 亮は言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。

 きっと何を言っても無駄だし、何も伝わらない。火に油を注ぐだけだ。

「いえ。やってけいません」

 本当は、「ここは会社ではなくて学校です」と言いたかった。でも、言わなかったのは賢明な判断だ。

 別に遊んでいたわけではない。授業中から班員と話し合って課題を完成させようと頑張った。夏だって、意味も分からずにさせられて何のアドバイスもなければ、文句や批判を言われるだけだった。亮は自分で如月や鳥澤のような発想や得意な専門分野がないことは分かっている。だから、夏は二人の、授業中は班員のサポートを頑張ったつもりだ。

 遊んでいたのは、今作業しているクラスメイトだ。彼ら三人は真面目にやっていたほうだ。

 言い返したいが、如月が黙っているから何も言えない。

 確かにどうでもいい話をしていたのか間違いないけれど、如月は喋りながらも手は動かしていた、エントランスの中央に設置された台の上で組み立てられた小型自動化工場はクラスの取り組んでいる課題で、如月は別の授業で出された課題も一緒にやっていた。これは宿題ではなく選択科目で出された課題だ。この課題も、小型自動化工場とともに展示される。琳太郎も同じ作業を今もやっている。記憶が正しければ、その課題も三人くらいの班でだったと思う。

 各班の手伝いもやっていたつもりだ。

 中央で作業しているクラスメイトは、授業中に遊んで人任せにしていたはじだ。だから、作業をする当たり前だ。因果応報だ。なのに、何故、彼らが正しく言われなければいけないのか分からない。遊んでいたんだから、当然の報いだ。それに、クラス全員が残ったのもお前がウザいからだろ。

 正しいことをどんなに必死に言っても、いい訳か屁理屈と言われてお終いだろう。相手の意見を聞こうとはしない。それを分かっているから如月が口を開かない。だから、亮も自分達が全て悪いということにする。

 今も何か言っているけど、もう聞く気はない。適当に相槌を打って生半可な返事をする。右から左にさえ流していない。耳に入れようとせずに、後ろへと消えていく。

 ノートパソコンの光に照らされた如月の顔を伺う。虚ろな目は何を考えているか分からない。何を言われても動じない。表情は読み取れないけど、諦めていることは分かった。

「社会は理不尽な事とばかりだぞ。何かあったらすぐに逃げるんだろ」

 何度も聞いた決まり文句。

 同じことしか口にしていない。その言葉以外に知らないのかと思ってしまう。覚えての言葉を連発する子供と同じだ。

 社会が理不尽で溢れていることは、高校生にだって分かる。子供みたいなお前らには分からないと大人は言う。けれど、子供だって知っているも知っているのだ。その理不尽を学校に持ち込んで生徒に押し付ける教師がいるんだから。学校で学んだ理不尽が常識となり、社会に出て理不尽を受け入れそれを次の代に振りかざす。最初は可笑しいと思うけれど、学校で身に付いた理不尽を今さら正すことは出来ない。染みついた色は何度も脱ぎ捨てても無くならない。どんなに洗い流そうとしても落ちることはない。

 社会に出て初めて可笑しな常識や理不尽に触れたなら、他の色と混ざる前に疑問を抱いて、元に戻すことが出来るかもしれない。しかし、いろんな影響を受け常に色が変かし続ける年代で触れれば、これからの混ざり合う色の一部となりベースになってしまう。順応性の高い子供たちは、疑問を抱く前に異色が混じっていることに慣れてしまう。

 世の中は理不尽だと分かっているのに、大人たちはそれを正そうともせずに子供に押し付ける。

 理不尽の悪循環は、社会の常識として未来永劫に受け継がれていく。

 そして、彼らも必ずはそこに沈んでいく。

 早く終われよ。同じことを繰り返す、この時間が一番勿体ないということを吉井は自覚していないのだろう。

 弥市いいな。俺も帰ればよかった。

 呆れて文句も思いつかず、別の事へと思考が切り替わる。吉井の言葉が他人事のようにしか聞こえない。

 吉井の説教が終わるのを待たずに、如月の指がキーボードの上を滑る。



 車の通る音さえ聞こえなくなった。

 夜は一層深まり、静けさが辺りを包む。

 長かった説教が終わったのは、約三十分くらい前だった。勢いのない死んだような雨が降り始めた頃だった。霧雨のせいでライトアップされた山に聳える立つ強大な岩を眺めることは出来なかった。視界は悪く、さらに街灯の光を乱反射してぼんやりとぼやけている。

 鍵の閉められた教室の壁に掛けられた時計の短針がⅨを少し過ぎていた。

「ここの時計ってさ、ほとんど使うことないのに無駄に凝ってるよな」

 大きな窓のガラス越しに亮は教室を覗く。

 廊下の照明が影と綺麗な境目を作って、ベルトのように横切って教室を照らす。

 奥で微かに光沢を放つアルミ製の流し台がうっすらと見える。

「使うときは使うよ」

 相変わらず滑舌の悪い琳太郎が答える。

「言うほど、そんなに使わないでしょ。入学してからここで実習やった記憶あまりないけどね」

「そうね。電気の実習でも使わないもんね」

 答えてくれるのは嬉しいが、もう少しはっきりと喋ってほしい。滑舌が良くない上に、声が籠っていて聞き取り難い。

 エントランスの奥からピーと音が聞こえる。

「エラー出てるぞ」

 亮が冷かすようにいうと、知ってると笑い声とともに返って来た。

「というか、この時計、個人的に欲しいな」

 ドア側に掛けられた時計を覗き込もうと、窓ガラスに頬を押し付ける。左目だけしか見えない。廊下の奥の闇を右目が映し、左目がガラスの断面と左側が影で薄れた時計を半々に映す。三つ映像が脳の中で重なり、見たいはずの時計を上手く捉えることが出来ない。

「誰も使ってないなら、貰えないかな」

 無理やり覗き込もうとすると、ギシギシとガラスの悲鳴のような音が鳴る。押し付けた頬を伝ってガラスの冷たさを感じる。

「学校に予備の備品ぐらいはあるだろうし」

「時計の備品って、聞いたことないぞ」

 窓に鍵が掛かっているか確認しながら、如月は廊下の奥から戻って来た。

「あるだろ。動かなくなった時のために」

「動かなかったら電池交換するだけ」

 頭を掻きながらページを捲る琳太郎が籠った声で言った。

「もしかしたら、電池が無くて時計があるかもしれないぞ」

「それこそないだろ、どんな学校だよ」

 琳太郎が紙束を落として笑う。

 学校に電池の予備が無い所などあるのだろうか。電池が無くて時計はあるというのもおかしな話だ。電池よりも時計の需要がある学校は、どんな事があった気になる。

「この学校だぞ。少し頭の可笑しい教師ばっかりいるだろ」

 亮は吉田の顔を思い出して、冷めかけていた熱が戻って来る。

 人生のためにならない話と自虐のつもりの自慢を繰り返し聞かされた。同じ話を少しだけ変えて話すけれども、聞いている方は何も面白くなくすぐに飽きる。普段と同じ話を聞いていると、他に話すネタが無いのかと憐れんでしまう。本や映画のセリフでも引用してくれた方が少しは聞く耳を持ったかもしれない。

 無能な教師だと知っていて、それの機嫌を取り嫌でも受け入れなくてはいけない自分が不甲斐なく思う。生徒程度の意見では担任を変えることも出来ないことをすでに理解している。歯向かっても自分のためにはならない。何かを変える力と知恵はあるけれど、干渉する範囲があまりにも狭すぎる。だから、小さな抵抗はするけれど、何かを変えるほどの行動は起こさない。

「生徒のことを一番に考える教師は居ても少ないし、影響力があまりないんよな」

 如月は琳太郎の横の椅子を引いて座る。閉じられた黒色のノートパソコンを開く。

「そうだよな。公務員ってやっぱり上の人間の評判で決まるんだな」

 琳太郎は紙束の文字とディスプレイに表示されたエラーを見比べる。 

 ノートパソコンは一昔の型で、厚さがあり見た目からも重さは伝わってくる。如月は電源ボタンを押して、起動を開始したことを確認してから立ち上がる。スマートフォンを充電器のコネクタに接続して亮のいる方へ移動する。

「上の人間の評価で決まるのは、公務員に限らないでしょ。普通の企業もそうだと思うよ。出世ばかりは下の人間には決められないからな」

「だったら、二年からでいいから生徒たちに担任を選ばせてほしいな。教え方の悪い教師が居ても、生徒には利益なんて少しもない」

 そもそもどんな基準で教師を雇っているのか知りたいと亮は思っていた。子供に教育出来るだけの能力がないと、採用を決める段階で分からないのだろうか。たった、十七年かしか生きていないが、教育期間にいる教師の六割から七割は無能でクズでどうしようもないと分かる。生徒の為にも、転職してくれた方が有り難い。

「一応は学期末に教師の評価を生徒に訊くための用紙は配られるけどね」

 ディスプレイと睨めっこしている琳太郎に亮は、「リンはどうしてる」と尋ねる。

「大抵はオール五で出してる。評価ポイントはほとんど読まないけどね。それと、吉井は一にしている」

 前回は一と二を交互に選んだけどね、と付け加える。

「如月はもちろん一だよな」

「いや、一じゃないよ」

 予想外の否定に二人とも驚く。クラスで何が遭っても必ず一にしていると思っていただけに、嘘を付いていると疑ってしまう。

「あの用紙なら一年の最初に出して、それから一度も吉井のは出したことないよ」

 如月は評価すらしていなかった。評価をするに値しないほど無能な教師だと思っているのだ。彼に点数を与えることが勿体ない。全て一を選んでも総合評価は十となる。評価項目が十項目あるため、総合は必ず二桁の数字になる。もしも、一の前にゼロが存在していたら、迷うことなくゼロを選ぶ地震がある。一かゼロかの二択なら、クラスの過半数がゼロを選ぶ。

 たかが点数を付けるだけのことだが、それくらい吉井の事を無能な教師だと思っている。

「これからも出さない?」

「多分ね。今さら出してもと思うよ」

「俺も出さないでいようかな」

「それが良いよ」

 生徒が評価を付けても、まともに見ていると思えない。枚数確認ついでにチラッと覗く程度でしかない。何も改善されていないのが、何よりの証拠だ。

「でも、あれって吉井が回収してなかった? どうやって出さなかったの?」

 琳太郎は手を止めて教室の前にいるであろう姿の見えない如月に問いかける。

「確かに。どうやって?」

「あぁ、それは簡単だよ。弥市の紙と一緒に差し出すから無くても気づかれない」

「それだけで気づかれないって、あいつ本当に無能だな」

「それくらいは気づけよ」

 自分で集めていながら目の前で生徒が提出していないことに気付かないほど、関心がなく改善する意思がないらしい。

 形だけの評価を生徒たちに決めさせても意味はない。一応こんなことをやってますと表向きのアピールにしか過ぎない。

 それに、と如月は続ける。

「匿名という名目だけど、席順に集めたら誰がどんな評価を付けたか分かるんだよね。吉井がそれを分かってやってるのか知らないけど」

 その気にならなくても、自分の担当のクラスだから席順は自然と頭の中に入っている。特に一番初めと最後は記憶を探らなくても分かる。だから、最初に目に入った用紙から順に見ていけば、考えなくても誰が評価したかは分かってしまう。

「匿名の意味がないな」

「あいつならきっとこれは誰の評価だって探ってるよ」

「そういうとこはネチネチ言ってくるもんな」

「その評価も失くして良いと思うけどね」

「書いても何にもならないしね」

「変えようとする努力も伺えない」

「最後は俺たちが終わりたいになるし」

「俺たちが変わっても、教師が変わらないから結局はまた同じ場所に帰ってくるんだよな。だから、俺たちも変わろうとしないのに」

「地域の人がどう思ってるかが、あいつらにとっては大事だからな」

「生徒なんか見てないもんな」

 地域の大人たちに『良い学校』と思われれば、入学してくる生徒数も増えて自分たちの評価も上がると素敵な勘違いをしている。この学校の噂はあまり良いものではない。悪い噂が多いのも事実で、ほとんどが真実でもある。過去に起きたことがいつまでも引きずられて、柄が悪いという風に今も思われている。昔が悪かったことは、今の生徒たちは知らないけど否定はしない。

 地域との関係性は大事だけど、それで生徒数が変わるわけではない。悪いイメージを持たれれば親が子供に入学させたくない思うけれど、どんなに大人に良く思われても選ぶのは子供でしかない。大人の評判が良くても、子供が良いと思わなければ意味はない。

 周りの中学生には、柄が悪くイジメも多そうという印象がまだまだ残っている。実際はそんなことない。親がいくらあの学校は良くなったと言っても子供の持つ印象は変わらないし、半信半疑でしかない。

 大人の言葉よりも一つ二つしか離れていない先輩たちの言葉の方が説得力はある。

 その事を分かっていない教師は生徒よりも、それを取り囲むものしか見ていない。

「俺たちが後輩に、クズみたいな教師が多いから来ない方が良いぞって言ったら、来なくなるよな」

「まぁね。先輩に言われたら行きたくないよな」

「あまり言う事ではないけど、事実だしね。ここのパンフレット見たことある?」

 琳太郎はノートパソコンの後ろにある正門から撮影された校舎が表紙を飾っているパンフレットを手に取る。教室を覗いていた二人は、エントランスに戻り、琳太郎の差し出すパンフレットに目を通す。

 グラウンドの一角から撮影した校舎を背景に、校長が微笑む。その横にあるコメントよりも校長の頭にどうしても目が行っていまう。フサフサとは言えないが、禿散らかしているとも言えない。中途半端な頭の校長の微笑は、どうも親しみを持てない。

 隣りには学校の教訓のようなものが書かれていた。

 ページを捲ると、各科の説明が書かれている。どの科も他の学校とあまり変わらない内容で、在学中に取得することが出来る資格も高校生が手を伸ばせば掴むことが出来る。

 最後の方は、学校行事や部活、地域での活動が写真付きで掲載されている。変な噂が後ろを付きまとう学校でも、評価されるであろう写真だった。一生懸命頑張り、学校生活を楽しんでいると思わせる。進路先は、全国だけではなくて世界でも知られているような企業が大々的に肩を並べている。

「これ、一種の詐欺だな」

 パンフレットを眺めながら如月は言う。

「ここまで、堂々としていると清々しいな」

「初めて見たけど、素直に頷けないな」

 事実を書いてあることには間違えはない。さすがの教師も不特定多数の人が見るパンフレットには嘘みたいなことは書いていない。

「言葉が足りないな」

「あぁ確かに」

「そうなんだ。このパンフレット、嘘は言ってないけど、言葉が少し足りないんだよね」

 二人の方を向いて琳太郎はドヤ顔で言う。あえてそのドヤ顔には触れないで置こうと亮は心に決める。写真には残して置きたかったと悔やみながら。

「これ、本当かよ」

 亮は笑顔で映る先輩の写真を指差す。

「『先生は教え方も良くて優しい方ばかりです』だって。悪徳業者の広告にありそうな決まり文句だな」

 呆れた口調で如月が言う。

「エロサイトへの誘導にも出てくるよ」

 琳太郎の言葉に亮が、「覗いたんだ」と軽蔑と好奇の目を向ける。否定はしないけど、言葉を濁した。

 在校生の言葉も教科書を真似たような型にはまったコメントを残している。あまりにもお手本になり過ぎていて、逆に不信感を抱かせてしまう。素直に取られるほど純粋な時期ではない中学生を誘うには、もう少し捻るなりした方が受け入れやすいと思う。

「こればっかりは嘘だな」

「だね」

「優しい先生って誰のことだろうな? 俺は……思いつかないな」

「パッとは出てこない。少し時間がほしい」

「いざ思い出そうとすると、意外に名前が分からない。名簿見ながらチェックしていきたい」

「ははっ確かに。あまり名前が浮かんで来ないな」

「それだけ、必要じゃないってことだろ。クズみたいな教師の名前が出てくるほど、思入れもないし」

 顔を見れば名前はでてくるだろうが、ただ名前だけを浮かべてどんな印象だったか考えようとすると、肝心の名前が出てこない。別にどこかに引っかかって、少し揺らせば落ちてくるような違和感もない。思い出せないならそれでいい。次、会った時に誰か判断できれば問題はない。

 クラスメイトくらいなら人数もそんなに多くなくて毎日顔を合わせているから出席番号順に言えるけど、教師となると考える時間が必要になってくる。各教科の担当者と科の教師なら比較的顔を合わせるから分かる。それ以外は、ほとんど分からなかったりする。この事は同学年の同級生にも入れることで、科が違ったら分からない。商業系に関しては教師も生徒も未だに知らない奴がいて、気づいたときに少し驚く。

 接する機会がないと、嘘さ程度で名前は知っていても人物像は分からない。

 出来れば担任のことを忘れたいと亮は思っていた。

「教え方が上手い教師がいるなら紹介してほしいね」

「ホントだよ。授業するより教科書を読んだ方が分かるときあるもんな」

 教科書に書かれていることを読んで黒板に複写するだけなら学校に来てまで学ばなくてもいい。家で読書代わりに教科書でも黙読していた方が時間を有効的に使える。

「教科書を読んでも分からないから学校に来てるのに。あいつらより喜一に教えてもらった方が分かることが多い」

「喜一は頭良いから的確にポイントだけ教えてくれるから楽なんだよな」

「そうそう」

 彼らの理解力が乏しいから教科の複写だけの黒板をノートに写しても、教科書をノートに写したのとあまり変わらない。

 喜一のように理解した人が教えてくれると、ただの教科書の複写にならないから理解力なくて飲み込みやすくなる。食欲が無くて喉を通らない時に水で流し込んだり大きさを小さくしたりするのと同じで、知識もそのまま飲み込もうとすると自分が一度の許容できる量を越えてしまう。だから、砕いたり別のものと関連性を付けたりする。語録合わせもその一つの例になる。

「吉井は絶対に理解できてないよ」

「偉そうに、『これも分からないのか? 常識だぞ』と言ってるけど、自分はただ単語を知ってるだけで中身は理解してないな」

「上っ面でけ常識とか言うなよな、ホント」

「あいつの授業の時は喜一か如月か弥市をフィルターとして挟みたいな」

「確かに。理解が早くなりそうだ」

 二人の提案に如月は否定する。

「止めろよ、そんな面倒なこと。別に俺は授業で理解してるんじゃなくて、元から知ってるから理解できてるだけだぞ。授業なんて大抵は三割も聞いてないぞ」

 フィルターに使うな、と付け加える。

 クラスの中で密かに謎になっているのが、授業中に喋ってばかりの如月の成績が良いのか、というものだ。教師の評価が周りとかけ離れるぐらい好評だから好成績というわけではなくて、純粋にテストの成績も良い。

 カンニングでもしていると亮は以前から考えていたけど、テスト中に如月の周りには、彼よりも点数の取れるクラスメイトは居なくて出来ないことに、一学期の期末テストで気づいた。

 きっと卒業するまで分からないと亮は考えるのを止めた。

「お前が授業やればいいじゃん?」

 亮の提案に吐く息と飲み込んだ唾が重なり思わず咳き込みそうになった。

「嫌だよ。それあまり変わってないじゃん。結局、俺が教えてるし」

「そんなこと言うなよ。みんなのために力になると思ったら出来るだろ? 少しは世の中に貢献できるだぞ」

「意味が分かんねぇよ。だったらリンがやればいいだろ」

「俺、バカだから人に教えれるほどの知識はない」

 琳太郎の言葉に、知ってると二人が頷く。

 冗談交じりで言ったつもりの琳太郎は少しだけ凹む。声を合わせて疑いもなく言わなくてもいいのに。

「今やってる専門教科なんて基礎の基礎で簡単だろ」

「そうだね。あれくらいなら俺でも理解は出来るよ。他の奴がバカすぎるだけで」

 言うね、と亮が琳太郎を煽る。

「ていうか、亮とはコースが違うだろ。琳太郎なら同じだからどこやってるか知ってるけど、そっちの授業受けた事ないから喜一にでも聞けよ」

 琳太郎と如月はハードウェアコースで、亮が情報応用コースに分かれている。情報応用コースの授業内容は二人とも知らないけど、ハードウェアコースの授業は悲惨だと思っている。

 一年の時に習ったはずのことをすでに忘れているし、二学期が始まったのに未だに教科書の初めの方をやっていて進級するまでに半分も行かない気がする。一か月の間、同じ場所をずっとやっていたこともある。コースの平均成績を出したらその差は火を見るよりも明らかだ。

 それに、ハードウェアコースと言って置きながら、何故かプログラミングなどの授業を行っている。ちぐはぐしていて、生徒たちに身に付いていない。その事を弥市は『実験台』と言っていた。

「そこは大丈夫」

 何が大丈夫なのか分からない。

 どこかに根拠でもあるのか自信満々の声で続ける。

「やっているところは、如月が資格試験で受けた所だから。きっと分かると思うよ。試験だって受かったんだし」

「何でだよ。受かっても覚えてないし教えることは出来ない」

 付け焼刃の知識でギリギリ受かったが、もう一度受けろと言われれば、絶対に落ちる自信が如月にはあった。その程度では人に教えることは出来ない。

「何とかなるって。問題解いてみれば案外思い出すかもしれないし」

 気楽な口調で亮は言う。

「同じところなら喜一に訊けよ。俺が持ってる資格ならあいつも大体持ってるよ。どうせネットワーク系だろ? そこならあっちの方が出来ると思うけど、試験の点数も良かったし」

「そうでもないよ」

「そうでもあるだろ。あいつに分からないことが俺に分かると思う?」

 欠伸をしている琳太郎に尋ねる。

 涙を流しながら暢気に答える。

「分かると思うよ。だって、こっちの授業なら如月が分からないからとテストには出ないよ。それに無駄な知識多いし」

「こっちの授業は綺麗にバカがばっかり集まったからな。テストの基準は俺だけじゃなくてお前もだろ、琳太郎」

「そうね。そうっだった」

 とぼけるように言う。

「それで結局如月に訊けば良いよね?」

 このまま行くと話が脱線すると思った亮は、答えがあやふやになる前に線路に戻す。

 飽きれた口調で返す。

「だから、喜一に訊けって」

「良いだろ?」

「もう諦めて教えろよ」

「嫌だよ。面倒」

「ブール代数は喜一分からないって」

「ブール代数!」

 聞きなれない言葉に琳太郎は首を傾げる。

「あぁ~あれね。確かに喜一は苦手だな」

「だろ? だから、教えて」

「まぁブール代数ぐらいなら良いよ」

「マジで! あれってどうやったら分かる?」

「解るっていうか、数学みたいなもんだし、とりあえず、ブール代数の式を覚えない解けないから」

「また、変なの覚えるの?」

「いや、簡単だから楽だよ。足し算、引き算、かけ算、割り算みたいなもんだから。分からなかったら、回路図書いてみればいいよ」

 亮は数学得意だからすぐに理解できる、と付け加える。

 式から解までの流れが掴めれば、ブール代数はそんなに難しくはない。要領は数学と似ていて、結局は数字がほとんど出てこないアルファベットだけの式でしかない。数学で言うならアルファベットだけで書かれた公式と変わらない。ちょっと厄介なものもあるけど、亮ぐらい数学が出来るなら慣れるまでにそう時間はかからない。

 それに、ブール代数は回路図を式にしたものだ。簡単なものは、AかBのどちらかのポートに1を入力した時に、回路の最後で出力は1か0のどちらになるか求めたものがある。

 回路を追わなくても出力が簡単に出せるようにしたものが、ブール代数だ。

 だから、回路を追うことが出来るならブール代数を理解して解くことは容易に出来る。

「そんなこと言うけど、結構難しいんだぞ」

 立ち上がって、廊下の窓の前まで移動する。窓ガラスに付着した水滴を利用して、記憶に残っている式を書いてみる。

 (A+B)・(A・B)と書いて、上に長い一本線を書き足す。

「掛ける代わりの点はいいよ、まだ。ベーシク言語で習ったからまだ分かる。でもさ、この上の線、何?」

 自分で書き足した線を丸で囲んで主張する。折角書いた式が丸の線と垂れた水滴で原型を留めていない。

「この点は分かるよ、一般的だからね。でも、これは何?」

 大事なことだから二回言いました。

 ケラケラと琳太郎と如月が笑う。

「逆でしょ」

 涙を流すほど面白かったのか、腹を抱えて二人が笑う。如月は一応はすでに資格試験の範囲で勉強したから、その線の役割を知っている。

「それは知ってるけど、どうしてプラスと掛けるも変わるのかが、分からない」

 どうやら、その線のせいで亮はブール代数が理解できないらしい。

「回路図でいうNOT回路と同じものだよ」

 同じように窓に描くけど、水滴は軌跡を描いて滑り落ちていく。

 何本もの線画が窓ガラスに描かれて、変な模様になっている。

 何を描いているか、本人たちも分からなくなっている。下手な絵を見て、また笑う。夜の誰も居ない実習棟に笑い声が響く。近所の人が聞いていたら不気味に思われるか、迷惑がられるだろう。そんなことはお構いなしに、どうでもいい事で笑っている。手が止まり、その代わりに口が動く。さっきまでやっていた作業は少しも進まずに、ノートパソコンの画面が暗くブラックアウトしている。

 吉井への怒りはグラウンドの砂みたい風でどこかに吹き飛ばされ、形さえ分からなくなっている。

 雨が降っていることもあり少し寒く湿度の高い空気が周りの暗さを際立たせて、悲しさを襲って来る。そんな夜だけれで、幾つかの蛍光灯で照らされた三人の空間は、不愉快さを感じさせる湿った空気が無くてどこか季節違いに思わせる。

 他の窓ガラスにも文字や絵、意味のない線を描いていく。

「これは何の絵でしょ?」

 絵心ない同士、下手な絵を描いて何の絵を描いている当てるゲームを始めている。

 お世辞にも上手いとは言えない下手なを見ては笑う。小学生の方がまだ心籠った絵を描ける。特徴さえ捉えていない絵を言い当てるのは、声だけで人物を言い当てるよりも遥かに難しい。

 窓ガラスの数は限られているので、すぐに描ける窓はなくなってしまった。水滴が垂れて、窓枠に水が溜り壁を伝って廊下に落ちていく。

 結露したしていた窓はすっかり水を掛けられて濡れただけのガラスになっている。外の様子が見えるようになったけど、辺りは暗くたまに通る車のライトと数少ない街灯の光が見えるだけだ。

 夜も大分深くなってきて、そろそろ高校生が普通に出歩くには厳しい時間になってきた。法律や条例よりは、安全的な問題のほうがネックなっている。学校近くならある程度は店も街灯もあり夜でもそれなりの交通量はあるけれど、少し外れるとほとんど何も見えないくらいだ。月明りだけが道を照らす光になっている。それも、この雨の中では期待できない。

 暗がりと表現するより闇と言った方が似合っている。

「そろそろ帰る?」

 笑い疲れて、もう何かする原動力は残っていない。

「明日でも良いよね」

 尋ねながら如月はノートパソコンの電源をさり気なく落とす。

「大丈夫でしょ。どうせ続けても大したこと出来ないし」

「そうね。今日やっても明日やっても変わらないもんな。無駄なことやってエラー出たりファイルが壊れたりするのが一番困るな」

「帰るか」

 開いていたいくつかのフォルダを閉じ、ノートパソコンをシャットダウンする。古い型のパソコンは処理速度が遅くて苛立つけれど、落ちることさえも遅いと正直殴りたくなる。

 一応、何かあったらいけないので電源も元から切り離して置く。

 濡れた窓を開けて、雨の具合を確認する。

「あっ、止んでる」

 眠気から覚めたような変な声を亮が出す。

「止んだ? だったら自転車で帰れるな」

「良かった、親呼ばなくて」

「呼ぶ気無かっただろ」

「さぁ」

 何故か琳太郎は答えをはぐらかす。

「まさか、すでに呼んでるとか言うなよ」

「それはない。さっき呼ぼうとしたけど」

 したんかい、と如月に突っ込まれる。

 老人のような勢いのない雨は止み、屋根に当たって刻んでいたリズムも聞こえなくなっている。雨は止んだけれど、ここぞとばかりに霧が出始めている。街灯や車のライトを乱反射させて、視界を悪くしている。山の輪郭さえ見えなくなっている。

 風が冷たい霧を運んで、廊下に入って来る。

 シャツを風が撫でると、小さく丸い粒が光に当たって光る。

 帰りは濡れそうだなと考えながら窓を閉め鍵を掛ける。

 気のせいであってほしいが、廊下の奥に微かな光が見えた。さっきは奥の壁も見えなかった。乱反射した光が迷い込んだと思い込んむ。

 一番手前の教室の前に立って中を覗き込む。

 部屋に似つかわしくない時計の短針はⅩを過ぎてXIに近づいて、長針が真上を通過しようとしていた。

 今の時間を知ってしまうとため息しか出ない。

 明日が休みだったら、テンションは上がっていたかもしれない。理不尽な説教がなければ、もう少しだけ作業をするモチベーションが上がっていた。

 もうすぐやって来る明日もまた今日と変わらないことをやって、何も手伝わない奴は遊んで、一部の人間がせっせと働く。休憩しているところを担任に見られて、今日のことも交えながらネチネチと文句を言う。

 想像できる明日が、遠慮することなく土足で踏み込む。

 十代とは思えないため息が零れる。

「何も忘れ物ない?」

 琳太郎が廊下に響く声で言う。

「何もないよ」

 確認してないであろう如月の暢気な声が聞こえる。

「多分何も、あっいや」

 言いかけて言葉を止める。

「あの時計忘れてる」

 少し本気で言ってみた。

「今日は無理でしょ。鍵掛かってるし」

 珍しく琳太郎が冷静に答える。

「誰に言ったらくれるかな。どうせ使ってないだろうし」

 教室の奥の窓に警備員が持つライトの光が当たる。

「おじいちゃんに訊いてみれば。その教室はおじいちゃんが使っているから」

 七十近い実習講師の先生をみんなはおじいちゃんと呼んでいる。自分たちの祖父母とあまり変わらないことから、いつの間にか定着した。

 優しくて教え方は上手く、分からないところは分かるまで教えてくれる。筋の通らない教師の発言を生徒には聞かなくていいと常に言っている。自分のやりたいことをやって、人生を楽しんでいる。その為か、評判は良くて人気があり多くの生徒や一部の教師から尊敬されている。成功者とはきっとおじいちゃんみたいな人生を送った人の事を言うんだと、亮は学んだ。目指すならおじいちゃんみたいな人生を送りたい。

「おじいちゃん、意外にお洒落だな」

 飾っている姿を想像して笑みが零れる。

 自分で買うかと諦めて、教室から離れて外に出る。


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