第7話
次の日、まだ契約は一か月余り残っていたが、体調を崩したという理由でパン工場は辞めた。
賃金を清算してもらい、そのわずかな給料を持って、和樹は大阪に出かけた。例の銀行を、一目見ておこうと考えたからだ。
阪急梅田駅で降り、線路に沿って淀川の方へと歩き出す。途中で阪急電車の高架を抜けて、幹線道路を更に進む。
交通量は多いが、歩道を歩いている人は少なかった。しばらくすると、道路沿いの八階建てビルの一階に、その支店はあった。ビルの横は一方通行の路地となっていて、新聞記事によると、犯人はその道を車で走って逃げたということだ。
銀行の入り口には「お詫び」の張り紙が貼られていたが、中に入ると、最近強盗に入られたとは思えない、何処にでもあるような平和な風景だった。和樹は拍子抜けして表に出ると、ブラブラと大阪駅の方へと向かった。
昼食をとっていなかったので腹が減り、駅前の安い定食屋に入ろうと思って店を探した。財布にはそれ程の金額は入っていなかった。しかし和樹は、久々に贅沢な食事でもとってやろうと思い直した。何と言っても、家には一億七千三百万円の札束があるのだから。
サラリーマン時代に作ったクレジットカードはまだ有効だったから、心配する必要はない。和樹はJR大阪駅のガードを潜り抜けて駅の表に回り、高層ビルのホテルの最上階に上った。
案内されて窓際のテーブル席に座ると、ウェイターが分厚いメニューを持ってきて、普段なら真っ先に値段を見るが、今回は値段を確かめることなく、和樹は最も高いコース料理を注文した。
「ワインリストもお願いします」
「かしこまりました」
ウェイターがこれも分厚いワインリストを持ってくるが、それに目を通しても和樹にはどれがどんなワインなのか、全く分からない。
「このコース料理にお勧めのワインはどれですか」
「はい、ではソムリエを参らせますので、ご相談ください」
ウェイターと入れ替えに、落ち着いた雰囲気の男性がやってきた。
「お一人ですか」
「はい、一人です」
「では、赤か白か、どちらか一つになさいますか。それともハーフボトルで両方お出ししましょうか」
「赤のフルボトルでお願いします」
「はい、かしこまりました。お値段はおいくら位でお考えいたしましょうか」
和樹はいくらでも良いと思ったが、スーツを着てきたとはいえ、考えてみれば量販店で買った安物でしかない。靴や腕時計も普通の物である。ここで超高価なワインなど注文すれば、確かに支払いは問題ないが、きっと不審がられるに違いない。
しかし料理は一番高いコースを既に注文してしまった。
「そうですね、今日は仕事が上手くいって、ちょっと自分へのご褒美のつもりで贅沢しようと思ったんですが、さすがにそれほど高いのは難しいね」
和樹は話を作って苦笑いをした。
「一万円前後ので、お願いできますか」
「はい、今日のメインディッシュにぴったりのがございますよ」
ソムリエに勧められるまま、その赤ワインを注文した。
ソムリエがうやうやしくコルクを抜き、和樹の前に置く。それをつまんで鼻に近づけて臭いをかぐ素振りをするが、もちろんいいのか悪いのかなんて分からない。
しかしグラスに少量注がれたワインを味見すると、それほど高級なワインを飲んだことのない和樹でも分かるくらい、ふくよかな香りと味わいがして、和樹は満足した。
「美味しいですね」
「ありがとうございます」
ソムリエは大きなワイングラスにワインを注ぎ込み
「どうぞ、ご自身へのご褒美を、ゆっくりとお楽しみください」
と笑いかけた。
前菜が運ばれ、程よい間隔で美味しい料理が運ばれてくる。和樹はたっぷり二時間かけて、ワインを味わいながら食べた。金の心配をしなければ、こんなにも優雅で心地よい時間が遅れるのだと、和樹は改めて気付かされた。
「チェックお願いします」
和樹はウェイターが持ってきたレシートの値段を確認してから、クレジットカードを差し出す。請求額は三万八千円だった。
ソムリエが見送ってくれるレストランを出て、和樹はエレベーターで一階のロビーに降り、正面玄関から表通りに出た。
仕事帰りの会社員が大勢、駅の方角に黙々と歩いていた。和樹もそのまま神戸に帰るつもりでいたが、ワインの酔いの勢いもあり、もう一軒寄ってから帰ろうと考え直した。だが財布に現金は五千円余りしか入っていない。せいぜい居酒屋くらいだろうか。
しかし、クレジットカードのキャッシングを利用することを思いつき、まだ空いているATМで十万円を手にしてから、和樹は「阪急東通り商店街」と書かれたアーケードに潜り込んだ。
パチンコ屋が賑やかな音楽を流している。
サラリーマン時代に時々寄ったことはあったが、二三千円負けるとすぐにやめて、そうのめり込むことはなかった。しかし酔った勢いもあって、軽快なメロディーに釣られて店内に入り、五千円分のカードを買って台に向かった。
運が良い時とはそういう時なのだろう。まだ千円分の球を使い終わらぬうちに、一度目の大当たりがやってきた。そして確率変動で続けて大当たり。結局一時間余りでドル箱を何箱も積み上げ、換金してみると三万円以上の稼ぎとなっていた。
和樹は景品交換所で金を受け取ると、居酒屋や怪しげなスナックが立ち並ぶ路地に入り込む。店の前ではキャッチが「六十分八千円」と客に呼びかけている。
和樹は無視して通り過ぎようとしたが、店の中から若い女の子が出てきて色目を使うので少し立ち止まってしまったら、キャッチに腕を掴まれ、それに抵抗することもなく、自然に店の中に入る。薄暗い店内はそれほど広くなく、客席のあちらこちらから嬌声が聞こえてくる。
ボーイがおしぼりを運んでくる。
「ご指名はありますか?」
「いや初めてで分からないけど、若くてきれいな娘にしてよ」
和樹はボーイに一万円札を掴ませた。
ボーイは目を輝かせて急いで戻り、一人の女の子を連れてきた。メイクはしっかり決めているがそれほど派手ではなく、しかし男好きする若い子だった。
「水割りでいい?」
「ああ」
「私もコーラ頼んでいい?」
和樹が「いい」と言わないうちに彼女はボーイを呼んで、水割りとコーラを注文した。
「うちの店初めて?」
「初めてだ」
「仕事帰り?」
「まあ、そんなところかな」
ボーイが水割りとコーラを運んでくる。形ばかりの乾杯をして、和樹はウィスキーの水割りに口を付ける。
「どんなお仕事?」
「ただのサラリーマンだよ」
「そう」
「店は長いの?」
「一年くらいかな」
「儲かるの?」
「えっ?まあ本業の三倍くらいかな」
「アルバイトなんだ」
「そうよ」
こういった店に来たことのなかった和樹は、どんな会話をしていいのか分からなかった。
「アルバイトで、そんなにも儲かっているんだ」
「本業が安いからね」
「でもそんなに儲かるのなら、本業なんて辞めちゃえば良いのに」
女の子は不思議そうな表情をして、
「アルバイトで儲かって贅沢も出来るから、本業が続けられるんじゃない。本業辞めちゃったらこれが仕事になって、楽しくないじゃない」
と返す。
和樹は、そんな考えもあるのだと、妙に納得した。
「こういうとこ来るの、初めてなんでしょう」
彼女が突然問いかける。
「どうして?」
「だって変だもん」
彼女は笑って、手を和樹の膝の上に置いた。
「まあそうだね」
和樹は体を固くする。
「何かあったの?」
「いや、別に。ただちょっと良いことがあって、自分へのご褒美のつもりかな」
和樹はソムリエに言ったのと同じ言い訳をした。
その後、水割りを何杯かおかわりしながら、彼女の話す芸能界の裏話などに無理やり調子を合わせて、ようやく六十分が経った。
「延長する?三十分で四千円だけど」
「いやいいよ。お会計してくれる」
「わかったわ」
ボーイがレシートを持ってくる。請求額は八千円丁度だった。
「案外安いんだね」
「そうよ、だからまた来てね。私詩織って言うの。今度来たとき指名してね」
彼女は和樹に名刺を渡した。
店を出た和樹は、何か物足りないような気がして、もう一軒飲みに行くことにした。
「おさわりは自由ですが、本番はなしですよ」
そんな文句に誘われて入った店では、三十分で一万五千円もとられた.
もう終電がなくなっていて、和樹は駅前のシティーホテルにチェックインする。
ベッドに潜り込んでから、和樹は詩織という名の女の子のことを少し思い出したが、酔いが回ってきて、すぐに眠りに陥った。