最終章
翌日の新聞を見て、和樹は自分が解放された理由が少しは理解できた。
新聞には、銀行強盗で奪われた金が「まるまる」発見された、と書かれていた。つまり警察は、誰かが使用していたということを隠していることになる。
その理由も、二日後の報道で納得できた。三成銀行中津支店の幹部が、自身の横領を隠すため、被害額を水増ししていた疑いで逮捕されたとあった。つまり、警察が把握していた記番号の札が、別のルートで流通していたということになる。
金発見のニュースはひと時世間を賑わしたが、すぐに人々の話題に上らなくなった。
和樹がその後本城と飲んだ時何気なく事件のことに触れると、警察は遺失物横領事件の捜査を打ち切ったらしいと聞いた。
和樹と初音は久しぶりに会い、心斎橋筋を歩いた。
「あの時この通りを二人で歩かなかったら、こんなことにはならなかったわね」
「ああ、君をこんな大変な目に合わせることもなかった」
「ううん、違うの。あなたと私が、こうして一緒にいるっていうこと」
「ああ、そうかもね。でもあの時は恋愛ごっこだと思っていた」
和樹は一件のジュエリーショップの前に立ち止まった。
「あの時、君に何かプレゼントしてあげようと言ったら、君は断ったよね」
「そうだったかしら」
「その時に君が高価なアクセサリーをねだっていたら、それっきりになっていたかもしれない。でも今度は断らないよね」
「えっ?」
「結婚指輪を買おう。そして少し遅れたけど、五月に式を挙げよう」
初音は嬉しそうに頷いた。
指輪を注文してから、二人は戎橋まで歩いた。まだ冷たい風が、初音の頬を赤く染める。そしてあの時と同じように欄干にもたれかかった。
「これで終わったのよね」
「ああ、今度は本当に終わったはずだ」
「お金を戻したのは正解だったわね」
「ああ」
「私思うの。あなたは元々お金を横領しようとしたんじゃないわ。借りただけよ」
「無断だったけどね」
「銀行なんだから、貸してくれてもいいじゃない」
和樹は笑った。
「人って、チャンスさえあれば何かできると思うの。でも殆どの人には、そのチャンスが無いのよ。チャンスが与えられるのは一握りの人だけ」
「そうかもしれない」
「神様は不公平だわ。だから、どんなことでも、それがチャンスになるなら、それを生かせばいいのよ」
和樹は、初音が自分のためにそう言ってくれていると感じた。
「でも僕は、罪を犯したのは事実だ。このことは、一生背負っていくつもりだ」
「だったら、別のことで償えばいいわ。人にもそのチャンスを分け与えるとか」
「チャンスを?」
「そう、あなたが私にくれたチャンスみたいな」
和樹はしばらく考えてから口を開いた。
「実は、少し前から考えていたことがある」
「それって何?」
「幸い会社は順調に軌道に乗っている。だから、別の分野にも手を広げようと思っているんだ」
「どんな?」
「保育園さ」
「保育園?」
「そう、共働きの夫婦やシングルマザーが気軽に安心して預けられる、保育園を作ろうと思う。そうすれば、色々な人が、もっとチャンスを広げられるかもしれない」
「素敵だと思うわ」
「君が園長だよ」
「園長?」
初音は可笑しそうに笑った。
「じゃあ、まず保育士の資格を取らないとね」
「ああ、四月から学校に通えばいい」
「頑張るわよ、わたし」
冬のどんよりとした灰色の雲の隙間から、穏やかな陽光が差し込んできた。
和樹は初音の横顔を見つめた。出会った頃に比べると、随分と大人びて見えた。そして多くの園児に囲まれている初音の姿を想像して思わず笑みを漏らした。
「何笑っているの?」
「いや」
「変な人」
和樹は初音の肩に手をやり、体をそっと引き寄せた。そして二人は、再び心斎橋通りのアーケードの人ごみの中に紛れて行った。
三成銀行東京本店の頭取室に、頭取の他最高幹部が数人集まっていた。その中になぜかコンプライアンス統括部長の飯島もいた。
頭取が口を開く。
「飯島君のアイデアには脱帽した。君を事務所から引き抜いたのは正解だったな」
「恐れ入ります」
「立川組がらみの担保物件の競売で中津支店が得た二億円の利益をそのままにしていれば、大変まずいことになっていたでしょうね」
副頭取が頷きながら言った。
「しかしあの強盗事件を利用しようなんて、飯島君の計画には心底まいったな」
頭取は満足そうな笑顔を見せた。
「確かに。まさかその二億円を、盗まれた金とすり替えようなんてね、頭取」
「全くだ。ははは」
頭取は棚からブランデーのボトルを取り出してグラスに注ぎ、皆にふるまった。
「ところで、金の隠し場所はどうやって推測したのかね」
「はい副頭取。本当はどこでも良かったんですよ、発見さえしてくれれば。掘り出した人物が別の場所に埋め直したことだってあり得ますから」
「なるほど」
「でも、中山常務の娘婿、確か本城とか言いましたか、彼からの情報が役に立ちました。強盗犯は神戸近辺に金を隠したのではないかということでしたから、調査会社を使って警察の動きを探ると、神戸電鉄沿いに捜査員を配置しているのが分かりました。どうも、その周辺に金の隠し場所があるのではないかと考えたわけです。警察が推測している範囲で発見されたから、警察はそれが奪われた金だということを、疑いもしなかったでしょう」
「しかし、タイミングよく発見してくれましたね」
「ええ、あの周辺で神戸市の計画で近々開発工事を予定している場所がありました。今月から工事が始まりますので、そのあたりに埋めておけば、遅かれ早かれ誰かが見つけてくれるだろうと考えたわけです」
「金の発見場所が違っていても、銀行から盗んだ金を隠したはずの山崎は死んでいるし、その金を掘り出して使っていたやつがいたとしても、そいつが警察に申し出ることは考えられないからね」
「ええ、しかし、警察がそれらしき人物を特定しているところまで捜査が進んでいたのは意外でした」
「記番号は?」
「もし本当に盗まれた金が見つかった場合も考えて、盗まれた金と後で埋めた金の番号を、半々で警察に報告しています」
「確かに全部違っていたら、おかしなことになってしまうからな」
「幸い支店次長の不正行為が発覚し、それでなんとか誤魔化せました」
「つまり、報告した記番号以外の札が混ざっていても、理由がつくというわけだな」
「はい」
「実際は二億の損失だったわけだが、表には出せない金をきれいにして穴埋めすることが出来たのだから、会計上は収支ゼロだ。まあ、たかが二億だが」
「いえ、その二億で業務停止命令などになれば、何十億、いや何百億の損失が発生したかは分からない」
頭取はグラスのブランデーを飲み干し、更に注ぎ足した。
「飯島君、まさか銀行強盗まで計画に入っていたのかね?」
「頭取、さすがにそこまでは」
「本当かね?まあいい。うまくやってくれた。これぞ完璧なマネーロンダリングだ」
頭取は声を上げて笑った。
五月の新緑がまぶしい六甲山ホテルのチャペルで、和樹と初音は結婚式を挙げた。参列者はごく身内だけだったが、本城夫妻も参列してくれ、祝ってくれた。
挙式後のパーティーで、和樹は本城に話しかけた。
「もう何か月ですか?」
和樹は本城の妻の亜由美を見ながら尋ねた。
「もう四カ月です。ちょっと目立ってきましたか」
「男の子、それとも女の子?」
「いや、生まれるまで聞かないでおくことにしました」
「楽しみですね」
「いやいや、僕も初めての子だから、どうしたらいいのか心配で」
「実は、僕たちはいずれ保育園を作ろうと思っています」
「ほう」
「初音が保育園に勤めていたことがあるし、今保育士の資格を取るために、学校に通わせています」
「それは楽しみだ」
「もしお生まれになったら、お世話しますよ。一歳から受け入れるつもりですから」
「素敵ね」
亜由美も楽しそうに微笑んだ。
「高橋さんの方は?もう初音さんのお腹の中にいるとか」
「いえ、そんな」
初音は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
パーティーが終わって参列者が帰り、二人は前に寄った最上階のバーで、神戸の夜景を眺めながら二人でくつろいだ。
「ようやく落ち着いたね。学校があるから、新婚旅行は夏休みにしよう」
「ええ、どこにする?」
初音は嬉しそうだった。
「ミンダナオ島にウナギを見に行くとか」
「それって仕事じゃない」
「マニラ湾の夕日はきれいだったよ。それも見せたい」
「分かったわ。そこでいいわ」
二人はドライマティーニで乾杯した。
「ところで、初音には初めて言うけど、あの金が発見されたと新聞に載っていた場所は、僕が埋め戻した場所とは違うんだ」
「えっ、どういうこと?」
「僕にも分からない」
「誰かが移動したってこと?」
「移動したか、別の金だったか」
「別のお金?何のために?」
「分からない。でも誰かにとって、奪われた金が見つかったことにしておいた方が都合が良かったのかもしれない」
「それって銀行とか?」
「表に出せない金があったとか」
「じゃあひょっとして、あなたが埋め直したお金は、まだそのままになっているってこと?」
「その可能性はある」
「確かめてみる?」
「いや、止そう。もうあの金と僕たちは、関係がない」
「そうね」
「もしまだ埋まっていて誰かが偶然見つけたならば、その人が判断すればいい。今度はその人のチャンスだ」
「分かったわ」
二人は、今後あの金のことは触れないでおくことを約束した。
「未来のことだけ考えよう」
「そうね、生まれてくる子供のこととかね」
「えっ、ひょっとして?」
「嘘よ。まだ」
「なーんだ」
二人は手を絡ませ、幸せそうに微笑みながら、眼下に広がる神戸の夜景をいつまでも眺め続けた。
その年は、梅雨の終わりに集中豪雨が続いた。あちこちで洪水やがけ崩れの被害が相次いだ。
ニ十年勤めた鉄鋼会社をリストラでクビになり、それを機に妻と子供からも見捨てられ、死に場所を探して山を歩いていた男がいた。
道はぬかるんでいて、男のズボンは泥が跳ねあがって汚れていた。
縄をかける適当な木を探しながら、林道の突き当りから林の中に分け入ると、大きな木が一本、根元から倒れている。その木を通り過ぎようとした時、木が倒れて掘り返された土の中に、何かが埋まっているのが見えた。
「なんだろう」
男が土を手で払いのけると、バッグらしきものが埋まっていた。
男はバッグを地中から引き出し、中身を確かめた。
男は慌てて周囲を見回した。
もちろんこんな山の中に、その男以外の誰もいるはずがない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。感想を寄せていただいた方には、大変感謝申し上げます。
この作品は、「マネロン 二億円の行方」というタイトルで、TO文庫で出版されています。web版とプロットは変わりませんが、心情表現に厚みを持たせ、登場人物により共感していただけるようにしたつもりです。またなろう版では初音とやくざとのかかわりを、運営様の規約に準じて、R15の範囲内に収まるように書き直していますので、書籍版ではもう少しきつい表現になっていることをお伝えしておきます。
なお、なろうで掲載しているもうひとつの完結小説「逃走はオトコノコ!」もよろしくお願いします。




