第41話
ミンダナオ島の施設の着工も決まり、翌年の二月から養殖を始める見通しが立ち、和樹は、初音との結婚を翌年の三月にしようと提案した。初音もそれに同意した。和樹が東京の姉夫婦に報告すると、驚いていたが、喜んでくれた。
和樹は、初音の両親に挨拶に行きたいと言うと、初音は最初拒んだが、和樹が強く言い張ると渋々同意し、お正月に宮崎に行くことに決めた。
初音は年内で新地のクラブ「雛」を辞めることにし、ママにそのことを告げると、喜んでくれた。
二人は、すべてが順調に進んでいるように感じていた。
十二月も半ばを過ぎ、初音の勤めるクラブも、忘年会の二次会で連日忙しかった。
「おつかれさま」
普段より店を閉めるのが一時間も遅くなり、ようやく店を出た初音を、見知らぬ男が待ち伏せていた。初音は不意をつかれ、動揺した。
「横沢初音さんですね」
「はっ、はい、でもあなたは?」
「私は警視庁捜査三課の山下といいます」
男は警察手帳を提示した。
「警察?あの事件に関しては、大阪府警か兵庫県警かの刑事さんに、全部話しましたわ。もう話すことなんてありません」
初音は不機嫌そうに言った。
「ええ、しかし、ある人物のことで少しお話を聞きたいのですが」
「焼津ですか?」
「いえ、別の人物です」
「誰ですか」
「署までご同行お願いします」
「署まで?」
初音は、前に刑事に話を聞きたいと言われた時には向かいの喫茶店だったのに、「署まで」という言葉に驚いた。
「署まで?」
初音はもう一度聞き返した。
「はい、あなたを、ある横領事件の重要参考人として、署までご同行お願いします」
「重要参考人?」
見ると、道の向こうに制服警官が二人たたずんでいた。これまでの状況とは全く違う。初音は恐怖を感じた。
「行かなければいけないんですか?」
「あくまでも任意です」
「じゃあ、行かなくても良いんですね」
「その場合は、逮捕状を請求します」
「逮捕状?」
初音は驚いた。今までは参考人という立場で、あくまでも事情を聞かれていただけだった。いきなり「逮捕状」と言われ、初音は戸惑った。
「何の容疑ですか?」
「とにかく、署までご同行お願いします」
初音はその言葉に従わざるをえなかった。
初音はパトカーの後部座席に乗せられ、大阪府警本部へと向かった。
「すみませんね、こんな時間から」
言葉遣いは丁寧だが、威嚇するような響きを初音は感じた。
「誰のことを聞きたいのですか?」
初音は不安で、声が震えた。
「この男です」
山下は一枚の写真を見せた。それは帽子を被り眼鏡をかけているが、すぐに和樹だと分かった。
「ご存知ですね」
初音は言葉に詰まった。
「高橋和樹、現在高橋通商の社長です。あなたとのお付き合いがありますよね」
初音は頷くしかなかった。
「高橋和樹とは、いつからのお知り合いですか?」
「彼がどうかしたんですか?」
「質問に答えるだけで結構です。彼とはいつ知り合ったのですか」
初音は山下の威圧的な質問に、どう答えるべきかと必死に頭を働かせようとした。
「去年の十月頃だと思います」
「去年の十月ですね。それからずっと高橋和樹とお付き合いしていたというわけですか?」
「いえ、でも彼がどうしたんですか?」
山下は初音の質問を無視しながら尋問を続ける。
「あなたは、高橋和樹から、金を借りましたよね」
前の刑事への返答では、焼津に何回も借金して、最後に知人から借りたお金で清算したことにしていた。
「はい、高橋さんからお金は借りています。でもそれが何か?」
「あなたは、桜井金融に返済した金は、闇金から借りたと言っていましたよね」
「ええ」
「確かに、あなたが複数の闇金で借りたことは確認できました」
「それでまだ何か?」
「闇金で借りた金を、そのまま桜井金融の返済に充てたのですね」
「ええ、焼津から返してもらいました」
「嘘だ」
山下は突然声のトーンを換え、初音はビクッと固まった。
「あなたは、自分自身で桜井金融に返済している。これは桜井金融の事務員から証言を取っています。あなたは、闇金から借りた金を高橋和樹に渡し、高橋和樹から渡された金を桜井金融に持ち込んだのですよね」
「何を証拠に、そんなことを断言するんですか。そもそも彼が何をしたって言うんですか」
初音は力を振り絞って反論した。
「高橋和樹は、三成銀行中津支店の銀行強盗犯、山崎忠志が隠した金を横領した容疑がかけられています。そしてあなたは、場合によっては、その共犯の疑いがかけられているんですよ」
初音はうつむいた。
「あなたが正直に話してくれれば、あなたは彼に上手く利用されていたに過ぎないと、我々は判断します。しかしあなたが彼をかばうようであれば、我々はあなたも共犯者として逮捕・送検するつもりです」
警察はどこまで知っているのだろうか。初音は必死に考えた。
「どんな証拠があるんですか」
「この写真は、去年十一月、金沢の商店街の防犯カメラで撮られたものです。そしてこれは」
山下は更に二枚の写真を初音の前に置いた。
「これは仙台・広島の商店街の防犯カメラの映像から焼き付けたものです。同一人物であることが、画僧解析から明らかになっています」
初音は三枚の写真を見比べ、確かにすべて和樹だと思った。
「そして、この映像が撮影された日に、銀行から強奪された一万円札が、近くの商店で使用されていることが確認されています」
「どうしてそんなことが分かるんですか?」
「一万円札に印刷された記番号というお札の登録番号から、どこで使われたかが分かるんです。つまり、銀行強盗で強奪された金を使用したのは、高橋和樹だということです」
「でも偶然そこに居合わしただけじゃないんですか」
「金沢・仙台・広島、この遠く離れた三つの街で、問題の一万円札が使われた同じ日に偶然居合わせるなんていう確率は、あり得ません。高橋が使ったんです」
初音は山下の顔を見た。すべてを見透かされていると初音は感じた。
しかし、初音は頭をフル回転して状況を分析しようとした。
和樹を逮捕せず私から証言を引き出そうとしているのは、確かに状況証拠はあるが、和樹を逮捕するだけの直接の証拠が掴めていないからではないか。ならば、自分させ話さなければ、和樹は逃れることが出来るのではないだろうか。
「知りません」
初音は、知らないということを貫き通そうとした。
「あくまでも否認するおつもりですね」
山下はコホンと咳払いをした。
「あなたは、彼から何か脅されているのではないのですか。例えば焼津から渡された怪しげなお香の件で」
「お香?」
「あなたが教団に勤めていた時に、信者に売りつけていたものです」
初音は、ついにあの件で追及されるのかと、動揺した。
「確かに、焼津から渡されたものを売っていました。でもその中身が何かなんて知りませんでした」
しかし初音は、あくまでもしらを切ろうとした。
「そうですか。ところで、あなたは焼津が殺された現場行ったことがありますよね。あの家からあなたの指紋が検出されましたよ」
クスリの件は覚悟していたし、もはや隠しおおせるものではない。それで逮捕されるならば仕方がない。しかしそれならば、すべてをクスリのせいにして、和樹とは何の関係もないと言い張ろう。
「焼津にお香の件で脅されて、あの家に連れていかれたことがあります。でも誰にもしゃべらないことを約束したら、帰してもらいました。変なことに巻き込まれたくなかったので、今まで言いませんでしたけど」
ところが山下の口から、思わぬ事実を聞かされた。
「いや、あのお香は確かに脱法ハーブの成分が含まれていましたが、現在の法規制では、あなたを罪に問うものではありません」
「えっ」
初音は驚いた。
「それに、焼津が殺されたのは立川組の内部抗争だと判明していて、あなたがたとえ現場に居合わしたとしても、何ら関係ありません。ですから、その件で高橋から脅迫されていたならば、それは気にすることはないということです。だから正直に話してもらいたい。正直に話してもらえば、あなたは何の罪にも問われない」
山下はすぐに話を付け加えた。
「しかし、彼をかばうようなことがあれば、あなたは横領の共犯という犯罪者になってしまいますよ」
初音は、予想外の展開に混乱した。
「あなたは犯罪者になりたいんですか。正直に話してください」
山下はなおも畳み掛ける。
正直に話せば解放される。初音は一瞬その考えが頭をよぎった。
「さあ、話してください、本当のことを」
「えっ、ええ……」