第36話
その日の目覚めはさわやかだった。部屋のカーテンを開けると、眩しい日の光が差し込んできた。空は気持ちよく晴れている。暑い一日になりそうだったが、気持ちは弾んでいた。
和樹はコーヒーを入れ、飲みながら携帯をチェックした。すると昨夜のうちに初音からのメールが届いていた。
『明日急にお仕事が入って、ご一緒出来ないことになりました。ごめんなさい。』
えっ、和樹は驚いた。店は日曜日は休みのはずだがと不思議に思ったが、何か急用でもできたのだろうか。
せっかく今日六甲山にでかけるつもりで、昨日の土曜日も仕事を片付けるために遅くまで働き、六甲山上のレストランのディナーも予約していたのにと、和樹は落胆し、少し腹立たしい気持ちになった。
そして最後の名前を見た。
『詩織』
初音がメールしてくる時は、本文に名前は書いてこない。しかも「初音」ではなく、店で使っている「詩織」である。
店の客に送るメールを間違って送ったのだろうか、と和樹は思った。少し腹が立ったが、商売柄お客さんに誘われるのは仕方ない。それに「行けない」というのは、和樹とデートだから断ったのだろう。そう考えると和樹は機嫌をとり直した。とりあえず初音に電話してみよう。
しかし電話は通じなかった。電源が入っていないようである。十分ほど間を開けて何回も試してみたが、同じだった。こんなことは今までなかった。和樹は胸騒ぎがし、とりあえず初音のアパートを訪ねてみることにした。
再会してから初音のアパートを訪ねたことはなかったが、住所は聞いていた。
和樹は原付バイクで国道二号線を東に向かい、阪神尼崎で右に曲がって阪神高速の高架をまたいで更に海側へ向かう。工場地帯の手前にごちゃごちゃとした街が広がっていて、その路地を右に左に曲がりながら、目的の住所を探した。
どうにかそのアパートを見つけた。思っていた以上に古くて汚い、二階建てのアパートだった。
和樹が訪ねたいと言っていたのを初音が拒んでいたのも、分かるような気がした。でもそれだけ節約して、和樹に返済するお金を少しでも早く貯めようとしていたのだと思って、初音が余計に愛おしくなった。
錆びついた外階段を上って突き当りの部屋が、初音の部屋だった。表札はかかっていなかったが、部屋番号で確かめた。
和樹は周囲を見回して誰も人がいないのを確認してから、部屋のドアを何回かノックする。しかし返事はなかった。ドアノブを回してみるが、鍵がかかっていて開かない。ここでも電話してみたが、部屋の中で電話が鳴っている様子もなく、何回かけてもつながらなかった。
仕方なく階段を下りて、バイクを階段下に停めたまま、アパートのまわりを歩き始めた。何かが分かるはずも無かったが、何かをしなければならないという苛立ちを感じた。
コンビニがあり、中に立ち寄った。
きっと初音がよく使っていた店なのだろうと想像しながら店の中を一回りして、ミネラルウォーターを買った。
それを飲みながら再びアパートに向かって歩いていると、道端に何か小さな鼓状の物が落ちているのが目に付いた。気になって拾い上げてみると、それはポートタワーの形をしたバッグチャームだった。紐がちぎれていた。
前に二人でポートタワーに上った時、土産物屋で初音が買ったものだ。
「中学生や高校生みたいじゃないか」とからかったが、初音は気に入ったと言って、その場で袋から出してバッグに付けて、嬉しそうに和樹に見せた。和樹はそれを拾ってポケットに入れた。初音の身に何かが起こったのは明らかだった。
自分のせいだ。あんなことを初音にさせたから、やくざに何かを感づかれたのかもしれない。
和樹はどうして良いのか何も思い浮かばないまま、ただ国道をバイクで引き返した。
アパートに辿り着いてからも落ち着かなかった。再びすぐに部屋を出てバイクに跨り、あのやくざの事務所へ寄ったが、日曜日ということもあって、ひっそりとしていて、ビルに人の出入りはなかった。桜井金融へも様子を見に行ったが、シャッターが下りていた。
再び部屋に帰り着き、ウィスキーをグラスに入れて、そのままあおった。少しでも気持ちを落ち着かせようとした。
色々事情をこじつけて警察に相談しようかと思ったが、もちろんそんなことは出来ない。しかし初音の身に何かが起こったら。
その時和樹の頭の中に一瞬、初音がこのままいなくなってくれれば自分にとっては都合が良いのでは、という考えが湧いた。和樹はげん骨で自分の頭を何回も叩き、そんなはずはないじゃないかと、一瞬でもそんなことを考えた自分を嫌悪した。
日はいつの間にか暮れていた。窓を開けると、ライトアップされたポートタワーが見えた。
和樹は初音の落としたアクセサリーを手で握りしめながら、絶対に初音を助けよう、そしてすべてをありのままに話してしまおう、と決めた。
大阪府警の岸本たちは、ようやく横沢初音の勤める店を見つけた。しかし店を訪ねてみると、もう三日ほど休んでいるということであった。ママさんによると、実家の父親が病気だからということである。
実家は宮崎ということで、ママは実家の住所までは知らなかったが、免許証で本名であることは確認しているということなので、宮崎県警に照会してみると、すぐに住所は判明した。
しかし実家の父親が入院しているとか、横沢初音が宮崎に帰っているとかの形跡はないという返事が返ってきた。
「岸本警部、ちょっと変ですね」
「ああ」
「とりあえず横沢のアパートを調べますか」
「そうするしかないやろう」
岸本たちは尼崎の初音のアパートを訪ねたが、留守だった。管理人に鍵を開けさせて中の様子をざっと見渡したが、単に留守だというだけで、別に変った所は見られなかった。
「偶然にすれば出来過ぎやな」
「我々が来るのを予想していた、ということですかね」
「そうやろう」
「と、言うことは」
「あいつしかおらへん」
岸本は、焼津の監視を兵庫県警に要請した。
一方兵庫県警の木戸は、桜井義男を署に呼んで、任意で事情聴取を行っていた。
「お久しぶりですね、桜井さん」
「木戸さんか、今日は何の用でっか」
「ちょっと困ったことが起こりましてね」
「なんやねん」
桜井はいぶかしげに木戸をにらみつけた。
「おたくから貸し出された金に、変なものが混ざっていましてね」
「変なもの?何や、それは」
「ある所から盗まれた金の一部でして」
「そんなの知らんで。金なんか、あちこちから入って来るからな。そりゃ中には変な金も入って来るかもしれん」
「それはそうですが、焼津に返す金を借りに来た女がいますよね。名前は横沢初音」
「そんな女おったか」
「焼津の所の安田卓が、一緒におたくの所に借りに行ったと言っています」
「ああ、あの別嬪さんやな」
「いくら貸しましたか?」
「確か千五百万円やったかな」
「その金の出所は?」
「出所?金庫に決まっとるやろ」
「金の出入りは、もちろん記録していますよね。出来たらば、それを提出願えないかと」
「あほ、顧客情報やで」
「桜井さん、任意で出してくれるならば、なんら問題ない。しかしそうでなかった場合、貸金業法違反の疑いで、強制捜査に入らざるをえませんよ」
「どんな容疑や」
「最近、行き過ぎた取り立てがあったようですし」
木戸は桜井の前に、囮捜査官の契約書を置いた。桜井の顔色が変わる。
「身内使って汚いことすんな。こんなもの証拠にはならへんで」
「分かっていますよ。でもあんただって叩けば埃はいくらでも出てくる」
「わいも、えらい被害者や」
「同情しますよ、桜井さん」
桜井は、横沢初音に金を貸した日の一週間前までの返済者のリストを提出することを渋々認めた。
桜井義男は不機嫌だった。妙なことに巻き込まれてしまい、今後しばらく、商売もやりづらくなったと思った。
警察には横沢初音が借りる前の返済者リストを提供したが、あの女に貸したのは、焼津から前もって連絡があってから別に用意した金である。「変な金」が自分の所に入ってきたとすれば、少なくともその後である。
「焼津のやつめ」
桜井には、最近少し気になっていることがあった。立川組ナンバースリーである山城組組長の山城巌の動きがおかしい。どうも跡目を狙っているのではないかと噂されていた。丸政組は、その山城組の傘下の組の一つである。山城巌の影がちらついた。
警察に目を付けさせることで自分を封じ込め。自分が肩入れし、資金提供もしているナンバーツーの若頭、相沢にとって代わろうとしているのではないか。
「大内、住宅に行くぞ」
眼鏡をかけた秘書の大内はすぐに車を回し、桜井は立川組組長の住宅でもある組本部へと向かった。
「なんやと、若頭の相沢がわいを?」
焼津は驚いた。
「なんでも、桜井のジジイが若頭に何かを吹き込んだようです。山城さんの所の若いもんからの情報です」
焼津の顔色が変わった。
確かに自分は山城組に肩入れしている。来るべき跡目相続の時に、運よく山城巌が継いでくれれば、自分も一気に幹部へと駆け上ることができると考えていた。だからこの所、少しヤバいことに手を出しても、山城組への上納金を上積みしてきた。
しかし決してナンバーツーの若頭に楯突いたことなどもない。そんなことをすれば、一気に潰されてしまうことは分かりきっている。
「あの女が、なんかしよったんやな」
「とにかく、山城組長に話をつけてもらいましょう」
「あの女は何者やねん。とりあえずわいは、あの女を締め上げて何を企んどるのかを吐かせて、若頭に突き出すしかないやろう」
焼津は慌てて事務所を出てセルシオに乗り込み、自ら運転して路地を駆け抜けた。
事務所の近くで見張っていた和樹は、その慌てた様子から何かあるに違いないと考え、セルシオの後を追った。
和樹は、初音と連絡がつかなくなった翌日から、どうして良いのかも分からなかったが、とにかくあのやくざが関係しているに違いないと考え、組事務所を見張るしか手はなかった。
幸いにも最近経営幹部としていい人材を雇い入れることが出来たので、東京への出張だと偽って会社をあけても、業務に支障は出なかった。
セルシオは猛スピードで国道を突っ走り、和樹の借りた車ではすぐに見失ってしまった。しかしセルシオに発信器を取り付けておいたので、タブレットPCに表示される地図を見ながら、セルシオの後を辿った。和樹は、初音を救い出すためにそれなりの準備はしたつもりだった。
車は奈良県に入り、和歌山につながる山道を走っている。かなりの山奥である。どうしてこんな山に入ったのか。初音の所に向かっているのだろうか。
しかしあんなやくざから、果たして初音を救い出すことは出来るのだろうか。和樹はまだ自信を持てないでいた
セルシオが動きを止めた。和樹の車の先五キロメートルほどの、少しばかり開けた山奥の集落の外れのようだった。
和樹は集落の手前で車を停め、人家を避けて林の中の細い道を歩いた。タブレットPCの画面には、目的地が徐々に近づいていくのが見えた。
日は傾き、山里に夕暮れの気配が漂っている。先ほどまで聞こえていた耕運機のエンジン音も途絶え、ひっそりとした静寂が辺りを包み始めていた。
集落の外れに出て細い農道を進むと、山を背に、一戸だけ離れて建っている平屋建ての家の庭にセルシオが停まっているのが見えた。和樹は一度引き返して農道をはずれ、再び林の中に入って目的の家の裏側に回った。
木々の間から、明かりのついた家の窓が見えた。用意していた双眼鏡で覗いてみると、男が二人見えた。一人はあの男である。何かを話しているようだった。初音の姿は見えない。本当にここにいるのかは、まだ自信が持てないでいた。
しばらくすると。もう一人の男の姿が消えた。家から出てこないので、別の部屋へ行ったのだろう。それ以外の人物は見えなかったから、この家にいるのは初音を除いて二人のようだ。二人ならなんとかなるかもしれないと、和樹は思った。しかし初音の所在を確認することがまず先決だ。
和樹は音をたてないようにゆっくりと林を抜け、家の裏口に回った。そして壁に集音マイクを取り付け、中の様子を探った。
男が階段を下りていく足音が聞こえる。平屋建てだから、地下室があるのだろうか。やがて男が鍵を開けてドアを開ける音が聞こえ、直後に女性の泣き声が聞こえてきた。
初音だ!和樹の心臓は高鳴った。なんとかしなければならない。
和樹は震える手でバッグの中から拳銃を取り出した。それは、あの山の中から掘り出したものだった。まさか再び手にすることになろうとは、考えもしなかった。しかし今、唯一頼りになるのがこの拳銃である。
和樹は、山の中で試しに地面に向けて発射したときの感触を思い出しながら、拳銃のグリップを固く握りしめた。
庭に回り、双眼鏡で覗いていた窓の下に来て部屋の様子を伺った。初音は男に連れられて、その部屋に入ってきたようだった。カーテンがさっと引かれる。
「おまえ桜井のジジイに何しでかした」
「何もしていないわよ」
窓から声が漏れ聞こえてくる。
「おまえどこの組の差し金や。相沢のところか」
「相沢って誰よ」
「若頭の相沢よ」
「そんな人知りません」
「嘘着け、痛い目に合いとうなかったら、正直に吐きさらせ」
「知らないわよ」
初音の声は涙で震えている。
バシッという鈍い音とうめき声、そして誰かが床に倒れる音が聞こえる。もう一刻の猶予もない。
和樹は決断した。
和樹はサングラスとマスクに手袋を着け、近くにあった鉄パイプを手にした。そして思いっきりガラスを叩きつけると、粉々に砕け散った。そして間をおかず、部屋の天井に向かって拳銃を発射した。
轟音が響き渡り、硝煙が部屋に立ちこめる。床には初音が転がっていて、男二人はソファの陰にとっさに身を隠していた。
和樹はもう一発を天井に向けて発射し、窓から部屋に飛び込み、初音の足もとまで走り寄る。さすがのやくざと言えども、不意を突かれて身動きが取れないでいる。
「動くな。この女はもらっていくぜ」
和樹はわざとなまったアクセントで、拳銃を二人に向けながら初音の手を引いた。初音の意識はしっかりしていて、ヨタヨタしながらもしっかりと立ち上がった。
「どこの組のもんや」
焼津がようやく口を開く。
「死にたくなければ黙っとれ」
和樹は大声で怒鳴ると、拳銃を男の方へ向けて二発発射した。
拳銃の扱いなど初めてであるから、ひょっとして命中してしまうかもしれないが、それでも良いと和樹は思った。初音にこんなひどいことをしたその男達に、和樹は殺意すら感じていた。その迫力と本気さに押され、男らは大人しく従った。
和樹は二人に拳銃を向けながら、初音の腕を掴んで部屋のドアの方へ、ゆっくりと後ずさりする。マニラで拳銃を突きつけられた経験が、逆に和樹を大胆にし、冷静に行動させた。
ようやく部屋の出口まで辿り着き、和樹は初音を廊下に押し出して、背中を押した。
「玄関を出て右に行くと、二百メートル先に車を停めてある。そこまで走れ」
初音も突然のことで、何が起こったのかをまだ十分に理解できなかったが、和樹だということは分かったようだった。
「あなたは?」
「後ですぐに行く」
初音は頷き、玄関に自分の靴を見つけて履くと、下駄箱に置かれた自分のバッグを抱えてから、玄関ドアを勢いよく開け駆け出した。
和樹は二人に拳銃を向けながら、初音が追いつかれないように時間を稼いだ。
もうそろそろ初音が車に辿り着いただろうという頃を見計らって、もう一度最後に部屋に向かって拳銃を撃ち放し、ドアをバタンと蹴って閉めてから、玄関を飛び出し、セルシオの前輪を撃ち抜いてからバッグを拾って全速力で走りだした。
振り返ると男たちも玄関を飛び出してきたが、和樹が拳銃を向けると、門柱の陰に身を隠した。
和樹は初音に追いつき、急いで乗り込んで車を発進させる。山間の曲がりくねった暗い道を、和樹は無言のままフルスピードで車を走らせる。エンジンの唸りとタイヤのきしむ音が車内を支配する中、初音もずっと黙ったままだった。
もうここまで来れば大丈夫かなと、和樹がアクセルを緩めた時に、ようやく初音が口を開いた。
「どういうことなの?」
その問いに和樹が助手席の初音に振り向いた時、前方のカーブ周辺が急に明るく照らし出され、ハイライトのまま猛スピードで、クラクションを鳴らしながら対向車が近付いてきた。
「危ない」
初音が叫ぶ。
あのやくざが電話で応援を寄越したのかと、和樹は車を路肩に急停止して、バッグから拳銃を取り出し、弾倉を差し替えた。
しかし黒塗りのその車は和樹たちの横をすり抜けて、猛スピードで走り去って行った。
気を取り直して再びアクセルを踏み、ゆっくりと道を下って行くと、奈良盆地の明かりが見えた。車はようやく市街地に出て、国道の車の流れの中に入り込んだ。
交差点の赤信号で車が停車した時に、初音が再び口を開いた。
「どういうことなの。あなたもやくざなの?」
「いや違う」
和樹は首を振った。
「でも、君には本当のことを話さなければならない」
「本当のこと?」
信号が青に変わって、和樹は車をゆっくりと発進させた。
本当のことを言おう。洗いざらい話してしまい、初音に謝ろう。それで初音が自分を見限っても、警察に通報されて捕まっても、それは仕方がないことだ。
和樹は車を走らせながら、今までのことをポツリポツリと話し始めた。