第33話
和樹は初音と元町駅で別れてから、事務所に戻って出張の準備に取り掛かった。三成銀行の幹部を連れて、タバオの養殖場予定地を現地視察するためだ。これで融資が決定すれば、一気に事業を拡大することが出来る。
翌日関西空港で落ち合った。本城も一緒に行くことになっていた。本店から同行することになったのは、ホールセール事業部の佐伯部長で、三人は成田経由でマニラに向かった。
「中山常務から、くれぐれもよろしくとのことでした」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「僕はフィリピン初めてなんですが、治安とかは大丈夫なんですか?」
前の座席に座っている本城が、振り返って尋ねた。
「ミンダナオ島には反政府ゲリラとかがいますが、最近和平合意が出来たと聞いていますし、タバオの町は全然大丈夫です。でもマニラの下町は、少し注意しておいたほうがいいですね。実は、前回行った時ひったくりにあって、パスポートを盗られてしまったんですよ。まあ、これは私の不注意でしたけどね」
「パスポートを?それはやっかいですね。日本人のパスポートは高く売れると聞きますがね」
「ええ、すぐに大使館に連絡しておきましたが、悪用されたりすると恐いですね」
和樹は拳銃で脅された時のことを思い出し、少し身震いした。
しかし、あの事件を契機にこの仕事にまっとうに取り組んだからこそ今の自分があるのだと、あのギャング団に感謝すべきかと思って、愉快な気持ちになった。
「当機は間もなくフィリピンのニノイ・アキノ国際空港に到着します」
機長のアナウンスが流れ、三人は倒していたシートを元に戻した。
「タバオに渡るのは明日なので、今日はマニラでゆっくりしましょう。美味しいレストランを押さえていますから」
「いや申し訳ない。気を使っていただいて」
飛行機を降りると、むっとした湿気が肌にまとわりついた。大阪も暑かったが、フィリピンの暑さは熱帯特有の感触で、ボーディングブリッジを渡っている間にも、汗が噴き出していくのを感じた。
タバオへの乗継便の関係でマニラに一泊せざるをえなかったが、本当はマニラに長居はしたくなかった。あのタクシー運転手やギャング団に遭遇するのは厄介だ。こちらの弱みを掴んだつもりで、和樹に金をせびりに来るかもしれない。
だから、今回は和樹が定宿としていたのとは別のホテルにした。それと、ショーなどが見られるクラブのあるホテルにして、出来るだけホテルから出なくてもいいようにと考えた。
ホテルに着いて一旦各自の部屋に荷物を下ろしてから、三人はロビーラウンジに集合して、これからのスケジュールの打ち合わせをしていた。
その時一人の男が近付いてきて、三人に声をかけてきた。
「高橋さんは?」
和樹が振り返ると、制服を着た警察官らしき男だった。顔は日本人と変わらない。本城と佐伯も驚いて男を見上げた。
「アイ、アイアム」
「日本語で大丈夫です」
警官は身分証を示して「ナカノ」と名乗った。どうやら日系のようだった。
「何か御用ですか?」
和樹は動揺を抑えて尋ねた。
「この男を知っていますか?」
ナカノは、男性が写った一枚の写真を見せた。そこにはあのタクシー運転手が写っていた。
和樹は足が震えそうになるのを無理やり抑え、どう答えるべきか迷った。
「誰ですか?」
「見覚えはありませんか?」
「どこかで見かけたような気もしますが」
とりあえずあいまいな返答をして、相手の出方を伺った。本城と佐伯も二人の様子を黙って見ていた。
「タクシーの運転手です」
これ以上しらばっくれるのはまずいと思い、和樹はようやく思い出したようなふりをして言った。
「ああ、以前泊まったホテルで、仕事のために何回か使ったことのあるタクシーの運転手でしたか。あまり印象に残っていませんでしたから。それで彼が何か?」
その運転手が和樹から奪った金のことで、事情聴取されるのだと思った。二千万円もの大金を奪われたのに、なぜ被害届を出さなかったのかを追及されるだろう。しかも間が悪すぎる。よりによって三成銀行の行員と一緒の時に。
和樹は頭が真っ白になり、額に汗がにじみ出る。
「三日前に殺されました」
「えっ!」
「トンドのアパートで、拳銃で撃たれて殺されました」
トンドとはマニラのスラム街で、治安状態が悪いところとして有名な場所である。
「それで私に何を?」
意外な事実に驚いたが、和樹は冷静さを取り戻しつつあった。あの運転手が死んでしまったのなら、あの金を和樹が持っていたこととか、頻繁に両替を繰り返していたこととかは、何とか隠しおおせることが出来るかもしれない。
「彼のアパートから、あなたのパスポートが見つかりました。それで大使館に問い合わせたところ、ひったくりにあって盗まれたという届け出があったということで、彼について何かご存知のことがあればお聞きしたいと思いまして」
なるほど、奪われたパスポートの件だったのかと、和樹は少し安心した。
「パスポートの盗難とその殺人事件とで、何か関係があるのですか?」
和樹は相手の様子を探った。
「いえ」
「では、どうして私に話を?」
「実は」
ナカノは頭を掻きながら答えた。
「実は、タクシー運転手を含め五人が殺されるという事件があり、犯人の手がかりが一向に掴めず、少しでも解決につながる話が聞けたらと思いまして」
マニラ警察は、汚れた金のことを捜査しているのではないようだった。和樹は完全に自分を取り戻すことができた。
「五人も?それは大変だ。何かお役にたてるならば、どうぞお聞きください」
和樹は佐伯と本城にも同意を求めた。二人は黙って頷いた。
ナカノは和樹の隣の席に座って、佐伯と本城に会釈をした。
「お仕事ですか?」
「ええ、タバオにウナギの養殖場を作ろうとしています」
本城が答えた。
「おお、ウナギね。フィリピンではあまり食べませんが、日本人は好きですね。私の父親も大好物でしたよ」
ナカノは人懐こい笑みを投げかける。
「高橋さん、パスポートを盗られた時の状況を、詳しくお話ししていただけませんか」
「ええ、あの運転手のタクシーに乗ってお土産物を買いにアヤラセンターに行った時に、路上で見知らぬ男にポーチをひったくられましたが、まさか乗っていたタクシーの運転手が関わっていたとは思いませんでしたね」
「パスポートの他に盗まれたものはありませんか?」
「現金が二万ペソくらいですかね」
「警察に被害届は出さなかったのですね」
「ええ、翌日タバオで商談があったので、パスポートの盗難だけ大使館に届け出て再発行の手続きをお願いしました。まあ現金の方は二万ペソですから、まあいいかなって思いまして」
「そうですか。ポーチをひったくったのはどんな人物でしたか」
「後ろから襲われて、そいつはすぐに逃げていきましたので、顔は見ていません。追いかけるのも危険かと思いまして」
「下手に抵抗しない方がいいですよね」
佐伯部長も口を挟む。
「タクシー運転手は、あなたがパスポートを持ち歩いていたのを知っていたんでしょうか?」
「ええ多分。銀行で両替する時に必要かと尋ねると、『要るかもしれない』と言っていたので、部屋まで取りに戻りましたから」
「なるほどね、それで共犯者に連絡して待ち伏せさせたのかもしれない」
「全然気が付きませんでした。もっと用心しておけば良かった」
「いやいや高橋さん、そこまで計画的なら、高橋さんの落ち度ってことはありませんよ。とんだ災難でしたよね」
本城が同情をこめて話しに割り込む。
「何か気付いたこととかがあれば、ここに連絡してください」
ナカノは電話番号の記されたカードを高橋に渡して立ち上がった。
「はい、わかりました」
和樹はすっかり落ち着きを取り戻して、ナカノを笑顔で見送った。
ひょっとしたら、自分から奪われた二千万円が元での仲間割れが原因かもしれないと思ったが、それはどうでも良かった。
「そう言えば部長、うちの中津支店で強奪された一万円札が、フィリピンでも見つかったと、先日兵庫県警の刑事が来て言っていましたよ」
和樹は耳をそばたてた。
「ほう」
「やっぱり、ああいったマフィアみたいな連中が関係しているんでしょうかね」
「そうかもしれないね。国際的にマネーロンダリングの規制が厳しくなってからは、うちらのような銀行経由は難しいだろうからね」
「それから、最近になって大阪や神戸でも頻繁に使われ始めたとも言っていました」
和樹は、フィリピンまで捜査の手が及んでいることに驚いたが、あの金がやくざや闇金融からも流れ出したことを知って、思惑通りにことが進んでいることに満足した。
それにフィリピンで両替した金も、ギャング団がらみで逆に出所が益々分からなくなるだろう。あの運転手も死んでしまったし、和樹が多額の円を両替していたということを示す証拠は何もない。
「すみません、私のことでお時間を取らしてしまって。そろそろ食事の時間ですから、予約していたレストランにご案内します」
和樹は上機嫌になっていた。
翌日三人はタバオに渡り、ウナギ養殖場予定地を視察した。和樹と取引のある養殖場の経営者の自宅に招かれて歓迎を受け、市長からも歓待された。
「確かに良い条件ですね」
「これならば問題はないだろう」
本城と佐伯は、融資の障害となる問題点はないと判断したようだった。
関西空港に降り立って、和樹はすぐに初音に電話をかけた。
「フィリピンから今帰ってきたよ」
「お仕事どうだった?」
「ああ、多分上手くいったと思う」
「良かったわね」
「あれから桜井から何か言ってきた?」
「ううん、何も。死亡保険契約の解約通知も届いたし、もう安心して良いわよね」
「そうだね。新たに借りた分の返済も順調に進んでいる?」
「ええ、後三件の三百万円だけ。明日に全部返せると思うわ」
「じゃあ今度の日曜日、六甲山に行こうね」
「ええ、楽しみだわ」
「それじゃあ、また電話する」
本城がニヤニヤして話しかけてきた。
「彼女ですか」
「いやいや」
「顔がほころんでいますよ」
「えっ、そうですか」
「前に聞いた時は、彼女いないなんておっしゃっていましたよね。最近できたんですか?」
「ええ、まあ」
「羨ましいな。やっぱり順調な時は順調なことが続きますよね。いつか紹介してくださいよ」
「ええ」
本城は大阪本店に寄って行くと言うので、二人は空港で別れた。
和樹は、本城が言うとおり、自分にツキが回ってきたような気がした。
和樹は、神戸に向かう阪神高速湾岸線を走るリムジンバスの窓から、六甲山の緑を眩しそうに見つめた。