第32話
和樹と初音は元町通りを歩いていた。平日の昼下がりということもあって、人通りはそれほど多くはなかった。
「こんなに近くにいたんだね」
実際、和樹が初めに事務所兼自宅として借りたアパートと初音のいたアパートとは、元町通りを挟んだ海側と山側だったが、二百メートルも離れていなかった。
「本当ね。こんなに近くにいたのに全然気付かなかったのに、あんな所で会うなんて」
初音は大阪のクラブに勤め始めてから、尼崎の下町に引っ越していた。家賃を節約するためと、あのやくざから出来るだけ離れたかったからだ。新地のクラブでの偶然がなければ、和樹と再会することは無かっただろう。
「初音の住んでいた部屋からポートタワーは見えた?」
「ええ見えたわよ。時間があれば、いつも眺めていたの」
「僕も部屋の窓から眺めていた」
元町通りに交差する路地の向こうに、ポートタワーが見えた。
ポートタワーは、神戸港のメリケン波止場に建つ高さ百八メートルの展望塔で、鼓を細長くしたような形は、海から見ると六甲山の背景と重なって、神戸のランドマークとなっていた。
「上ってみようか。考えてみたら、小学生の時に何回か行ったことがあるけれど、それ以来行ったことがない」
「東京の人にとっての東京タワーみたいなもの?」
「それ以上かもね」
展望台まで上がると、海の向こうに紀伊半島が眺められた。梅雨が明けた夏空に、関西空港への着陸態勢に入った飛行機が、高度を徐々に下げていくのが見えた。
「考えてくれた?」
和樹は初音にさりげなく尋ねた。
「ええ、でももう少し一人で頑張りたいの。あなたに借りたお金を返すまで」
「わかった」
和樹も、自分のしでかしたことの後始末をつけるのに、もうしばらくは一人でいた方が良いとも思った。
「でも、時々会えるよね」
「うん」
「よし、今度は六甲山に登ろう。夜景を見ながら食事できるいい店がある」
「いいわね」
「明日からフィリピンに出張だから、再来週の日曜日でどうかな」
「楽しみにしているわ」
和樹は初音を元町駅まで送った。
「それじゃあ仕事に戻るから、ここで」
「ええ、フィリピンから帰ったら連絡ちょうだいね」
「分かった」
初音は快速電車に乗り込み、尼崎へと向かった。
車窓に流れる六甲山の緑を眺めながら、初音は次のデートを楽しく思い描いた。しかし、少し気がかりなことがあった。和樹はどうしてあんなことを自分にさせたのだろうか。
あの偶然の再会を果たした日の三日後、初音は和樹から呼び出された。
「君が借りた一千五百万円のことだけど」
「私やっぱり自分で返済するわ。何年かかるか分からないけど」
「いや、僕が肩代わりする。ただし、僕の言うとおりにやってくれないか」
「あなたの言うとおりって?」
「そのやくざに簡単に金を返してしまったら、君がいい金づるだと思って、ずっと付きまとわれるかも知れない」
「そうかもしれない」
「それで君は、金に困って仕方なく闇金融から借りて返すことにしよう」
「なるほどね」
「出来たらば、その男の知り合いがいい。多分やくざなら、一人や二人、そういった関係者と知り合いがいるだろう」
「確かに、闇金を紹介すると言っていたわ」
「それは好都合だ。そいつを利用しよう」
「そしてその闇金に返せばいいわけね」
「いや、また別の闇金から借りる」
「どうして?」
「その闇金にも、君が金に困っていると思わせるためだ。君が簡単に金を返してしまったら、やくざに伝わるかもしれない」
「慎重なのね」
「多分最初の闇金では一千五百万円をすぐに貸してくれるだろう。君の素性を知り合いのやくざが握っているからね。でもそこに返すために借りる闇金では、一か所で一千五百万もの大金は貸してくれないだろう。だから何か所かでようやく金を作れたことにする。そうすれば、もう君が借金地獄に陥ってしまったと思うだろう」
「でも闇金だから、利息がかなりかかってしまうわ」
「それはあの男との関係を完全に断ち切るための保険だから、それぐらいは仕方ないだろう」
「そうね」
「それからもう一つ」
「何?」
「闇金から借りた金を、一度僕に預けて欲しい」
「どうして?」
和樹は少し間をおいてから、
「女の君が大金を持ち歩いたりしたら、危ないじゃないか」
と言った。
「そうかもね」
「僕も一緒に借りに行ってあげるから」
「そんなことまで頼めないわ」
「大丈夫だよ」
初音はあのやくざに電話した。
「あのお金、今年中には無理よ」
「やったら、実家の土地建物の権利証か、親父さんに生命保険をかけるしかないわな」
「そんなことやめてよ。前にお金貸してくれるところがあるって言っていたじゃない。そこで借りるわ」
「本気か?」
「本気よ。あなたに借りているくらいだったら、闇金にでも借りた方がよっぽどましよ」
男は「ふふふ」と含み笑いをした。
「分かった。普通やったら、お前なんかに一千五百万円も貸し付けるアホな金貸しなんかおらへんけど、わいの知り合いやったら大丈夫や。そやけど、そこでケツまくったら、お前の家族全員の命の保証は出来へんで。ワエらより恐ろしいで」
初音は身震いした。しかし和樹がたてた筋書き通りに話が進んでいるので、安心もした。
「大丈夫よ。ちゃんと返すから」
「やったら明日、わいの所に来いや。その金貸しの所に連れて行ったるから」
「分かったわ」
「久しぶりにあのクスリで楽しませてやろうか」
「冗談じゃないわ」
初音は顔が赤くなった。
すぐに初音は和樹に電話で報告した。
「あの男の知り合いの闇金から借りることが出来そうよ」
「第一段階は突破だな、それでいつ?」
「明日来いって。その闇金の所に連れて行ってくれるそうよ」
和樹は少し考えてから、
「じゃあ僕は後をつけていくよ」
と言った。
「大丈夫よ一人で」
「いや心配だ。それに、一つやってもらいたいことがあるから」
「何?」
「君に前もって一千五百万円の現金を渡しておくから、借りたお金と取り換えて、やくざに渡してほしい」
「えっ、どうして?」
和樹は再び数秒間沈黙の後、
「もしかして、闇金から借りた金の中に偽札とか混じっていたら、後で厄介なことになる」
と言った。
「そんなことあるかしら」
「いや、用心のためだ」
初音は一応納得したが、そこまでやる必要があるのかと、少し不思議に思った。
初音は、神戸のあの男の事務所を訪ねた。二度と見たくないあの男が、机に足を投げ出して、ふんぞり返っていた。
「久しぶりやな、今は新地のクラブか。まあそこそこの稼ぎはあるようやな」
初音は、今の店のことも突き止められていたことに驚いた。やはり和樹の言うように、この男から逃れるためには色々と算段が必要なことを改めて思った。
「だから、今年中では無理だけど、ちゃんと返せる見込みはあるわ」
「勝手にせえや。後で泣きついてきても知らんからな」
「泣きついたりはしないわ」
「おいスグル、この女を桜井さんのところまで案内したれ」
「オッス」
「話は付いとるから、金借りさせてすぐに戻って来いや」
「オッス」
初音は若いチンピラに連れられて事務所の横に停めてあった黒のセルシオに乗せられた。
車は路地を抜けて国道二号線に出て、西へ向かって走り出した。助手席に乗せられた初音は、運転手に気付かれないようにバックミラーを覗くと、和樹が運転する車が見え、ほっとした。
「姉さん、本当に桜井のジジイに金を借りるんですか。ケツの穴の毛までむしりとられますよ。それよりかは、兄貴のスケになっておいた方がイイっすよ」
「余計なお世話よ」
「強がり言っていられるのも今のうちですよ。姉さんがどうにもこうにもならなくなったら、俺に相談にきたらいいですよ。兄貴には黙っていてあげますから」
スグルと呼ばれていたチンピラは嫌らしい目つきで眺め、左手を初音の太ももに置いた。
「よしてよ」
その手を初音が払いのけると、スグルは「チェッ」と舌を打って、アクセルを乱暴に踏み込んだ。
「桜井金融」と書かれた古めかしい木札のかかったすりガラスの扉を開けて初音が中に入ると、和服姿のいかにも怪しげな老人が革張りの立派な椅子に座っていた。そばのデスクに、秘書らしき眼鏡をかけた男が控えている。その男が初音に声をかける。
「契約書は作っておきました。ここに署名と捺印を」
一枚の契約書を手渡され、初音はざっと目を通した。金額は一千五百万円。利息の欄が空白になっている以外、別に普通の契約書のようだった。初音は少し躊躇したが、署名捺印した。
「もう一枚、お願いします」
秘書らしき男が別の契約書を初音に手渡した。驚いたことにそれは生命保険の契約書だった。五千万円の死亡保険契約で、受取人は「桜井義男」となっていた。
「これは何ですか?」
「万が一返せなかった時には、これで支払ってもらいます」
初音は青ざめた。
「心配しないで下さい。念のためですよ。ちゃんと返済したらこれは破棄しますから。それにもし返済が困難になったら、別のところも紹介してあげますから」
男は事務的に語った。
「まあまだ若いし別嬪さんやから、いくらでも稼げるやろう」
それまで黙っていた老人が口を開き、不気味な笑い声を上げた。
初音は渋々保険契約書にも署名捺印した。
「金を渡してあげなさい」
桜井は男に命じて、金庫から一千五百万円の札束を持ってこさせた。
「ご確認を」
初音はパラパラっと封印された百万円の札束をいくつか調べたふりをして「いいわ」と言った。
「利息は十日で三パーセント、だから初めの十日は四十五万円になります。元本を返済していくにつれ利息は下がってきますから、支払いは段々楽になってきますよ。利息さえちゃんと払ってくれれば、元本の返済はいつまででもお待ちしますから。それに、もし利息の支払いが難しい時には、ここで用立ててもらえばいいです」
男は一枚の名刺を差し出した。そこには別の金貸しの名前が刷られていた。こうやって、借金の泥沼にはまり込んでいくのだろう。初音は恐ろしくなった。
「この男を受け取りに行かせるから、しっかりと稼いどいてな」
桜井は再び不気味な笑い声を響かせた。
スグルが金を受け取ろうとしたので初音はそれを制し、
「私が直接手渡すわ」
と札束の入った紙袋を奪い取った。
帰りの車では、初音は後部座席に乗り込んだ。
「姉さん、十日で四十五万ですよ。兄貴に泣きついた方がええんちゃいますか」
「返してやるわよ」
「まあ強がり言えるのは最初だけ、何かあったら俺が面倒みますから」
初音は、バックミラーにスグルの卑猥な視線を感じた。
初音は鏡から目を逸らし、足元に置いた金の入った紙袋を拾い上げ、音をたてないようにそっと袋の口を開き、札束を取り出した。そして別の大きめのバッグに入れていた和樹から渡された札束を紙袋に入れ、借りた金をバッグに押し込み、上からハンカチで覆った。
なぜ金を交換しなければならないのか初音はまだ疑問だったが、和樹にはそれなりの考えがあるのだろうと思った。後ろを振り返ると、和樹の車が一台の車を挟んで見えた。
金をあの男に返すと、男はあっさりと借用証を破いてみせた。
「まあこれで、おまえとは何の関係もない」
「もう付きまとわないでよ」
「その必要もない」
「じゃあ帰るわよ」
「スグル、送ってやれ」
「結構よ」
初音は一刻でも早く、その場を離れたかった。
「せいぜい桜井のジジイに貢ぐことやな」
男の言葉を背に受けながら、初音は部屋を飛び出し階段を駆け下りて外に出た。そして和樹の車に走り寄り、助手席に飛び込んだ。
「終わったわ」
初音はそう言うと和樹にしがみつき、声を上げて泣いた。
「恐かった」
「もう大丈夫だよ」
和樹はそっと初音の髪を撫でた。
「後は計画通り闇金に返済していけば、それで終わりだ」
「本当に終わりよね」
初音の問題はこれで解決した。だが、ここから和樹の問題が再び始まる。
やくざに渡ったあの一万円札と、これから次々と闇金に流れていく一万円札が、和樹の計画通り、出所が分からないまま上手く流通してくれるだろうか。
まだあの山の中には、一億円近い金が眠っている。




