第30話
和樹はビクッとした。来ないだろうと思っていたのに、本当に来たのが不思議な気がした。しかし、和樹が考えていたような甘い再会ではなく、単に金のために来たのではないかと疑った。
和樹は何気なさを装って、ドアを静かに開けた。
初音が立っていた。見ると、驚いたことに彼女の目は潤んでいた。
「わっ」と声を上げて初音は泣き出し、和樹に倒れ掛かってきた。和樹は初音を胸で受け止め、彼女が泣き止むまでそのままじっと体を強く抱きしめた。
「どうしたんだ?」
「ううん、嬉しくて」
「本当?」
「本当」
「でもそれならば、どうしてアドレスを変えたのを連絡してくれなかったんだ」
「メールくれたのね?」
「ああ」
「ごめんなさい、連絡できなかったの」
「どうして?」
和樹はまだ、初音のことを信用できないでいた。
初音はベッドに腰掛けて、涙をハンカチでそっとふき取った。
「あの時約束した自分になれなかったから」
「保育士になる勉強を始めるっていう約束?」
「それだけじゃない」
和樹は彼女にもグラスを手渡し、シャンパンを注いだ。
「何があったのかを話してくれないか」
「今は話せない。今日も本当に来ていいのか随分迷ったの。ちゃんとした自分になってから、あなたに連絡しようと思っていたの」
初音はバッグから携帯を取り出して、和樹のアドレスを呼び出して見せた。
「何か辛いことでもあったのか?」
初音の目から再び大粒の涙が零れ落ちた。
「ううん、もう大丈夫。今年いっぱいで解決すると思うの。それまで待って」
和樹は、初音の言葉を信じようと思った。なぜなら自分も彼女を唯一の心の支えとしてやってきたのだから。
「何か困ったことがあるなら、相談してほしい」
「大丈夫。一人で出来る」
「時々会えないか?」
「お店なら」
「お店でしか会えないの?」
初音は、顔を和樹から背けて言った。
「本当は会いたい。ずっと一緒にいたい。でも自分のしたことをきちんと片づけてからしか、あなたの顔をちゃんと見られない」
初音の目は涙で溢れていた。
和樹は、初音がどんな悩みを抱えているのか、想像出来なかった。
和樹は初音の横に座り、シャンパングラスを受け取ってテーブルに置くと、彼女の体を抱き寄せた。
「だめ」
初音は首を振った。
「二人で一緒に解決しよう」
「ううん、あなたには迷惑かけたくない」
「お金の問題?」
和樹は初音が夜の仕事をまだ続けているのは、金を稼がなければならないからだと考えた。
「聞かないで」
初音は顔を背けた。和樹はやはり金の問題なのだと感じた。
「僕は君と会えたから、今の自分がいる」
和樹は正直そう思った。
初音に会った頃は、ただ単に一億七千万円の汚れた金の使い方しか考えていなかった。しかも、ただ今までの生活を維持していくだけの目的でしかなかった。初音と交わした何気ない約束があったからこそ、和樹はここまでやってこれたのだ。
「君と一緒にいたい」
和樹は更に初音を強く抱きしめた。
二人はベッドに倒れ込み、今までのしかかっていた重圧から逃れるように抱き合った。初音も拒もうとはせず、和樹の体にしがみついていた。
初音は和樹と二回目に会った日の夜のように、あのお香では得られなかった、安らかな快感が体中に満たされていくの感じた。
和樹は冷蔵庫から缶ビールを取り出しベッドに座って一口飲み、毛布にくるまって壁に寄りかかっている初音に手渡した。
「何があったのか、話してくれないか」
初音はビールを一口飲んで和樹に返してから、ぽつりぽつりと話し始めた。
前の風俗の店を辞めようと思ったこと。そして最後の日に客に殴られて意識を失ったこと。そして宮崎に一度戻ったが家出同然で再び神戸にやってきたこと。そして仕事が見つからずに今度は怪しげな宗教団体で仕事を始めたこと。そこでも信者とトラブルになって辞めたこと。そして今のクラブに拾ってもらったこと……。
そしてある男に騙されて、多額の借金を背負ってしまったことまでを話した。しかしあのお香のことは言わなかった。
和樹は初音の話を信じた。和樹から金をだまし取ろうとしているなら、もっと前に初音の方から連絡してきたはずだと思った。
そして、自分の知らないところでそんな辛いことを体験してきた初音を、より愛おしく感じた。
「その借金って、いくらなんだ」
「ううん、いいの。私一人で返すから」
「今の僕はある程度の金なら融通がきく、君に貸すことにして、それで借金を返したらいい」
初音は驚いた表情で和樹を見つめた。
「そんなことお願いできない」
「お金は少しずつ返してくれたらいい。そうすれば、君とずっと一緒にいられる」
初音は毛布を頭から被って泣いた。
あの汚い金で稼いだ利益は、初音のために使おう。それが自分の後ろめたさを唯一軽くする方法かもしれない。
「いくらなんだい?その借金って」
和樹は再度尋ねた。
初音は少しためらってから「一千五百万円」と小さく呟いた。
この短い期間に一千五百万円もの借金を作ってしまったのには、余程のことがあったはずだ。
「ごめんなさい。相手がやくざだったの」
「やくざ?」
「ええ、丸政組の組員だった」
「とんでもないやつに関わってしまったんだ」
「ごめんなさい。大阪のお店での出来事で、何もかも上手く行かなくなってしまって……」
初音は再び目に涙をためていた。
「どんな借金か知らないが、本当は払う必要がないはずだ」
「でも、借用証を書いてしまったの」
「それも効力はないはずだ。でも、そいつとの縁を完全に断ち切るには、金で解決するしかない」
和樹は一千五百万円なら、すぐに都合できると思った。
「その金は僕が用立てるから、すぐに返してしまおう」
「そんな……」
初音は驚いて和樹を見た。
和樹は初音のためにそうしようと思った。しかしそう思った瞬間に、別のある考えが浮かんだ。上手く行けば、今まで使ってしまったあの汚れた金の出所を、完全に消し去ってしまうことができるかもしれない、と。