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第17話

「さあ、そろそろおねむの時間ですよ」


 十畳ほどの板張りの部屋に小さな布団を敷き詰めて、横沢初音は子供たちに呼びかけた。


 部屋の片隅でブロック遊びをしていた子供たちは、渋々初音の呼びかけに応じて、自分の布団の上に横たわる。でもまだ遊び足らずに追いかけっこをしている子供たちも何人かいる。


「健人、琢磨、詩織、早くお布団の所に行きなさい」


 長い髪を無造作に後ろで一つにくくり化粧気もない初音は、子供を追いかけて捕まえ、ようやく全員が自分の布団に横たわる。


 まだ何人かは布団の上でモゾモゾしているが、スヤスヤと寝入っている子供もいる。でももう十分もすれば、全員がおとなしく眠ってくれる。この保育園では、「お昼寝タイム」は厳しく躾けている。またお昼寝タイムが保育士たちの唯一の息抜きの時間でもあった。


「初音さん、考え直してくれた?」


 隣の狭い休憩室で初音がコーヒーを飲みながら同僚と話をしていると、園長先生が声をかけてきた。


「ええ、でも私やっぱり、正式に保育士の資格を取るために学校へ行きたいので、今月で辞めさせてもらいます」


「そう、仕方がないわね。資格取ったらまた来てね。うちもいつまでも無認可ではなく、ちゃんと認可をとれるようにするから」


「はい、その時はまた声をかけてください」


 隣室から子供のざわめきが聞こえ始めた。お昼寝タイムは終わりである。


 仕事が終わってアパートに帰ってきて、途中のスーパーで買ってきた材料で簡単な夕食をとる。食事を終えてからシャワーを浴び、ニトリで買った小さなドレッサーに向かい、念入りにメイクをする。


 なぜこんな生活になってしまったのかを、初音は何度も自問する。


 父親の経営していた工務店が倒産し、福岡の私立大学への進学が決まっていたのに、それを辞退して、家出同然に大阪に出てきて保育園の仕事を見つけた。しかし給料も安く、心を許せる友達もいなかった。


 そんなとき街で誘われて始めた今のアルバイトは、最初は抵抗があったものの、お金にもなるし、友達のように店の女の子たちとファッションやセックスの話ができるのも楽しかった。


 しかし高校を卒業して宮崎を出てからもう四年、二十二歳になっていた。

 このままの生活でいいと思っている人なんて、ほんの一握りしかいないと思う。大抵は、今の生活を何とか変えようと思っているのだろう。でもそのきっかけとチャンスがない。自分にもそれがなかった。


 そんなとき、あの男に出会った。


 事業を起ち上げたと言っていたので、お金も魅力的だった。でも初めは、行きずりの男だと割り切っていた。


 しかし心斎橋筋を恋人のように二人で歩いているうちに、妙な気持が沸き起こってきた。こんなアルバイトをしてはいたが、初音には初めての経験だった。


 男がもう一度会えるか、と聞いてきたのにも驚いた。


 ハンサムとまでは言えないが、小ざっぱりとしていて、風俗の子しか相手にしてもらえないタイプではない。それなのに、私みたいな女の子に、真面目くさってそう尋ねてきた。


 名前を教えてくれたらと頼んだら、本名を名乗ってくれた。


 実はあの男が眠ってから、初音は財布から免許証を抜き出して、住所と名前を調べておいた。


 もし嘘の名前を告げていたら、そこで終わっていただろ。だがあの男は、ちゃんと本当のことを言ってくれた。


 だからどうだっていうわけではない。あの男が事業を起ち上げたという話も嘘かもしれないし、あの男との再会を本気で望んでいるというわけでもない。


「恋愛ごっこ」かもしれない。でもとにかくそれで踏ん切りがついた。もう一度勉強して、ちゃんとした生活に戻ろう。


 初音は今夜でアルバイトを辞めようと決め、店に出かけた。


 いつも通り、入店してすぐ指名が付いた。


「ちょっとやーさんぽいけど、我慢してね」


 店長が言う。


「大丈夫よ。二回ぐらい延長させるから」


「頼んだよ」


 初音が席に着くと、客はキープしたボトルのウィスキーをグラスに半分ぐらい注ぎ、そのまま初音に飲めと命じた。


「私お酒弱いから、コーラもらっていい?」


「ワイの酒が飲めへんてか」


「そんなことじゃなくて、私お酒弱いからって言ってるじゃない」


 客はかなり酔っぱらっていて、初音に抱き着いてきた。


「そういう店じゃないの」


 初音は男を突き放す。


「なんやと」


 客は急に立ち上がって「店長を呼べ」と怒鳴った。


 店長が飛んで来て「お客さん、悪いけど帰ってくれませんか」と言うと、客は店長をいきなり足蹴りし、店長は腹を押さえて床に倒れ込んだ。


 店の中が騒然とする。


 客は初音の腕をつかみ、それを払いのけて逃げようとする初音の頬を、握りこぶしで思いっきりなぐりつけた。初音の意識は瞬間に吹っ飛んだ。


 気が付くと、病院のベッドに寝かせられていた。三日三晩意識がなかったということだ。頬ははれ上がり、顔の左半分いっぱいに大きな湿布が貼られていた。そしてベッドの傍らには母親がいた。


 店の女の子が昼間勤めている保育園に問い合わせて、なんとか実家の連絡先を調べて電話してくれたようだった。


 女の子は保育園にも実家にも、店で働いているということは隠したつもりだったが、あの騒動で店長と初音以外にもけが人が出て、止めに入ったボーイの一人は重傷を負い新聞沙汰にもなっていたので、すぐに知られてしまった。


 母親が悲しそうに初音に話しかけた。


「なにしよっとね。お父さん、てげ怒っちょったよ」


 結局保育園も、今月いっぱいで辞めると言っていたのに、解雇となった。

両親から宮崎に戻って来いと強く言いつけられ、退院してから仕方なく部屋を引き払って宮崎に戻った。


 しかし自分が帰って来ても、両親の厄介になるだけだった。周囲の冷たい視線と噂にも耐えきれなかった。初音は再び、誰にも告げずに神戸にやって来た。


 アルバイトで学費にと貯めた貯金がいくらか残っていて、それで神戸の元町通りの裏筋のアパートを借りて、当面の生活資金とした。


「何か嫌になっちゃった」


 自業自得と言われればそれまでだが、こんなはずじゃなかったという思いを消し去ることはできなかった。


 親や今まで繋がりのあった人たちとの連絡を絶つため、携帯電話も買い換え番号もメールアドレスも変えた。電話帳に登録してあった番号もアドレスもすべて消去した。ただ和樹に教えてもらったメールアドレスだけは、消すことができなかった。


 初音は貯金が残っている間に次の仕事を探そうとしたが、保育園を含めてまともな仕事の口はなく、仕方なしにまた風俗の仕事に戻った。以前より、もっと過激なサービスをしなければならない店だった。


 しかも今度はこれが本業となってしまったので、以前のように楽しくはなかった。


 もうあと数日で三月になり、寒さも幾分かは緩んできたが、初音は春になったからと言って、何かの希望が持てるとは思えなかった。


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