第14話
正月で百万円近くの両替に成功した和樹は、その金で五つの銀行と二つの証券会社に新しい口座を作った。今後両替が増えるにつれ、一つの口座に入金が集中するのは、税務署に目を着けられる危険性もあったからだ。
三成銀行にも口座を作った。何となく、恩返しの気持ちがあったのかもしれない。
和樹はスーツも新調することにした。前に高級ホテルで食事をしたとき、やはり量販店での吊るしのスーツでは様にならないと思ったからである。そんな安物のスーツで贅沢していたら、おかしく思われても仕方がない。
しかし和樹は今まで服に金をかけたことがなかった。変に海外ブランドのスーツを新調すれば、成金丸出しで、やはり怪し過ぎる。和樹は無難に、三宮のデパートでオーダーメイドのスーツを作った。それでもサラリーマン時代に買っていた値段の五倍はした。
服だけではなく時計や靴も、それなりの物を揃えておかねばならないだろう。しかし時計もいきなりロレックスではやはり変だし、第一まだそれを買えるだけの金もない。だから時計はオメガにして、靴はイタリア製だが地味な物にした。
それと、健康食品の通販会社を辞めた時解約してしまった携帯電話を再契約し、スマホにした。欲しかったタブレットPCも手に入れた。
支払いはすべて現金で行った。カードの支払いが急に増えるのも危険だと思った。
それだけでも四十万円かかってしまった。しかしまだ一億六千九百万円は残っている。だが当面使えるのは五十万円に過ぎない。五十万円あれば二か月は悠々と暮らせるし、不足してきたらまた両替に行けば良い。
しかしこんな生活を繰り返しているだけでは、社会の中心に舞い戻って来るといった思いなんて、到底実現しそうにない。やはりこの金を元手に、何らかの事業を起ち上げることが必要だ。
今は単なるフリーターに過ぎないが、自分に能力がないとは思わなかった。現に商社に勤めていたときに手がけた「海外でウナギを養殖して輸入する」というプロジェクトは、和樹が中心にまとめあげ、実現の一歩手前まで行った。
あの時は、会社が他の商社に吸収されることになったから、残念ながら実現しなかった。だが、今のニホンウナギの不漁を考えると、あの時他社に先駆けてやっておけば大きな利益をもたらしていただろうにと、和樹は悔しさが蘇ってきた。
もし自分に資金とチャンスがあるならば、自分にはそれを生かす能力があるはずだ。
和樹の気持ちは急速に昂ぶってきた。そして今、その両方が手元にある。だから月々何十万円かを変えて満足しているわけにはいかない。
ならば、どうやったら多額の金を短期間で両替できるのだろうか。和樹はそのウナギプロジェクトを思い出しながら、海外に目を向けた
タックスヘブンの国への資金移動は、マネーロンダリングの常套手段である。しかし和樹に必要なのは、ただ単に金の出所を隠すための通常のマネーロンダリングではなく、金そのもの、つまり記番号の登録されているかもしれないこの一万円札自体の出所を隠さねばならない。
確かに現金を海外に持ち出して現地で両替すれば、足がつく可能性は低くなるだろう。和樹は、海外へ渡航した時のことを思い出してみた。
しかし考えてみると、いずれも円を、日本の銀行でトラベラーズチェックなりドルなりに換えてからしか行っていない。現地で両替するにはどうしたら良いのだろうか。そもそも日本からそんな多額の現金を持ち出せるのであろうか。
調べてみると、それほど多額でなければ両替自体は簡単だが、金の持ち出しについては、百万円を超える場合税関での申告が必要だった。それ以上持ち出すには、商取引の証拠などの審査が必要とのことである。
確かにバッグの中に現金を隠して持ち出すことも出来なくはないだろうが、見つかった場合、ただ単なる外為法違反だけではなく、そのお札自体でやばいことになる。
百万円以内ならば問題ないが、何回も渡航するならたとえ近場の韓国とかでも、旅費としてそれなりに経費はかはかかる。それにそんなに頻繁に海外旅行をしていたら、麻薬の密輸などの疑いをかけられ、「痛くもない」腹を探られるのも恐い。
和樹は海外の事情をいろいろ調べているうち、商社に勤めていた時のお盆休み、彼女とハワイへ遊びに行ったときのことを思い出した。
ワイキキビーチで見たサンセット、そしてビーチのバーで飲んだマイタイ。その後ホテルのベッドで交わした彼女との甘くて心地良い時間。
和樹は少し切なくなった。金は手に入り、まだうまく使えるかどうか心もとないが、社会にリベンジするための材料は手に入れた。しかし彼女と別れてからは、心の中にぽっかりと穴が開いたままだった。
そんなときなぜか、あの店の娘を思い出した。名前は確か詩織と言ったはずだ。女性とまともに会話したのが久しぶりだったこともあるが、どこか惹かれるものがあった。和樹は前に行った阪急東通りの店に再び行くことにした。
店に入って詩織を指名する。
「すみません、今別のお客様の指名入っていまして」
和樹は前と同様ボーイに一万円を掴ませると、「分かりました」と言って、和樹を席に案内する。
「あら、お久しぶり」
「覚えていてくれたんだ」
「もちろんよ。ところで前と違って、上等のスーツじゃない」
「前は安物だって分かったんだ」
「そりゃそうよ」
「結構観察しているんだね」
彼女はそれには答えず、水割りを和樹に手渡す。
「前に来た時、良いことがあったって言ってたじゃない。それって何だったの?」
「そんなこと言ってたっけ」
和樹は確かに、ソムリエに言い訳したのと同じようなことを彼女に言ったことを思い出した。それにしても彼女が、初めて来た客なのによく覚えているなと感心した。
「独立して事業を起ち上げた、それが順調に進み始めた」
「どんな事業?」
彼女は目を輝かせて尋ねる。
「秘密、もっと大きくなったら言うよ」
「へー、前会った時、普通のサラリーマンじゃないとは思っていたのよ」
「どうして?」
「だって、変だったじゃない」
「ははは、まいったな」
和樹は前回とは打って変わってテンションが高かった。そして、本気で「事業を起ち上げた」気分になっていた。
その日は会話が弾み、酒も進んだ。あっという間に六十分が経った。
「延長する?」
「ああ三十分ね。その後一緒に飲みに行かないか?」
自分の口からそんな言葉が出てきたことに、和樹自身が驚いた。
「いいわよ。今日は十一時までで明日は本業休みだから、大丈夫よ」
彼女はあっさりОKした。
「それは良かった」
それが彼女の営業に過ぎなかったとしても、和樹は素直に喜んだ。
「じゃあ十一時過ぎにお店の前で待ってて」
「分かった」
和樹は時間を十五分残して店を出た。待ち合わせの時間まで一時間ある。今夜も神戸には帰れないだろうと思い、前に食事をした駅前の高級ホテルに寄り、部屋をとった。
十一時に店の前に戻ると、約束通り彼女が店から出て来た。店の中で見た印象とは、少し違っていた。
「どこへ行く?」
「バーにでも行こうか」
「バー?」
「ホテルのバーでゆっくり飲むのも悪くない」
「まあいいわ」
彼女は少し意外そうな表情をした。
和樹は、部屋をとったホテルの最上階にあるバーラウンジに向かった。
「僕はジントニック、君は何にする?」
「私も同じもので良いわ」
「じゃあ、ジントニックを二つ」
二人は乾杯した。
「どんな事業を起ち上げたの?」
早速彼女が興味深そうに尋ねてきた。
「まだ始めたばかりだから、軌道に乗ったら話すよ」
「名前聞いていなかったけど」
「それもまだ秘密」
「秘密が多いのね」
確かに秘密が多すぎる。和樹は自分でもそう思った。
和樹は二杯目にスコッチのロックを、詩織はチェリーが添えられた甘いカクテルを頼んだ。
「あの店はアルバイトだって言っていたけど、昼間の仕事は何やっているの?」
「秘密よ。だってあなただって秘密にしているじゃない」
「そりゃそうだ」
和樹は笑った。
「前にお店に来た時は、ちょっと暗い人かなって思っていたけれど、今日は違うわね」
「そうかな、変わっていないと思うけど」
「全然違うわ」
「確かに事業を始める前だったから、色々と悩んでいたからかもしれない」
「じゃあ、とりあえず、おめでとうということで」
彼女はにっこりと微笑んで、再びグラスを合わせた。わざとらしい乾杯だったかもしれないが、和樹は嬉しかった。
「ところで、こんなアルバイトしていたら、言い寄ってくる男も多いだろう。僕みたいに」
「まあそうだけど。でも私、基本的にアフターはしていないの」
「アフターって?」
「お店終わってからのデートのことよ」
「でも、お客さんに誘われたりするでしょ?」
「普段は朝が早いし、そんな気になれないわ」
「じゃあ今日はどうして?」
「どうしてかしら?」
「今日の僕はラッキーだったっていうことだね」
「まあラッキーと言うか、私もそんな気分だったから」
「そんな気分?」
「まあ、私にも色々あるから」
二人はたわいのない会話で盛り上がって三杯目も注文し、それを飲み干したとき、ラストオーダーとなった。
「もう一軒行かない?」
和樹は、彼女の方から誘われたので驚いた。
「まだ大丈夫かい?」
「大丈夫よ」
和樹は、まだ幾分冷めている頭の中で意を決して言った。
「部屋をとっているんだけど、部屋で飲まない?」
彼女は一瞬戸惑った表情を見せたが、
「いいわよ」
と頷いた。
部屋に入ると、カーテンの開け放された窓の外に、大阪の夜景が広がっていた。
「きれいね」
彼女は窓際に駆け寄って、外を眺める。
「シャンパンでも飲む?」
和樹は彼女の返事を待たずに冷蔵庫からシャンパンの瓶を取り出して、シュポッと音をたてて栓を抜き、ふたつのグラスに注いで、片方を彼女に手渡した。
彼女はシャンパンを片手に、窓の外の風景に見入っている。和樹は、そんな彼女をしばらく黙って見ていた。
「何見てんのよ」
「いや、詩織って結構可愛いなと思って」
「馬鹿」
和樹は詩織の手にしているグラスを奪ってテーブルに戻すと、彼女の頬にそっと口づけをした。そして二人は甘い夜を過ごしたのだった。