第1話
日が西に傾き、山に夕暮れの気配が漂っていた。十月に入り、日が落ちるのが急速に早くなっていくのを、和樹は肌で感じていた。なぜなら、和樹は八月末に仕事を辞めてから、有り余る時間をただ潰すために、毎日のようにこの山に入っていたからだった。
山と言っても、神戸の北の新興住宅地の裏に続く山である。しかし、山を切り崩して造成した住宅地群の一番奥に位置するこの宅地の端からは、裏六甲と丹生山系に連なる奥深い山々が続いていて、一歩山道に足を踏み入れると、日常とは切り離された孤独な時間が流れていた。
今度の仕事も上手くいかなかった。
大学を卒業してそこそこ大きな商社に勤めてみたものの四年で辞め、その後転職した飲食店チェーンも、あまりの忙しさに体を壊し、一年で辞めてしまった。
それからは、短期の契約社員やコンビニのアルバイトでなんとか食いつないでいたが、ようやく見つけた健康食品の通販会社の正社員の職を、たった三カ月で客とのトラブルで辞めさせられてからは、もう働く気力を失ってしまっていた。
幸い、両親がこの住宅地に三十坪の二階建ての家を遺してくれていた。
母親は和樹が中学生の時に癌で亡くなり、父は、和樹が商社に入社したすぐ後に、やはり癌で亡くなった。一人いる歳の離れた姉は、和樹が高校生の時に東京に嫁ぎ、両親が亡くなってからは帰省することも無くなり、この家で和樹は、一人で暮らしていた。
和樹が登っていたのは、住宅地からも見える、このあたりで最も高い山だった。
標高は六百メートルほどであるが、低い山の合間に点在する住宅地群の向こうに、明石海峡大橋と淡路島が見える。
頂上から家まで歩いて帰るならば二時間はかかるが、登り口まで原付バイクでやってきたので、山道を下りるのに一時間くらいかかっても、日が落ちるまでには家に辿り着く計算だった。
和樹は、灌木の間の曲がりくねった登山道を下って行った。途中、うっそうとした暗い森も通り過ぎる。
何度も来た道だが、山の中腹位まで降りてきたときに、道が枝分かれした地点で、上ってきたのと違う方向に曲がってしまっていたようだった。だが大体の地図は頭に入っていたので、暗くならないうちにバイクに辿りつけるだろうと思った。
思いのほか手間取って日が暮れかけたころ、どうやら県道につながる別の林道に達した様だった。その道を下っていくと、遠くに車が止まっているのが見えた。目を凝らして見ると、軽貨物の後部の荷台から何かの荷物を取り出して、林の中に入って行く人影が見えた。
和樹は反射的に木の陰に身を隠し、成り行きを見守った。
十分くらいたってから再び林道に現れた人影は、又しても荷物を取り出し、やはり林へと消えた。
和樹は音を立てないように慎重に土の道を忍び足で更に近づき、車から十メートルほど離れた窪みに身をひそめ、その人物を林の中に探した。
サクッ、サクッという不気味な音が、静まり返った林の中に響く。
こんな夕暮れ時に、しかもこんな寂れた林道の突き当り付近での不審な行動に、和樹は危険な臭いを感じた。
和樹は頭を引っ込めて、息をひそめ、慎重に音を立てないようにしながら、その人物が去っていくのをひたすら待った。
もう日は完全に落ち、あたりに闇が漂い始めるころ、ようやく作業を終了したのか、その人物は車に戻り、エンジンをかけた。
ヘッドライトが点灯し、辺りが瞬時に眩しく浮かび上がる。車は細い林道で何回も切り返してUターンしてから、ようやく軽いエンジン音を響かせながら遠ざかって行く。
和樹は念のためにしばらく窪みの中でとどまっていてから、ようやく穴を這い出して車が止まっていたあたりまでやってきた。
そこから林の中には、確かに人が分け入った跡が残っている。しかし林の奥は既に真っ暗で、和樹はそこに踏み入れるのを断念し、林道の端に少し大きめの尖った石を目印として置いてから、車が下って行った方に歩き出した。
十分ほど歩いてようやく県道に出る。山の間を貫いているこの県道自体、夜になると殆ど車は通らない。既に暗くなった県道を右に曲がって少し歩くと、原付バイクで乗り入れた林道を発見し、バイクを取って家に辿りついたのは、和樹が予定していた時間よりも三時間遅い、午後八時過ぎとなっていた。