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crack moon  作者: 蒲公英
9/13

十六夜

請負先から少し凝った仕事が入り、眼も頭も疲れきって、長い時間庭に出ていた。

居間に入れば仕事用のパソコンが、まだ光っている。

外に勤めに出るのと違って、ひとりの気楽さが閉塞感に変わるときもある。

前日に訪れたばかりの涼太は来ないだろうと思いながら、庭にしゃがみこむ。

上手く切り替えの出来ない日もある。


「しゅーこさん、具合でも悪いの?」

早足に庭に入ってきた影に驚いて、顔をあげる。

「どうしたの?」

「友達の家でメシ食ってた。具合悪いんなら、家に入らなくちゃ」

涼太が私の肘を掴み、立たせようとする。

「大丈夫、具合は悪くないの。ちょっと疲れただけ」


家の中に無理矢理押し込まれて、顔色を確認される。

「急ぎの仕事なの?」

「根を詰めてしまっただけ。もう、明日にするから」

USBにデータを落として、パソコンをオフする。

涼太がキッチンで、なにやらパタパタと動いているのが見えた。

「しゅーこさんがいつも飲んでるヤツ、どうやって作るの?あの甘いワイン」

手順を答えながら、またふっと可笑しくなる。

「いいのよ、そんなことしなくて。涼太君は飲めないでしょう?」


「俺はいいの。遊んできたんだから。疲れた上に冷えちゃってるしゅーこさんが優先」

小学生みたいな生真面目さに、吹き出してしまった。

涼太の顔も緩む。何かがほっこりと暖かい。

この感覚は知っている。何年も忘れていたけれども。

これは「相手のために何かせずには居られない」気持ちだ。


「しゅーこさん、何かして欲しいって言わないくせに、『ダメ』は言うんだもん」

して欲しいことなんて、今まで考えもしなかった。

「俺、しゅーこさんに対してすっごく役立たずみたい。自分だけがあーしたいこーしたいってガキ。何かしたいのに」

子供じみた言い分に返した言葉は、けして傷つけるためではなかったのに。

「何かしたいって、ママのお手伝いみたいに言われても」


ざっくりと傷ついた顔の、涼太の動きが止まるのを見た。

詫びなくてはならない。けれど、それは何に対しての詫びだろう?

不用意な言葉を口にしたため?

その不用意さが自分にまで刺さるとは思っていなかった。


「俺がガキだから、しゅーこさんは俺を見てくれないの?」

暖かかった心が、一瞬にして冷たくなる。

「ガキは役に立たない?」

こんな風に正面切って言えることが若いのだと、この子に言って伝わるだろうか?

「ごめんなさい。そんなつもりはなかったの」

こんな言葉は、私に対しても涼太に対しても、何の役にも立たない。


黙ったまま居間に戻り、黙ったまま並んで座る。

涼太の手が髪に触れる。

「そんな顔させて、ごめん。でも、年齢のことはすごく痛い。頑張ったって追いつけないもん」

涼太はやさしい。

何故こんなにやさしくしてもらえるのか、私にはわからない。


「今日寄ろうと思ったのは、満月だから。しゅーこさんがひとりで月見てるだろうと思ったからなんだ」

手をとって、外に出ようと言う。

ショールを肩に掛け、一緒に外に出た。

「庭じゃなくて、道に出て」

手をしっかり握ったまま、涼太が小声で言う。


空を仰ぐと、白い月が中空に輝いていた。

ひびの入らない、満月。

指先に絡まる涼太の手の温度。

なんて美しい月なんだろう。胸が詰まる。


「しゅーこさん、なんで泣くの?」

問いかけられてはじめて、自分が涙をこぼしていることに気がついた。

涼太の心配そうな視線が、私の顔の上に漂う。

手を伸ばしていいだろうか?受け入れてもいいんだろうか。

私に差し出されたものを、私のものだと思ってもかまわないんだろうか。



涼太が私の携帯電話に自分の電話番号とアドレスを残したのは、その晩だった。

「今まで、連絡先も知らなかったって変だよね。来れば居ると思ってて。だけど、しゅーこさんから連絡できなかったね」

自分から連絡するなんて、思いもしなかったことだ。

連絡先ができると、涼太は明るい時間に頻繁にメールを寄越した。

おはよう。友達と昼食中(写真が添付されていたりする)。授業が終わった。バイトがある。

返信はしたりしなかったりだけれど、涼太の生活が目に見えて色をつけ始める。


とても強引に誘われて、夕方の水族館にも足を運んだ。

薄暗い通路で手を握られて、思わず引き剥がそうとすると、「誰も気にしない」と逆に痛いくらいの力が入った。

自分が思うほどに他人は気にしない。理解はしているが、自分が気にしている。

ガラスに映った私たちは、現実がそうであるように、「親子程も年齢が違う」のだ。

涼太の美しい顎のラインを見るたびに、鏡の中の自分の肌を確認するたびに、身にそぐわない服を纏っているような違和感を拭い去ることはできない。

他人の視線よりも自分の感情の行く末が大切だ、なんて強さは持ち合わせていない。


夕方から降り出した雨が本格的に雪に変わった晩、涼太は電車で訪れたにもかかわらず、終電の時間を無視して居間に居続けた。

「これじゃ、しゅーこさんの軽自動車じゃ危ないもんね。泊るしかない」

はじめからそのつもりで、という意図はもちろん感じていたのだが、責める気にはならなかった。

雪は思いの外降り積もり、庭が白く変わる。

外の音はすべて吸い込まれて、私の居間だけが孤立しているようだ。

灯を消してカーテンを開けると、白く光った庭の上に、白い花を枝いっぱいに咲かせた木々がある。

傍らには涼太の呼吸を感じる。


唐突に、幸せだと思った。

このまま時間が止まれば良いと思った。

他人からどう見えるとか、涼太が私に失望する時が来るとか、それはこの時間にはどうでも良いことだ。

ここで時間が氷漬けられてしまえば。

もちろん、そんなことがあるわけはない。


はじめて私の寝室に足を踏み入れた涼太の、満足そうに飲み込んだ呼吸は忘れない。

翌朝目覚めた時に、横に眠る涼太の健康な寝息を聞いたことも忘れない。

目を覚ました涼太が「おはよう」と言いながら、清々とした笑顔でキッチンに入ってきたことも。

もう、それだけで充分だ。


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