十三夜月
自分の使っていた毛布を片付けて、涼太を座らせる。
「もう遅いのに。ご両親も心配するでしょう?」
「飲みに行くこともあるし、友達の家から学校に行くこともあるから」
「連絡くらいはするものよ。お茶を飲んだら、ちゃんと帰りなさい」
窘める口調は、意識したものだ。
では何故家に入れてしまったのか。
その場で「帰れ」と言い捨てて、カーテンを鼻先で閉めることもできたのだ。
キッチンで茶葉をはかり、小さな手鍋に湯を沸かして茶葉を入れる。
ミルクと黒砂糖を入れてから沸騰する前のタイミングに火からおろして、ストレーナーを通す。
手慣れた一連の作業に、少し気が緩んだ。
昨晩のことは忘れてしまえば良いのだ。
若い時には、自分の言ったことに感情が煽られることは珍しくない。
母親と同じ歳の女になど。
涼太の目の前にマグカップを置き、自分は向かい側でラグの上に直接座る。
仕事用の丈の長いフリースのシャツに、スパッツ。
外出する時でなければ、化粧はしない。
涼太の目には、暗い所で見るよりはるかに歳上に見える筈だ。
熱いロイヤルミルクティーに舌を焼きながら、涼太がマグに口をつけるのを見ていた。
若い両親は、彼を大切に育てたんだろう。
姿勢が綺麗で、飲み物を口に運ぶ仕草が卑しくない。
はじめに会った時にも、はきはきと話をする子だと思った。
今まで誰からも、強く否定されたことなどないのだろう。
「しゅーこさん」
名前を呼ばれて、慌てて思考を戻す。
「冗談とか気の迷いとかじゃないからね」
「では、間違い。涼太君の相手は、こんなにおばさんじゃない」
視線に張り付けられる。
涼太が立ち上がるのが見えた。
「しゅーこさんを、おばさんだなんて思ったことない」
座った私の横に膝がつく。
見上げた視線が急に遮られた。
視界を覆う肩の線に気がついた時に、首に暖かい息を感じた。
「しゅーこさんは、女の匂いがする」
首にそのまま唇が触れる。
背筋に沿って何かが駆け抜けた。
逸らすように顔を傾けると、ぐい、と肩が引き寄せられる。
「自分でもわからないんだ。しゅーこさんがいると思うだけで、ここに来たくなる」
手に籠められた力は強引なのに、言葉の響きは哀願だ。
こうなることは知っていて、扉を開けた。
はぐらかすフリをして、自分の意思ではないのだと誰に証明するつもりで?
涼太の舌が口の中を隈なく動きまわる。
ゆっくりとラグの上に横たえられた身体を、服越しに確認されて目を閉じる。
部屋の灯りがついたままだということに気がつく。
シャツの裾から入った手が木綿のインナーを押し上げた時、私の口から出た言葉は「暗くして」というものだ。
これは、了解の言葉に他ならない。
立ち上がって灯りのスイッチを切る涼太の姿が見えないように、両手で目を覆った。
足音が戻り、手が引き剥がされてもう一度、私の唇を割って舌が侵入してくる。
その間に指はシャツの中を動き回り、探していたものを見つけ出す。
びくん、と背が浮く。
勢い付いた手がシャツを押し上げ、涼太の頭が胸に沈んだ。
溜めていた息が漏れる。
自分の指が涼太のシャツを通した背骨を数え始める。
「しゅーこさん」
涼太の声が耳元で掠れる。
性急に動く涼太の背にまわした手の先に、力が入る。
「しゅーこさん」
短い呻き声をあげて、覆いかぶさった涼太の体重を受け止めた。
細い腰、しなやかな筋肉のついた腕。
涼太の髪の中に手を差し込みながら、ふとカーテンに目を留めた。
カーテンを開けたあちら側に、夜の庭がある。
太り始めた月に枝がかかっているだろう。
「しゅーこさんの手は、あったかくならないんだね」
涼太が私の指を、手に握りこみながら言う。
厚手のラグの上で重なり合ったまま、涼太は一言「ごめん」と言った。
どういう意味の謝罪なのかは、知らない。
求めたのが涼太であっても、了承したのは私だ。
服を着終えてグズグズしている涼太の背を、押し出すように勝手口の扉を開けた。
どろり。
中から流れ出してくる感触に顔を顰める。
湯船に湯を張りながら、服を脱ぐ。
何か重大なことをしでかしてしまったような、それでいて当たり前のことをしたかのような
背反した感情が自分をまた混乱させる。
涼太はもう、無邪気な顔で庭に入ってくることはないだろう。
スポンジにたくさんの泡を立てて身体を洗い、湯船に膝を抱えて座った。
私はもう、通りすがりの人の顔で涼太に接することはできない。
年増が若い男を咥え込んで―――
自分の想像ほど、世間が悪意に満ちてはいないことは知っている。
夜の庭に立って見上げる月は、枝に邪魔されて輪郭が途中で遮られる。
今日は月の形を見ていない。
夜半の庭で、月よりもフェンスのあちら側のひょろりとした影を探しそうな自分が見える。
裸の膝に顔を埋めて、身体が暖まるのを待つ。
しゅーこさんの手は、あったかくならないんだね。
まるで虚無を抱いているようだ。
同じ言葉だろうか?
涼太もそう思ったろうか?
そもそも、私は涼太に何かの感情を抱いていただろうか。
連絡先を聞きたいと思ったことはない。
彼が他にどんな顔を持つのか、知りたいと思ったこともない。
夜に私の庭を訪れ、人懐こく私に話しかけてくるだけの若い男の子。
けれど扉を開けたのは、紛れもなく私だ。