弓張月
涼太が庭に訪れなくなって、二週間が経った。年の瀬が近い。
年内の納品がいくつか重なり、買物もネットで済ませると、一日中他人の声を聞くことがない。
仕事中、つけっぱなしのラジオと会話する。
夫がいれば、最低限の会話はあった。
朝の挨拶や夕食の献立、帰り時間の連絡、最後の方では諍いめいたこと。
今まで恋しくはなかった「自分に呼びかける声」を懐かしく感じてしまうのは、涼太が癖を残したからだろうか。
庭で温めたワインを口にしながら、月を見る。
白く光る半分の月に、枝が突き刺さる。
「しゅーこさん、こんばんは」
庭の中から声がした。
「もう、来ないのかと思った」
涼太は、普段にない曖昧さを顔に載せて笑った。
「いろいろ考えてた。彼女と別れたりして、ゴタゴタしてたし」
失恋していたら、私どころではなかっただろう。
学生の頃には友人との話題のトップは「恋愛」だった気がする。
「若いうちには若いなりに、しなくてはならないこともあるものね」
慰めも同意もいらないだろう、そう思った言葉だった。
「いろいろっていうのは、しゅーこさんのことだよ。俺はなんでここに来るのかってこと」
ゆらりと涼太の影が寄った。
まっすぐ私を見る目から、視線が外せない。
今頭をよぎったものが、間違いでありますように。
「お母さんと同じ歳だから、話しやすいんじゃない?」
軽口に聞こえるように祈りながら、一歩下がる。
「しゅーこさんが、呼ぶんだよ。」
「呼んでないわ」
涼太が私にもう一歩歩み寄る。
「呼ばれるから来るんだ」
もう一歩あとじさったら足に木の根がひっかかり、そちらに気をとられた。
「呼ばれるんだよ」
強い力で首を押さえつけられ、強引に仰向かされた。
何を、と言いかけたまま唇が押し付けられ、熱い舌が私の唇に割り込んでくる。
両腕で涼太の胸を押しやろうと力を込めると、逆にもっと強い力で涼太の腕が背に回りこんだ。
舌を絡めとられ強く吸われて、息ができない。
身体の力が抜ける。
首を押さえた手が、そのまま滑るようにうなじを撫で、背筋にゾクリと粟が立った。
緩んだ唇から洩れた溜息は―――
自分が驚くほど、女の声だった。
唐突に腕を離した涼太は、そのまま自分が驚いたように目を見開いた。
「勝手なことを言わないで」
言いかけたところで、隣家のキッチンに灯りが点くのが見えた。
普段なら、もう眠っている筈の時間なのに。
話し声が聞こえてしまっただろうか。
夜に若い男が庭に入ってきている―――これは好奇の対象だ。
「帰って頂戴。あなた、おかしいわ」
言いながら、手にマグを持っていないことに気がつく。
いつ、手から離れたのだろう。
涼太のジーンズには、大きくワインのシミが広がっている。
隣家の手洗から音がする。
「しゅーこさんが、呼ぶから」
もう一度そう言ってから、涼太は庭を出ていった。
駐車場を通り抜け、フェンスのあちら側にひょろりとした影が足早に去る。
足元に転がったマグを拾い上げながら、混乱した頭を整理しなくてはと思う。
土のついてしまったマグを洗い流しながら、涼太の声を繰り返して聞く。
しゅーこさんが、呼ぶんだ。
呼んだだろうか?もの欲しそうな態度で、涼太に接していたのだろうか?
何を欲しがって―――
自分の口から洩れた女の声をもう一度聞く。
濡れた手で、自分の口を押さえた。
そんな筈はない。
そんなことを望んだことは、ない。
布団の上に座り込んだまま、身体を横たえることもできずに夜が明けた。
「柊子ちゃん、夜に庭でお話していた?」
「いいえ」
「じゃあ、誰か通りを歩く人がいたのかしらね」
顔が強張るのを無理矢理笑顔にする。
誰かに迷惑を掛けているわけではないのに。
彼女だって悪意からではない。
子供の頃から知っている私のひとり住まいを案じて、気にかけてくれているだけなのだ。
納品のデータを送り、細かな直しのチェックがないと確認した段階で、パソコンの電源を落とした。
少しだけ眠るつもりでソファに横になり、毛布で身体を包む。
本格的に眠るには、少し早すぎる時間だ。
目を閉じると、深い場所に吸い込まれるような睡眠が来た。
ああ、昨晩は眠れなかったのだ。
涼太の声が深いところから聞こえる。
寒い、と目を覚ますと、もう夜半を過ぎていた。
ストーブは時間超過で消えており、部屋が冷え切っている。
たとえ涼太が庭を覗き込んだとしても、私の姿さえなければ帰っただろう。
少しのつもりでずいぶん眠ってしまっていたのだ。
風が強い。木の枝の揺れを確認するため、厚い遮光カーテンに隙間を作ると、窓の外が揺れた。
「いないのかと思った」
「いつから居たの?」
「一時間くらい前」
そんなに!通りに目をやってしまう。
誰にも見られなかったことを祈る。
「帰らないかも知れないと思わなかったの?」
「十分だけ十分だけって思っている間に時間が経った。寒かった」
涼太は本当に凍えた顔で、途方に暮れたように言った。
「顔だけ見たら帰ろうと思ってたのに」
扉を開ければ何が起こるのか、知らない筈はなかった。
知らない筈はないのに、気がつかないフリをした。
「お茶だけなら、用意するわ。身体を暖めて帰りなさい」
勝手口の鍵を外した。