夕月
天気の悪い日が何日か続き、小雨が霙まじりになった日だ。
ストーブにかけた薬缶からはしゅんしゅんと湯気が音を立てる。
通りは静かだ。
仕事を終わりにすることにしてモニタから目を離し、USBにバックアップをとる。
目の周りをマッサージして、伸びをする。
自分だけで仕事をしていると、時々根を詰めてしまって遅い時間になる。
天気の悪い日は、庭には出ない。
キッチンで茶葉をはかっていると、勝手口から小さなノックが聞こえた。
表札には父の名をつけたままだし、知らない人ならば女のひとり暮らしだとは思わない筈だけれど、こんな夜中に人が訪れることなんて、あるわけがない。
動かずに気配を消した方が良いのか、それとも人が複数いるかのように、テレビなどつけた方が良いのか。
もう一度、ノックがあった。
「どなたですか」
抑えた声で訊くと、思いがけない返事が戻った。
「しゅーこさん、こんばんは。庭には出ないの?」
身体の中から緊張が抜け落ちて、何も考えずに扉を開けた。
「雨が降っているでしょう?こんな冷たい雨の中、外には出ないわ」
うっすらと濡れたジーンズで、涼太は立っていた。
「そうだよね、そうは思ったんだけど」
若い男を家に入れるのに、抵抗がなかったわけではない。
身体をどこも締め付けない部屋着にカーディガン、ざっくりと厚手の靴下。
こんな格好では庭にだって出ない。
居間の隅でまだ光っているパソコンと、その横の床に投げ出した膝かけ。
庭では見えない「生活」が、そのまま晒されてしまう。
けれど濡れたジーンズで凍えた顔の涼太を、そのまま帰す気にはなれなかった。
ストーブの前に座らせ、タオルを渡す。
「雨でもオートバイでアルバイトに行くの?」
「うん、電車だと帰りが面倒だから」
「若いわね、さすが二十歳」
「しゅーこさんて、いくつ?」
「女性に歳を聞くの?でも、内緒じゃないからいいわ。三十八」
年齢を隠す習慣はない。
「俺の母ちゃんと同じだ。うわ、そうは見えない!」
そうか、十八で子供を産めば、こんなに大きな子供がいる計算になるのか。
「若いお母さんなのね」
「そ、高校中退で俺産んだの。親父が頑張ってくれてなきゃ、俺は水子になってたね」
母と同じ年齢、という言葉に少し寂しさを覚えたが、それではと納得もした。
気を許せる相手に思えるのだろう。
身体が温まるように、紅茶の中にブランデイを一滴垂らした。
金色の輪が浮いた。
座っていたって、話題などない。共通点はひとつもないのだから。
「こんな日に寄り道なんかしたら風邪ひくわよ」
珍しそうに部屋の中に視線を巡らす涼太に紅茶の入ったマグを渡す。
「ごめん。本当は、毎日来てた」
涼太は抱えていた膝を、小さく抱えなおした。
「はじめは通りがかりにいればいいなって思ってたんだけど。この頃は毎日、いないかいないかってウロウロしてた。最近雨が多くて、しゅーこさんは外に出てこないし、今日はキッチンに影が見えたから」
長い手足を窮屈そうに折り曲げて、居心地の悪そうな顔をしている。
それを誰かに見られていやしないかと、ひやりとする。
「わからないわ。恋人はいないの?」
「セックスする相手が恋人だってことなら、いる」
溜息をついた。まったくもって理解しがたい。
この男の子は、自分がどうして私の庭を訪れるのかなんて、どうでもいいのだ。
「気になるから」気にして「話しかけたいから」話しかける。
それに対する理由を、自分に問いかけることもしない。
「しゅーこさん、呆れてる?」
「子供だなとは思ってるわ。こんな夜中に、女の家を訪ねるものじゃないのよ。
住んでいるのは私ひとりでも、ご近所が目にすることはあるかも知れない」
「迷惑?」
人懐こい子供が、そのまま身体だけ大きくなっているのだ。
他人の表情を見ることに、長けていない。
「いいえ。話しかけてくれるのは嬉しい。少しまわりに気を配って欲しいだけ」
小さな子供に言い聞かせる口調になってしまった。
翌日は久しぶりによく晴れた晩だったけれど、涼太は現れなかった。
その翌日も翌日も。
もう来ないのかも知れない。
フェンスに目をやりながら、やはり失くし物をした気分になる。
私も、待っていたのだろうか。