眉月
松村涼太の登場は、前回と同じくらい唐突だった。
私は、やはり大判のショールを肩に掛け、サンダル履きで空を見ていたのだ。
「近くを通ったから、ちょっとこの道に回ってみた。会えて良かった」
何故わざわざ?と疑問に思うよりも、住宅街に響くエンジン音が気になった。
「ごめんなさい、エンジン切ってくれる?このあたりは、夜とても静かなの」
素直にキーを回した涼太は、前回と同じ場所にオートバイを停めて、庭に入ってきた。
「おお寒。冬にオートバイなんて、マゾだとしか思えない」
自分のことなのに、軽々と笑う。
「しゅーこさん、こんな夜に庭に出て寒くないの?」
二回顔を合わせただけで砕けた物言いになるのは、若い証拠だ。
「一日中家の中にいるから。時々は外の空気を吸わなくちゃと思って」
「外に出ないの?オトナのヒキコモリ?」
「家で仕事をしてるのよ。買い物と納品にしか外出はしないの」
涼太は私が手に持っているマグに目を留めた。
「それ、暖かいもの?一口頂戴」
友人とどころか、家族とでさえ飲み物をシェアしたことなどない。
どう答えて良いのかわからないうちに、涼太は私の手からマグを引き抜いた。
それから一口飲んで、酒だ、と呟いた。
「オートバイなのに、それではいけないでしょう?紅茶を入れてきましょうか?」
彼は一体、何をしに来たのだろう。
「ちょっと回り道しただけだから、いい。すぐ帰るし」
涼太は私にマグを返しながらそう言った。
「何か御用だった?」
若くて綺麗な娘ならいざ知らず、私の顔を見ても仕方ないだろうに。
「なんでかな。なんとなく、しゅーこさんが毎日庭にいるような気がした」
涼太は笑いながら、もう一度なんでかなと呟いた。
「広い庭だね。ヒトリモノって言ってたけど、住んでるのもひとり?」
「ええ、そう。両親が遺してくれたものなの」
「寂しくない?」
寂しくはないような気がする。
実は、自分でもよくわからない。
静かな住宅地にオートバイの音が響く。
涼太は3日と置かず姿を見せた。
「しゅーこさん、こんばんは」
夜には場違いな明るい声が私に呼びかける。
「バイトの帰りにこの辺を通るの。そうすると、しゅーこさんが庭にいそうな気がして」
毎晩、遠くから聞こえるオートバイの音が私の注意を惹く。
二度三度と続いたある日、隣の家の主婦に声を掛けられた。
「柊子ちゃんの家、最近夜にオートバイのお客さんが来るのね」
ぎくりと心臓が鳴る。
「すみません。仕事が立て込んでいて、夜にバイク便を何回か呼んだんです。ご迷惑でしたか」
貼りついたような笑顔になる。
「ああ、そう。柊子ちゃんは家でお仕事だものね。家の中ばっかりじゃ、旦那さん見つけられないわねえ」
「ええ、良い人がいたら紹介してください」
心にもない近所との会話は、もう苦痛を伴わない。
「しゅーこさん、こんばんは」
その晩現れた涼太に、もう来ないように告げたのは、近所の目の煩さを懼れているだけだと自分でもわかっていた。
「なんで?俺が来るの、迷惑?」
そうじゃない。涼太がここに来る目的はわからなくても、私の元に訪れてくれるのは嬉しい。
近所の人との挨拶や、仕事の申し送りとは違うのだ。
「この辺は年配の方が多いの。ご近所にね、オートバイの音が迷惑だから」
「だってここは公道でしょう?何か言われたの?」
「いいえ、でもそう思うの。涼太君だって、おばさんの顔見たって仕方ないでしょう?」
思いがけない強い視線で、涼太が私を見返した。
「しゅーこさんは、おばさんじゃないよ。俺はおばさんだと思ったことない」
この視線の強さは、何を意味しているんだろう。
「でも、迷惑だったらやめる。ごめん」
涼太は大通りに行ってからエンジンをかけると言って、オートバイを押しながら出ていった。
迷惑だったらやめる。
その言葉は、私に惜しいものを壊した気分を与えた。
赤ワインを温めて、オレンジピールとシナモン少々。
保温マグの中身を少しずつ飲みながら、重なった枝の間の空を見上げる。
雨の降る日は家の中で、少しだけ窓を開けて雨の音を聴く。
一人でいることは、怖くない。
遠くに聞こえるオートバイの音。
もう、来ることはないだろう。
夜に人恋しくなっていたりして、誰でも良いからと訪れていたんだろうか。
「しゅーこさん、こんばんは」
マグを取り落としそうなほど驚いて、声のするほうに目を凝らす。
「何故?」
「向こうの通りに停めてきた。歩くと、確かにここは静かだね」
涼太はのんびりと庭に入ってきた。
「それとも、俺自体が迷惑だった?」
右手にヘルメット、その中につっこんだグローブ。
「迷惑だなんてことはないわ。だけど、何故来るの?」
涼太は少し考える顔になった。
「しゅーこさんが庭にいるかもと思うと、来たくなるんだよ。何を見てるの?」
「空を」
涼太は空を仰いで、枝が邪魔だねと言った。
「枝で切り取った空が好きなの」
「俺は広くて青い空がいいな。夏に北海道にツーリング行った時みたいな」
それが似合う、明るくて無邪気な口調。
私の持っていない人懐こさに圧倒される。
若いだけじゃない。私はこんな風に、他人とかかわりあいを持とうとすることはできない。
「また、来てもいい?この通りにオートバイで乗り入れないから」
「楽しくはないでしょう?」
涼太は少し言葉を探す風だった。
「外から声かけた時ね、しゅーこさんと庭が、すごく似合いに見えたの。なんか小説の中覗いたみたいだった。
だから今、読みかけの本を楽しみに読んでる感じ」
意味を掴み損ねているうちに、涼太は庭から出ていった。