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crack moon  作者: 蒲公英
11/13

臥待月

試験の期間が迫り、涼太の足が少し落ちた時期だった。

本当は、それより前から気がついていたのかも知れないけれど、気のせいにしていた。

生理が、遅れていた。

避妊しないでセックスすれば、妊娠するのはある意味、当然だ。

そのための行為なのだから。

別れた夫との間に子供はできなかったし、なんとなく妊娠しにくい体質なのだと自分で思い決めてしまったいた。


薬局でマーカーを購入し、陽性反応を確認した。

確定するにはもちろん病院に行かなくてはならないが、自分では間違いないと確信している。

子供!涼太の!いや、違う。


私の子供だ。


次に頭に浮かんだことは、「告げてはならない」ということだ。

涼太はその事実を受け取れる力は、まだ持っていないだろう。

産むにしろ産まないにしろ、彼はどちらの結論も、おそらく納得しない。

私だけが選択し、涼太に知らせることなく―――


産まないという選択をした場合、私はこのまま涼太の顔を見続けることができるだろうか?

腹に宿った生命を切り捨てて、何事もなかったかのように今までの生活を続ける。

隠し通すだけの覚悟はできるだろうか?

涼太が私に倦みはじめるまで、または私が涼太を疎ましく感じるまで。

そして、その後には何も残らない。


産むという選択をした場合、今すぐ涼太との関係を終わらせなくてはならない。

彼に「父親」を求めたところで、責任だけを押し付けて心がないがしろになることは、否定できない。

私は涼太と一緒に歩く未来すら、夢見たことはないではないか。

では、父を知らないで生まれてくる子供は、どうだ。

そもそも私は、子供が欲しいと思ったことはあったのか。


最早、どちらにしろ手の中に涼太の残る選択肢はないのだ。

迂闊だったとは思う。

けれど、事実は消えない。

涼太が私を求めた事実として、生命が宿った。

私は充分だと思えるほどの、幸福な時間を過ごしたではないか。

ほんの短い時間だけれど。


経済的には問題はない。

問題があるとすれば、すべて私に関することだ。

私が手を伸ばすべきものがどこにあるか。

世間に対するものもあるし、これから背負うべきものの重さを比較してみたりする。

何よりも、私はどうしたいのか。


私を必要とするものが、私の腹に宿っている。

その連想は、私に甘美な陶酔を与えた。

「いてもいなくても構わない」ではなくて「必要とされる」のだ。

自分の生活を守るだけではなく、他に守るべき責任が生じる生活。

この機会を逃せば、もう一生見ることもないだろう信頼だけの関係。


そして、私の中の女の生理が強く私を結論に導く。


別れた夫に対して「彼でなくては」とは、多分思っていなかった。

涼太が欲しいのか欲しくないのか、私にはわからなかった。

わからないものを掴むよりも、欲しいものに手を伸ばそう。

私は今までそれをして来なかった。すべてが流れるままだった。


ひどくエゴイスティックだとは思う。

高齢の上ひとり親で、豊かな生活はできないかも知れない。

助けてくれる人間もいない中、私だけでは解決できない問題で、動きが取れなくなることもあるだろう。

古い住宅地の閉鎖的な人間関係で、他人の噂話は何より怖い。

たくさんの否定的な予測はある。


それでも、と思う。

それでも、私は結論を出したのだ。

私が今一番欲しいものは、涼太との不安定な時間の継続じゃない。

私でなくては為し得ないことをする。

私の子供を産むという行為は、私にしか出来ない。


涼太の後期試験が終わるまで、待とう。そこで断ち切らなくては。

もしも涼太が私の決定に気がついてしまったら、彼は悩もうとする。

責任がどうこうと言いだすかも知れない。

そんなものは、いらない。


生活の中から涼太の影を消すのは、難しいことかも知れないが不可能ではない。

夫と別れた時のように、何かを残しながら薄くなってゆく筈だ。

両親の死ですら、時がたてば悲しみは薄らいでいったのだから。


涼太は、きっとすぐに忘れる。

若い頃の恋愛は、えてしてそういうものだ。

じきに似合いの歳回りの相手と、未来に繋がる恋愛をはじめるだろう。

話題に共通点のある、もしかしたら同じ目標に向かうことのできる、誰からも不思議に思われない関係で。

そう思うと、胸がチクリと痛んだ。


私は悲しむだろうか?

手にしかけたものから手を離したことを、後悔するだろうか?

夜の庭で、フェンスの向こうに目を凝らす自分が見える。

来ないものを待つ絶望感は知っている。

その絶望感は、予測のできない喜びよりも小さいものなのか。


正しい選択ではないのかも知れない。

ただ、私は決めた。

私の望むことは、涼太との時間の継続よりも、私を生に執着させるものを持つことだ。

私の決定に涼太が横槍を入れるようなことは、させない。


試験の最終日に訪れた涼太がフェンスの向こうに歩いていく後ろ姿を、庭で見送った。

私の目を確認しながら話す涼太に、はじめから誤魔化すことは難しい。

メールの文面は、何度も確認した。明日の昼過ぎに送信する。

空を仰ぐと、何日か後には満ちる月が枝でいくつかに割れていた。

しゅーこさん、こんばんは。

しゅーこさんは、いつも寂しい顔してる。

俺をもっと見てよ。


――ごめんね。

涼太君より大切にしたい人ができました。

もう、来てはいけません。

ごめんなさい。


私から送信したのは、はじめてだった。

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