居待月
「柊子ちゃんのおうち、最近よく人が来るのね」
隣家の主婦に声をかけられて、身が縮まるような思いをした。
二度ばかり涼太が泊っていった後だった。
「柊子ちゃんがずっと一人で生活してるから、心配してるのよ。いい人がいるといいなあって」
「うーん、残念。そういう人じゃないんです。そういう人が居れば歓迎なんですけど」
心にもないことを言う希薄さは、自分を守る壁なのかも知れない。
仕事の打ち合わせのために何度か外出する用事があり、請負先にも顔を出すため、他人と顔をあわせる日が続いた。
ターミナル駅で結婚する前に勤めていた会社の同僚に会ったのは、偶然だった。
「坂口さん?久しぶりだね。今、何してるの?」
仕事中であろう元同僚は、営業の途中だから少しだけ、と私をお茶に誘った。
別れた夫は取引先の社員だったので、離婚したことは聞いているだろう。
仕事の話でもなく、涼太相手でもない、同年代の男性とただの世間話をする機会なんて、持って居なかった。
何人か残っている同僚の消息を聞き、別れた夫が再婚したらしいことも聞いた。
同年代との会話はテンポが合う。なんて呼吸が楽なんだろう。
ひとしきり話をして、妙にすっきりした気分で別れた。
「しゅーこさん、今日K駅に居たでしょう?」
涼太に言われて、涼太もその駅を利用していることに気がついた。
「居たわ。見かけた?」
「声かけようかと思ったら、男が一緒だったから。すごく楽しそうにしてたし」
「若い頃勤めていたところの同僚だったの。久しぶりだったのよ」
涼太の不満げな顔に、口にお茶を運ぶ手が止まった。
「すっごく楽しそうに笑ってた。俺と居ても、あんなに楽しそうにしてない。それに、並んで座ってても不自然じゃなかった」
どう答えたら良いのだろう?
私こそが涼太を取り巻く環境に臆して、涼太の隣を歩くことに怯んでいるのに。
しがみつくように「しゅーこさんと同じだけ大人になりたい」と言う涼太は、あまりにも幼くて痛々しい。
彼が嘆くように、私もまた同じだけの痛みを持っているのだと告げて良いのだろうか?
告げれば涼太を傷付けるだろうことは、理解している。
おそらく関係を続ける間中、それが何かの枷になることを、彼は覚悟していない。
後期の試験が近いからまとめてゆっくりしていくんだ、と涼太が土曜の夜から日曜の夜まで、丸一日私の家にいた日があった。
私が家の中を移動するたびに、一緒についてくる。
「座敷犬じゃないんだから、落ち着いて頂戴」
「犬なら、しゅーこさんに飼ってもらえるのにね」
聞いている音楽も、読んでいる本も違う。
食事の量は私の三倍よりも多い。
古い家の鴨居に頭をぶつけそうになる。
私が驚くたびに涼太は愉快そうに笑った。
「まだ、覚えてもらうことがいっぱい。俺も覚えなくちゃならないことがいっぱい」
他の目のない家の中は、穏やかでやさしい時間が過ぎる。
「しゅーこさんは、怖がりなんだね」
ふいに言われた。
「何か言うたびに、俺がどんな反応するのか顔を確認する。それで俺が何か言うと、他の意味があるんじゃないかって顔する」
ぼんやりして、他人の話を聞いているかどうかわからない。
別れた夫は私にそう言っていたのに、涼太にはそうは見えないのか。
「俺、しゅーこさんが思ってるよりも頑丈だから」
「見せて」
明るい時間の居間で胸を開かれて、声を失う。
「俺がしゅーこさんを好きなのに、しゅーこさんが俺の顔色見るのはおかしいよ」
反論を吸い取られ、腰を絡めとられて逃げ出せない。
おまえは何をしているのだ、高い所から声がする。
少しの間見逃して欲しいと懇願する相手は、誰なのか。
家の中だけで満たされる気配は、それ以上の何も必要としない。
留まる筈のないもの。
狭い空間だけの完結はすぐに亀裂が入るものだと、知っているのは涼太の方ではない。