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crack moon  作者: 蒲公英
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不定期に更新します。

祖父が残した広い庭は、盛大に花びらの散る大きな木が何本も植えられて、夏には涼しい木陰を作る。

秋深くにはすべての葉を落とし、満月の日の夜半、月は重なった枝越しにひび割れる。

この月を見上げる者は、私しかいない。


かつて夫と名乗る人は居た。

「おまえを抱いても、まるで虚無を抱いているようだ」

彼はそう言って去っていった。

追わなかった。否定もしなかった。

自分の中ががらんどうなのは、私自身よく知っていたから。

何かに強い関心を持つことなどできなかった。


死に対する憧憬など持ってはいなかったが、生に対する執着も希薄な気がしていた。

それは幼い頃からの感覚で、自分が普通でないのだと思ったことはないし

書物で読むような強い怒りや、きらめくような恋は現実にはないものだと思っていた。

「彼に捨てられたら死んでしまう」

そう言って泣く友人を見て、驚愕したことを覚えている。

コノカンジョウハ ニンゲンノ モチウル カンジョウダッタノ カ


夫と別れたことに関して、唯一安心したことは両親が知り得ないという事だった。

仲の良い夫婦だった両親は、まだ私が結婚生活を継続している最中にたてつづけに亡くなった。

一粒種の一人娘だった私は、とても愛されて育ったし幸福だったと思う。

父が亡くなり、翌年に母が同じ病を得た時には、やはり辛かった。

葬儀の最中、感情は薄紙のかかったような朧さで、泣くこともできなかった。

夫はそれを「鈍い」と言った。

両親の部屋を片付けながら、まだそこに居るような気配を思い「お母さん」と呼びかけた私に対して。


相続した家に住もうと言ったのは、夫だった。

あの木を伐ってしまえば、風通しも良くなるし――

祖父の植えた桜や木蓮を、私に伐ることはできない。

どちらにしろ、彼はもういない。

広い庭には似つかわしくない小さな家に、住み続けているのは私一人だ。


もう2度とセックスなどすることはないだろうと思ったのは、離婚後何年も経ってからだった。

気がつくと四十に手が届くほどの年齢で、ぼんやりと過ごしているうちに時間だけがまわっていく。

住まいはあるし、早くに亡くなった両親の僅かな保険金と、それよりも僅かな在宅の仕事で

生涯の間食べていくことはできる。


家の外に勤めを持たない私は、ほとんど他人の顔を見ることもなく、喋ることもしないままに一日が終わる。

寂しくないかと問われることは、ある。

思い出したように訪れる古くからの友人が、持参した料理を小鉢に移しながら言う。

「まだ若くて綺麗なんだし、恋愛くらいしなさいな。私みたいに所帯じみてないし」

そもそも、私は何故結婚などしていたのだろう。

まわりが次々と結婚していく中、私も同じように申し込んできた相手と交際して結婚した。


生活は安定し、彼は優しい夫だった。

だから、それが幸福なのだと思っていた。

朝食を作って送り出し、自分の仕事を済ませて夕食の支度を終えた頃、彼が帰宅する。

「おまえはクールだね、帰ってきても当然の顔をしているだけだ」

お帰りなさいと飛びつけば、彼は満足したのだろうか。

「俺のことは好きか」

「結婚したじゃない」

「好きで結婚したのかと聞いてるんだ」

これは、結婚生活の最後のほうの会話だった。


私なりに、夫を愛していたと思う。

けれど今思えば、彼でなくてはいけないという強い感情を抱いたことはなかった。

それは生活に必要なものだろうか?

確かに両親の首をすげ替えることは考えられないが、友人がいつの間にか友人になるように

何度か肌を合わせた男女が夫婦になるのは、ごく自然の流れなのではないか。

終わってしまった関係を、思い返すのは詮無いことだけれど。


理解できるのは、彼が「私を気に入らなくて」出ていったということだ。

それについて、彼を恨んだり憎んだりはしていない。

彼が苦しそうな顔をしているのを見ていたし、それを私はどうすることもできなかった。

そういうことだ。


夜に庭に出る習慣がついたのは、どれくらい前だろう。

ひとつポツンとたてたガーデンライトの横に立ち、紅茶の入ったマグカップに唇をつける。

夏にはよく茂った葉を見上げ、冬には月の方角を確認する。

ウェブ・デザインの仕事をしているので、疲れた目を休めるためでもある。

私に造園の才能はないらしく、木は祖父が植えたままで、両親がたくさんの花を咲かせていた花壇は

だんだんとみすぼらしいものになってきている。


秋が深くなっていた。

残り少ない葉は、梢でかさこそと揺れる。

明日も、朝一番で通りに落ちた葉を掃き集めなくてはならない。

田舎でもなければ都会でもない、この地域で暮らしていくためには、それなりの気遣いがいる。

「離婚したの?」

そんな風に不躾に訊ねてくる人はいなくとも、女の一人暮らしは行き届かないと言いたがる人がいることは知っている。

生まれ育ったこの地で、顔を隠して生きていくことはできない。


大判のショールを肩に掛け、サンダル履きで庭に出る。

まるで童話のおばあさんのようだわ、と自分の身拵えが可笑しくなることもあるけれど

この庭は私一人のもの、夜半に覗き込む人などいない筈だ。

古い住宅街の夜は早い。

家々の灯りは八割方消えている。


「あのう、すみません」

フェンス越しの声が、私に向けられたものだと気がつくのに時間がかかった。

「すみません、ちょっと」

若い男の声は、私に向かって呼びかけていた。

「何か、御用ですか」

フェンスに寄った私の目に映ったのは、オートバイのハンドルに手をかけた、ひょろりとした姿だった。


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