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FBI彼の事情 大使館令嬢の事情

作者: うめばやし
掲載日:2026/11/08

登場人物

アリシア・ティゲット・・・・・・トワイエ公国出身。ジョージタウン大学の学生。二十歳。

ジャック・ウェイバー・・・・・・FBIシニア(上級)捜査官。三十代。

カート・・・・・・ジャックの同僚。ベテラン捜査官。

サリー・・・・・・入局四年目の新人捜査官。

チャールズ・ティゲット・・・・・・アリシアの父。トワイエ公国大使。

その日、FBIシニア捜査官のジャック・ウェイバーは、マサチューセッツ・アベニュー沿い、デュポンサークルにほど近いある大使館の前に立っていた。

いつも以上に念入りにアイロンが掛けられたグレーのスーツ、普段の現場では履かない飾り気のない黒いローファー。時間ギリギリまで整えた髪。

手に提げた袋は、職場の売店で間に合わせたものだ。

周囲の目から見れば、そのガチガチに緊張した姿は、初めてガールフレンドの実家を訪ねる若者のようだった。


少し離れた場所に停まった、無骨な黒いSUV。その車内から、ジャックの様子を窺う男たちがいた。

「班長、ガッチガチに緊張してないっすか?」

若い男――サリーが、フロントガラス越しに面白そうに身を乗り出す。

「当たり前だ」

運転席のベテラン、カートが呆れたように応じた。

「いくら小さな国とはいえ、あそこは外国の領土だぞ。携帯もポケベルも通じないかもしれない。万が一のことがあっても、俺たちは助けに飛び込めないんだからな」

「俺だったら絶対に断りますけどね」

「バカ言え。ボスの直命だ、断れるわけないだろう」


数日前、ジャックは直属のボスのデスクに呼び出され、聞いたこともない国の大使館からの招待状を突きつけられた。

「事情によっちゃあ断ってもいいが、一個人の行動で外交にヒビが入っても困るんでな。――で、心当たりは?」

そう聞かれても、ジャック本人にもさっぱり理由が思い当たらない。

もし、FBIの職員を取り込んで情報を得ようという画策だとしても、一介の現場捜査官にすぎない自分が選ばれた意図が分からなかった。

「理由は、と聞かれましても……」

歯切れの悪いジャックの前に、ボスが招待状に同封されていた上等な紙質の便箋をスッと滑らせた。

「これによるとだ。『娘を助けてくれたお礼に、ぜひお茶にご招待したい』と、大使の直筆サイン入りで書いてある。本当に心当たりはないか?」

「いや――」

ない、と答えようとしたその瞬間、二、三日前の出来事がふっと脳裏をよぎった。


日課のジョギング中、ポトマック川を渡ってジョージタウンに入り、フェリーターミナル近くに差し掛かった頃だった。

若い女性が二人の男に囲まれ、困惑している。ジャックの中で、職業的な勘がアラートを鳴らした。

――ただの痴話喧嘩か、それとも。

通りすがりを装い、ペースを落として聞き耳を立てる。

「だからさ、案内してあげるって」

「け、結構です」

「遠慮するなよ~」

女性が明確に誘いを断っているのを、ジャックは聞き届けた。二人の男が一人の女性に無理を強いているのは明らかだ。

助けるべきか。

そう思ったときには、すでに足は引き返し、男たちの間に割って入っていた。

「何か困ってる?」

ジャックの声に、女性が弾かれたように表情を和らげた。

「何だよおっさん。邪魔するなよ」

男一人の反発に、ジャックは冷徹に観察を続ける。これは、ただのエスコート役を気取る男の態度ではない。

「君たちに言っているんじゃない。お嬢さんに、だ」

ジャックは男たちを無視し、彼女へ視線を向けた。

映画から抜け出してきたような、品の良いプレッピーファッションの女性。二十歳そこそこだろうか、大学生らしい真面目そうな佇まい。

男達が興味本位から声を掛けたとしても、女性を怯えさせるのは看過できない。

ジャックはごく自然な足取りで、彼女と男たちの間に割って入った。

「あぁ? おっさん――」

まだ三十そこそこの自分を「おっさん」呼ばわりした男たちが色めき立ち、凄もうとした瞬間だった。

ジャックの目つきが変わった。

完全にプロの目だ。眼光の変化と同時に、男たちの間にピリついた、近づき難い空気が膨れ上がる。182センチの均整の取れた体躯が、数字以上に大きくそびえ立つように見えた。

「――ちっ、シラけた。……行こうぜ」

圧に呑まれた男たちは、精一杯の捨て台詞を吐き捨てて足早に去っていった。

――バッジを見せずに済んだな。

彼らが人混みに消えていくのを見届け、ジャックは深く息を吐き出して、背後の女性へと振り返った。

「大丈夫かい?」

彼の声に一瞬だけ身体をすくませたものの、すぐに安堵の表情を取り戻した彼女は、小さく肩を上下させて息を整えた。

「あ、ありがとうございます」

鈴を転がすような、軽やかで美しい声だった。

わずかに残る独特のイントネーションからして、どうやら異国からの観光客のようだ。せっかくの旅先であんな不届き者に絡まれるとは。気の毒に、とジャックは思う。

「観光かな?」

「え? ええ……」

助けられたとはいえ、見ず知らずの図体のデカい男だ。気さくに話しかけられても警戒するのは無理もない。

「この辺りは昼間ならまだ安全だけど、君のような綺麗な子が一人で歩くのはお勧めしないな。さあ、あそこのショッピングセンターの中なら安心だ」

努めて柔らかな声を心がけながら、そちらの方へと促す。

「あ、あの……DCに来て、まだ間もなくて……」

「それなのに、いきなりあんな連中に捕まるなんて運が悪かったね。でも、ここの人間が全員ああだとは誤解しないでほしいな」

「ええ、それはもちろん」

ショッピングセンターまでの、ほんのわずかな距離。交わされたのは短い会話だったが、ようやく緊張が解けたようで彼女の横顔にふっと笑みが浮かんだ。

控えめではあるが、小さな花が咲いたように可憐な笑顔。

ジャックは歩きながら、思わずその横顔に見惚れてしまった。

初めて会ったはずの少女なのに、なぜか――。


ショッピングセンターの前まで来ると、ジャックはアームホルダーからオフィスの代表局番と自分の名前が刷られた名刺を一枚、彼女に手渡した。

「もしまた困ったことが起きたら、地元の警察にこの名刺を見せるといい。きっと親切にしてくれるはずだから」

彼の言う通り、FBIの名刺を突きつけられれば、ワシントンDCの市警といえども丁寧な対応をせざるを得ないだろう。

そこまで計算して渡したのかは定かではないが、少なくとも、これで自分が怪しい男ではないという証明にはなったはずだ。

「じゃあ、俺はここで――」

「ありがとうございます。FBIの……ジャック・ウェイバー、さん?」

「捜査官だ。一応ね」

彼女が名刺の文字をなぞるように読み上げるのを背に、ジャックは片手を軽く振ってその場を離れた。

その後は、いつものようにリンカーン記念堂まで走って折り返した――ただ、それだけの出来事だったはずだった。


「……どうやら、覚えがあるようだな」

ボスが探るような目を向けた。

覚えがある、というよりは、今の今まで忘れていただけだ。とびきりの美女というわけではないが、可憐な笑顔が少しばかり印象に残っていたのは確かなのに、

完全に記憶から抜け落ちていた。我ながらどうかしている、とジャックは内心で苦笑する。

「あ、いえ……ちょっと忘れていたというか…」

ジャックは頭を掻きながら、事の成り行きを掻い摘んで話した。

「なるほどな。"警官"として、ただ当たり前に親切にしただけ、か。しかし、だ」

ボスはデスクの上で指を組んだ。

そうなのだ。ただ困っている一般市民を助けただけなのに、わざわざ個人の名指しでお礼をしたいとはどういうことなのか。それも一国の特命全権大使が、だ。

抱え込みを疑われても仕方がないし、最悪の場合、ハニートラップの線だってあり得る。

「どのみち、正規のルートを通しての招待だからな。裏で妙な画策をしている可能性は低いと思うが……そういう理由なら尚更、行ってもらわないと困る」

「……は?」

「お前は政府職員だ。外国大使からの正式な招待を、個人の都合で無下に断るわけにはいかん。万が一断ってみろ、外交問題に発展しかねんぞ」


確かにあの子は可愛かった。友人として再会する機会ができたのは、正直に言えば少し楽しみでもある。

――だが、それとその父親から直々にアフタヌーンティーに招待されるのとは、完全に別問題だった。

彼がガチガチに緊張しているのには、それだけの理由があった。

外交問題という重圧に加えて、外国人との接触における『事前・事後報告書』を初めて作成せねばならないという、気の遠くなるような事務手続きの面倒くささ。

さらに言えば、ただのお礼のつもりだった彼女側に、FBIによる要らぬ身元調査が入った可能性もある。そのことへの不満を、父親である大使からぶつけられるかもしれないのだ。


ジャックは覚悟を決め、大使館の正面玄関の重い扉をくぐった。

あらかじめ訪問を告げられていたセキュリティによって、厳重な金属探知機と念入りなボディチェックが行われる。

銃は外で待機しているカートたちに預けてきていたが、携帯電話やポケベルまで身の回りから没収されると、どうにも心もとない。

安全確認が終わり、今度は別の職員が静かな足取りで彼を先導した。

廊下の奥、応接室へと続く白い両開きの扉。その片方が、静かに開け放たれた。

扉が開くのと同時に、長椅子から一人の男性が立ち上がった。上等な生地のスリーピースを纏った紳士――おそらく大使その人だろう。にこやかな笑顔で歩み寄ってくる。

その隣には、小さな花柄のワンピースを着たあの少女が、遠慮がちに佇んでいた。

「ようこそ、トワイエ公国へ。私は大使のチャールズ・ティゲット。こちらは娘の――」

「アリシア・ティゲットです」

――アリシア。良い響きだ、と心の中でその名を繰り返した。

「初めまして、大使。ミス・ティゲット。ジャック・ウェイバーです」

人の良さそうな主(あるじ)とは対照的に、表情はどうしても硬くなる。

「突っ立っているのも何だ、どうぞ座って」

勧められるままに向かい合わせの席へ着くと、絶妙なタイミングでテーブルに紅茶のセットが調えられた。

途端に、気高い芳香が室内を満たす。そこで初めて、部屋の装飾が驚くほどシンプルであることに気がついた。

豪奢に活けられた大ぶりの花瓶からさえ、香りは漂ってこない。だからこそ、この紅茶の薫香が際立つのだろう。

妙な部分に思考が割れるのは職業病だなと、一人内心で呆れつつ、何気なく入ってきた扉の方へ視線を戻した。

――そこには、二メートル近い大男が気難しそうな顔で直立していた。

間違いなく警護官だ。こちらが妙な動きを一つでも見せれば、瞬時に飛びかかられ、腕の一本や二本は容易くへし折られるに違いない。

「大使、本日はお招きいただき光栄です。――こちらは、つまらないものですが」

背後の大男を意識しつつ、手土産の手提げ袋をテーブルへ差し出した。

「これは……。こちらは純粋なお礼のつもりでお呼びしたというのに、逆に気を遣わせてしまって申し訳ない」

「いえ、一応、内部規約でそのように決まっておりますので――」

言った直後、内心で激しく後悔した。

――馬鹿か俺は。もうちょっとマシな言い方があるだろう。

連邦職員の規約により、業務内外を問わず一度に受け取れる贈答品は二〇ドル、年間でも五〇ドルまでと厳格に定められている。

これを超える接待や贈り物は、後日何らかの形で相応の『お返し』をしなければ、最悪の場合は賄賂と見なされかねない。

目の前の最高級アフタヌーンティーの価格を逆算し、胃のあたりをヒヤヒヤさせながらも、差し出した手を今さら引っ込めるわけにはいかなかった。

「では、ありがたく頂戴しよう。……ほう?」

大使は、袋から覗く品に目を細めて取り出す。

現れたのは、大きなFBIのロゴが入ったマグカップとベースボールキャップ。我ながら絶望的にセンスがない。

職場の売店にはそんな悪趣味な土産物しか置いていなかったのだ。

一般の観光客には大ウケだろうが、大使のような上流階級の家庭には恐ろしく不釣り合いだ。

ああでもないこうでもないと売店で頭を抱えた時間が、すべて大失敗に思えてくる。

「これは従弟のヨセフが喜びそうだ。そう思わないかい、アリシア」

主がキャップを掲げて破顔したのを見て、ようやく胸の内で安堵の息をつく。

「ええ。でも、これはあげないわ」

少女がロゴ入りの無骨なマグカップを、愛おしそうに両手で包み込んで微笑んだ。

テーブルの上の繊細な白い磁器が圧倒的に似合うはずのその手が、どっしりとした灰色の陶器を大事そうに持っている。

気を遣ってくれているのか。それとも。

まさかな、と浮つきかける思考をすぐに打ち消した。


そこから三十分ほど、トワイエ公国の話や、少女がジョージタウンの大学生であることといった、他愛のない会話が交わされた。

こちらの職務に関する話題はほとんど出ない。主が意図的に避けたのだろう。さすが一国の外交官というべき配慮だった。

扉がノックされ、先ほどの職員が顔を覗かせる。

「大使、本国からお電話が入っております」

「ああ、分かった」

主は深い息を吐き、名残惜しそうに腰を上げた。

「失礼、どうやら仕事の時間だ。……いや、実に楽しい時間だったよ」

「いえ、こちらこそ光栄でした」

固い握手を交わし、スリーピースの後ろ姿が応接室を後にした。

部屋に残されたのは、自分と、少女と、あの不気味な巨漢の警護官。

――気まずい。

立ったまま、このまま座り直すべきか迷っていると、対面の彼女がスッと立ち上がった。

「ごめんなさい。父が話を大袈裟にしてしまって」

「え? いや、そんなことは……。貴重な経験ができて、こちらこそ」

申し訳なさそうに眉を下げていた彼女の顔が、悪戯っぽく、スッと晴れやかな笑顔に変わる。

「うんと小さい子供の頃ならともかくね。中学生や高校生の時、お友達やその親御さんを大使館に招待すると、みんな今のあなたと同じくらいガチガチに緊張しちゃうの。いつも気の毒に思っていたのよ」

リラックスしているように努めていたつもりが、完全に最初からお見通しだったのだ。

その事実を知った瞬間、張り詰めていた肩の力が、逆にふっと抜けていくのを感じた。

「さっきの電話、きっと嘘ね」

「え?」

「元々、長々と引き留めるつもりはなかったのよ。でも、お開きをお客様のあなたから切り出すのは難しいでしょう?」

外交官としての徹底したスマートな作法に、内心で舌を巻いた。こういう世界もあるのだな、と。

「……参ったな。FBIで叩き込まれたどんな交渉術より、大使の方が一枚上手だったようだ」

「ふふっ」

辞去する絶好のタイミングを得て、ホッとしながら帰り支度を始めた。すると、

「――あの、折り入って、お願いがあるのだけど」

少女が一歩、こちらへ歩み寄ってきた。

「まだ大学に編入したばかりで、この街の出身の友達が少なくて。もし良ければ……今度、街を案内してほしいの」

「え?」

予想だにしない申し出に思わず動きが止まる。

「あー……いや、それは……」

さて、どう応えたものか。気のせいか、背後の巨漢からの視線が先ほどより明らかに険しさを増している。

「……待ってくれ。この間は、一人で歩いていたんじゃ?」

「いいえ。そこの『ゴライアス』と一緒だったわ」

「ゴライアス?」

名指しされた大男は、返事の代わりに低く重い咳払いをした。

「彼の仕事上の名前。守ってくれるのはありがたいけれど、いつでもどこでも一緒だから周りの人たちが凄く気を遣うのよ。

あの子はちょっと特別で、変な子だって。それに、彼は一緒に洋服を選んでくれるわけでもないし。だから、この前はやっと撒いて――」

なるほど、と得心がいった。絵本の騎士のように、常に守護者が付き従っているのが嬉しいのは、現実世界ではあり得ないというわけだ。

「でも、どうして俺――いや、私のような男に? 他に新しく雇えば……」

「警護が欲しいんじゃなくて、一緒に楽しんでくれる友達が欲しいの。あなたなら、FBIだから身元も信用できるし」

若く美しい女性から、身長差も相まって上目遣いで見つめられると、つい良い返事をしたくなる。だが、背後の巨漢から突き刺さる眼光がそれを許さない。

「無茶なお願いなのは分かってる。でも、見知らぬ誰かと歩き回るよりは、父も安心だと思うの」

単なるお嬢様の我が儘なのか、それとも遠回しのアプローチなのか。

「……今すぐ返事を頂戴とは言わないわ。もちろん、断ってもらってもいいの」

お嬢様、大男、そして提出せねばならない書類の山。その三竦みに頭を抱えながら、気づけば手元のメモ用紙に自らの連絡先を書き込んでしまっていた。

個人の電話番号とメールアドレスを記した紙を渡すと、パッと花が開くような笑顔が弾ける。

――その笑顔はずるいだろう。

「じゃあ、こっちは私のね」

悪戯っぽく笑いながら、こちらのジャケットのポケットに小さなメモを忍ばせてきた。


こんなこと、外の車内で待っている同僚たちや、上司になんと報告すればいい。いや、それ以前に、いい大人が二十歳そこそこのお嬢さんと個人的に連絡先を交換するなど、倫理上、大問題ではないか?

ただお礼のお茶会に招待されただけのはずなのに、どうしてこうなった。もしかして、本当にハニートラップに嵌められたのだろうか。

傍から見れば、愛想笑いを浮かべたつもりの顔は、限界まで引き攣っていたに違いない。


セキュリティに預けていた携帯電話を受け取り、大使館の重い正面玄関を出た途端、せき止めていた疲れが一気にどっと押し寄せてきた。

入る時はあれほど背筋を伸ばしていたというのに、まるで十歳は歳を食ったような重い足取りで、同僚たちの待つSUVの後部座席に滑り込んだ。

「お疲れ。……ん? なんか急に老けたな」

運転席からの労いの言葉に、助手席の若手が吹き出す。いつもならすかさず怒鳴り返しているところだが、そんな元気は微塵も残っていなかった。

「当たり前だ。向こうは一国を代表する大使閣下で、こっちはただの一般公務員。その上、ボスからは『外交問題に発展させるな』と直前にお達しだ。緊張しない方がおかしいだろう」

「それにしちゃあ、いくら何でも疲れすぎじゃないか?」

「実際に行っていないからそんな呑気なことが言えるんだ。戻ったらすぐに『事後報告書』を書き上げなきゃならんと思うとな……」

ぐったりとシートに背を預け、きつく締めていたネクタイを緩める。そこへ、追い打ちをかけるように助手席の若手が身を乗り出してきた。

「そういえば大使のお嬢さん、お若いんですよね? どうでした? やっぱり美人でした?」

「――――」

「痛っ!」

無言のまま、その頭を後ろから手ですぱんとはたいた。

いつもなら「任務に関係のないことを聞くな」と言葉を添えて一蹴しているはずだった。動揺した胸の内を見透かされたような後ろめたさから、思わず先に手が出てしまったのだ。

「おいおい、よせ。彼はプロ中のプロだ。お前みたいな不謹慎な動機で動いてるわけじゃないんだ」

運転席の相棒が若手を窘める。

「俺だって四年目ですよ。そのくらい弁えてますって――」

バックミラー越しに交わされるいつものふざけた掛け合い。普段なら間違いなくそこに皮肉の一つでも乗せて加わっていただろう。

しかし、どうしてもその気になれなかった。

この胸のざわつきの原因は、果たして本当に疲れのせいだけだろうか。

ジャケットのポケットの底、忍ばされた一枚のメモを無意識のうちに指先で強く握りしめていた。


広域指名手配特捜班は、その名の通り重要指名手配犯の追跡を専門とする部署だ。

逃亡中の手配犯がどこそこへ現れた、という情報が入れば瞬時に全国へ飛び立つ。その時以外はワシントンDCのオフィスで待機し、

作戦を練ったりデータの分析に明け暮れているため、他の部署に比べれば比較的時間に余裕があるはずだった。

――とはいうものの。

事前報告書に続き、今度は事後の『接触報告書』の提出。初めて扱う不慣れな書類に四苦八苦している身にとっては、いくら時間があっても足りないようなものだった。

『【対象者はアメリカ政府への敵対心、または情報収集の意図を示したか】――無し。』

『【今後の接触予定は】――無し。……いや、未定、か。』

『【個人的連絡先を渡した、または渡されたか】――……。』

画面の項目を前に、タイピングする指が止まる。

壁の時計の針は、とうに退勤時間を過ぎていた。上司も同僚たちも、残業する彼の背中を順に叩いてすでに帰路に就いている。

連絡先の交換を隠蔽し、万が一あとから露呈した場合、減給処分どころの話では済まない。ここはプロとして正直に報告すべきだ――。

ひとつ重い息を吐き、セキュリティ部門宛てのオンライン申請書の『送信』ボタンをクリックした。


アーリントン墓地の近くにあるアパートに帰り着いたのは、夜の九時近くだった。部屋に入るなり、そのままベッドへ倒れ込む。

――今日一日で、一体いくつ歳を取っただろう。

仰向けになり、ジャケットのポケットから私用のスマートフォンを取り出した。画面を見ると、一通のメールが着信している。

勤務中は私物をロッカーに仕舞い込まねばならず、夜まで連絡に気づけないことが多いのは、この職務の明確な欠点だった。

同じような業界の相手なら納得もしてくれるだろうが、一般企業の恋人を持つと、これが原因で破局を迎えるケースも少なくない。

一体誰からだろうと、件名を開いた。

差出人は――例のお嬢さん、アリシア。

――画像付きか?

何気なくタップして開く。

最初に目に飛び込んできたのは、机の上に置かれた、あの無骨なFBIロゴ入りのマグカップだった。本当に使ってくれているのだなと、少しだけ口元を緩めた次の瞬間。

マグの傍らに置かれた鏡のなかに、照れくさそうな笑みを浮かべ、スマートフォンを構えて撮影している彼女の姿が映り込んでいるのを見つけた。

自室で撮影したのだろう。部屋着の襟元までもが覗いている。

「うお……!?」

驚きのあまり、手元が狂って端末を顔面に落とした。鼻頭に走った痛みに耐えながら、心の中で絶叫する。

――無防備すぎるだろう、おい……!

格好が、ではない。知り合って間もない男に対して、自室で寛ぐ姿を写真を送ってくるその行為そのものが、防犯意識的にヒヤリとさせられる。

……と同時に、男としての理性を揺さぶるには、あまりにも破壊力が有り過ぎた。

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