聖女様は今日も猫をかぶる。ただし俺は、その下の本音を知っている
ここは、王立ルミナス魔法学園。
生徒会室には、絶対に逆らってはいけない人間が三人いる。
この国の第一王子にして生徒会長、アルベルト・フォン・グランツ。
王国騎士団長の息子にして武闘派副会長、ガイウス・バルド。
そして、聖女の称号を持つ公爵令嬢の副会長、セシリア・ルナ・エヴァレット。
特に最後の一人については、誰もがこう、評価する。
『あの方ほど、清らかで優しく、慈愛に満ちた女性はいない』
彼女の容姿は、長い銀髪に澄んだ青い瞳をしており、花のように微笑む姿はまさに聖女そのものだ。
それだけでなく、困っている生徒には必ず手を差し伸べ、争いが起これば双方の話を丁寧に聞いた上で解決に導く。
傷ついた者がいれば惜しみなく癒やしの魔法を施す。外見だけでなく、内面までも聖女の名に相応しい人物なのだ。
教師たちからの信頼も厚く、下級生たちからは憧れの的として尊敬されている。
「……あ、しまった」
俺、ノア・フェルナーは、本日不在の会長の机に頼まれていた書類の束を置いた拍子に会長愛用の羽根ペンを迂闊にも落としてしまったのだ。
俺は、はぁ〜とため息をついた。
現在、時刻は午後四時半。
いつもは誰かしらの話声で賑やかな放課後の生徒会室が静まりかえっている。
そう。今この部屋には俺一人しかいない。
会長は政務のため今日はもう学園には来られないし、副会長のガイウスも騎士科の連中との集まりとかで出かけてしまった。
もう一人の副会長であるセシリア様も先ほど、救護室の先生から、相談したいことがあると言われて、出て行ってしまった。
ここで、いまさらながら俺について説明すると、俺は4人目の生徒会役員であり、その役職は書記である。
生徒会に名を連ねていると言っても、他の三人と違って、完全なモブ的存在である。
会議の議事録をまとめ、予算申請書を整理したといったお忙しい御三人様に代わって雑用を一手に引き受けている。
俺の家は男爵家だ。家格も低いが、魔法の才能が特段あるわけでなく平凡。剣術についても騎士科の一年生にすら勝てるか怪しいレベルだ。
そんな俺が王族や公爵家の令嬢、騎士団長の息子と同じ生徒会にいる理由は、ひとえに筆記試験の成績がよく、どんな雑用も引き受ける腰の低さだと思う。
世の中、何が重宝がられるか分からない。
「よいしょ……っと」
会長の立派な椅子を引き、誰もいないのは承知の上だか、なんとなく不敬にならないよう断りを入れた後、机の下に入り込む。
羽根ペンは、意外と思った以上に転がってしまっていたようだ。机の脚の奥まで転がっていた。
俺は精一杯に手を伸ばした。
あと少しで手が届きそうだ思ったその瞬間。
「ただいま、戻りました」
鈴を転がすような、柔らかな声がドアの方から聞こえた。
セシリア様だ。間違えなく彼女の声だった。
先生とのお話はもう終わったのか。
俺はペンに手を延ばす動きを止めた。どうしよう。
「……あら?」
扉の向こうで、小さな声がした。
「誰もいらっしゃらないのかしら?」
コツ、コツ、と上品な靴音が近づいてくる。
俺は机の下で息を殺した。
何故かって?
理由は自分でも分からない。
俺が潜り込んでいる机は、生徒会長専用の執務机である。
天板が広く、側面には重厚な装飾板がついている。椅子の脚と書類棚が邪魔をしている。
四つん這いで頭から突っ込んでいるので、出るのも一苦労だ。
もちろん、頭をぶつけて引き出しを壊そうものなら。その弁償額を考えただけで恐ろしい。
そして、セシリア様はあっという間に机のすぐ横まで来てしまった。
下手に動いて音がしたらひどく驚くだろうと思案している間に明らかに出ていくタイミングを逃してしまった。
しかし、俺みたいな書記ごときが突然、机の下から現れて清楚な公爵令嬢聖女様を驚かすなど恐れ多い。
そしてなぜ机の下にいたのかについて、じつにくだらない説明しなければならないのも情けない。
そんなわけで、俺は決断した。
しばらくこのまま隠れていよう。そうすれば、そのうちに立ち去ってしまわれるだろう。
彼女が用事を済ませて出ていったあと、何食わぬ顔で自分に席に着けば良い。
完璧な作戦だと思われた。
セシリア様は、机の上に何かを置く気配がしたが、なかなか立ち去ろうとしない。
そして、深く息を吐いた。
「…………」
沈黙。
俺も息を止めている。
「……あー、クソが」
俺は自分の耳を疑った。
今、聞こえたのは…
「だいたい、救護の先生も自分の仕事ぐらい自分で考えてやってほしいものだわ。もとはクソ王子がアホなこと言うからだけど。言うだけ言ってあとはまかせたって、はぁ?何様のつもりよ。そうね。王子様だったわね。あんなクズでも。」
…………。
………………。
………………え?
セシリア様?聖女様?
いつも微笑みを絶やさず、花壇の花にすら優しく語りかけておられる、あのセシリア様ですよね。
そんな俺の混乱にも構わず、彼女のひとりごとは続いているようだ。
「人の話は全然聞かないし、書類は読まないっていうか読めない。少しでも気に入らない案件は全部『民のために再考せよ』で押し返してしまう。少しは苦労しろ! っていうか、むしろ会長様が進んで仕事しろ!自分は何もしてないくせになんか良いこと言っちゃったわって顔して満足するな!」
……。
……。
俺は体を強ばらせた。
幻聴だろうか。
そうだ、疲れているのかもしれない。
昨日も深夜まで定期試験の対策をしていたし、今朝はガイウス様の始末書を代わりに書かされたりもした。
うん、これは疲労による幻聴だ。
そんな俺の願いを打ち砕くように、声が聞こえてくる。
「あの顔。あの、いかにも『私は学園を思う理想の会長です。国を思う王子です』みたいな顔。腹立つわー。令嬢十人に囲まれて、鼻の下伸ばしてんじゃないわよ。こっちはその裏で、あなたが放置した予算案をどうにか通そうと走り回ってたというのに」
幻聴にしては、すごく具体的だ。
しかも、内容が妙に同意できる。
アルベルト会長は、確かに理想主義者ではある。
民を大切にし、国をよくしたいという気持ちだけは本物だ。
ただし、自分が正しいと信じたことに関しては、驚くほど他人の意見を聞かない。
そして、それが面倒な実務を誰かに押しつけることに繋がるということにまったく罪悪感がない。
俺が今まで何度、あの人の尻拭いをしたことか。
「……いや、でも」
セシリア様が、ふと声の調子がいつもの様子に戻った。
そうだ。
きっと今のは一時的なストレスだ。
よく考えれば、聖女様だって人間なのだから、愚痴くらい言いたいこともあるはずだ。
うん。
わかる。
わかる。
「問題は、あの脳筋よ」
愚痴はまだまだ終わらなかった。
「ガイウス。あの筋肉ダルマ。脳みそまで筋肉でできてんじゃないの、あいつ」
机の下で、俺の肩が震えだした。
笑ってはいけない。
絶対に笑ってはいけない。
俺は両手でしっかり口をおさえた。
「今日だってそう。予算委員会に提出する資料を渡したら、脳筋、何て言った?」
もちろん、俺はその場を見ていない。
知らないが、なんとなく想像はついた。
「『こんなの全部覚えられない』ですって?」
セシリア様は、吐き捨てるように言った。
「違うわ。読め。そして理解しろ。わからなければ質問しろ。なぜ全部覚えるという選択肢が出てくるんだ。なぜその紙を丸めて、それで握力を鍛え始めるんだ?なぜ今?読むべき予算案を丸めて。」
……。
俺は昨日のことを思い出した。
確かに、ガイウス様は資料を丸めていた。
俺が必死でまとめた、王立魔法学園の部活動棟修繕に関する分厚い資料を。
あれは握力を鍛えていたのか。
「しかも、紙が破れたら『紙が弱い』ですって。お前の握力が規格外なの。紙に謝れ。木に謝れ。森林資源に謝れ」
セシリア様の声が俺の精神を削っていく。こわい。
「……はあ。あの二人を相手にしていると、私の寿命が十年単位で縮んでいくわ」
その声には、心の底からの疲労がにじんでいた。
俺は、なぜだか少しだけ彼女に親近感を覚えた。
そうか。
セシリア様も苦労していたのか。
あの完璧な聖女様が。
俺と同じように。
「……まあ、いいわ」
セシリア様は、ぱん、と両手を叩いた。
「とりあえず、あの王子の尻を叩いて予算を通す。ガイウスには資料を読み直させる。今度破ったら、あいつの大事な剣でケツを二つに割ってやろうしら」
うん。
やっぱり聖女様は素晴らしい方だ。
セシリア様は、裏では口が悪いだけで、中身はまともな人なのだ。
むしろ、今までの完璧すぎる姿より好感がわく。
俺の彼女への評価はますます上がっていく。
ところが。
「……それにしても」
彼女の声が、急に低くなった。
「一番腹立つのは、あの弱腰書記よ」
………………え?
俺の思考が止まった。
今。何と?
「ノア・フェルナー」
名前を呼ばれた。
俺の名前だ。
間違いない。
ノア・フェルナー。
しがない男爵家の三男で、生徒会書記。
目下、会長の机の下に潜伏中。
「……あの男」
セシリア様が、ゆっくりと息を吐いた。
「何なのよ、あいつ」
ビクッとしてペンを弾いてしまった。
「仕事はできる。頭も回る。こっちが頼む前に必要な資料を用意してくれるし、会長の無茶振りにもガイウスの暴走にも、嫌々ながら全部対応している。おまけに、誰かが困っていたら、絶対に見捨てない」
……。
あれ?
これはなんだか褒められている気がする。
「そのくせ、本人は自分を平凡だと思ってる。魔法の才能がないだの、家格が低いだの、どうせ自分は裏方だの。ふざけんな。あんたがいなかったら、生徒会なんて三日で崩壊してるわよ。 もっとじぶんの非凡さを自覚しなさいよ」
……。
……。
あの。
セシリア様。
それは、ちょっと。
ちょっとだけ、嬉しいです。もう泣きそうだ。
机の下で、俺は顔が熱くなるのを感じた。
普段、セシリア様は俺にも丁寧で優しい。
仕事を手伝った時は必ず礼を言ってくださるし、遅くまで残っていると菓子を差し入れてくださったりもする。
しかし、ここまで評価されていたとは思わなかった。
「なのに、あいつ」
彼女は、再び声を荒らげた。
「自分のことになると途端に鈍くなるの、何なの? 私がわざわざ声かけてるのに何にも気づいてくれないし。仕事を押しつけられて疲れてるくせに、私が少し手伝おうとすると『副会長のお手を煩わせるわけには』とか言って、勝手に遠慮して」
……。
あれ。
何かがおかしい。
「こっちは、あんたが心配だから言ってるの。毎日毎日、みんなのために動いて、自分のことは後回し。昼食だって適当に済ませるし、睡眠時間だって削って勉強して成績を維持してるのも知ってる。そんな生活を続けて倒れたらどうするのよ。私がどれだけ……」
言葉が途切れた。
そっとペンを取り胸に抱える。
静寂が落ちる。
俺は、息を潜めたまま、彼女の次の言葉を待った。
「・・・・・・・」
すると。
「……ああ、もう!」
バンッ!
机が揺れた。
俺の頭のすぐ上で、セシリア様が机を叩いたらしい。
「腹立つ! ほんっとうに腹立つ! あの鈍感野郎! 私がどれだけあんたのことを……っ」
そこで、セシリア様は黙った。
しばらくして、ぼそりとつぶやく。
「……好きなのに」
…………。
………………。
……………………は?
今。
好き?
誰が?
誰を?
俺を?
いやいやいや。
待て。
落ち着け。
これは幻聴だったはず。
そうに違いない。
セシリア様が俺を好き?
あの、学園中の男子生徒が憧れる聖女様が?
平凡な男爵家の三男で、書類整理が少し得意なだけ俺を?
ない。
絶対にない。
そんなことがあっていいはずがない。
「……はあ」
セシリア様が、ため息をついた。
「これ以上どうしたらいいの。あの人、私が親切にしても、『聖女様はお優しいですね』とか言って、こっちの好意に全然気付いてないんだもの。あんたにだけなの。私が構いたくなるの」
……。
……。俺は、人生で初めて、疑った。
ノア・フェルナーは本当に俺のことであっていただろうか。
これは夢をみているのでは。
しかし、手の中には、さっき拾った羽根ペンがある感触がある。
現実だ。
これは紛れもない現実である。
そして俺は、学園一の聖女様の心の内を、本人に無断で、机の下から聞いてしまっている。
最悪だ。
いや、待て。
これは本当に最悪なのか?
むしろ最高なのでは。
セシリア様は美しい。
優しい。
頭もいい。
俺なんかにも分け隔てなく接してくれる。
彼女と話す時間は、正直、嫌いではない。
むしろ。
……いや。
今は考えるな。
考えたら、顔に出る。
顔に出たら、机の下から出られなくなる。
すでに出られないのだが。
「……だけど」
セシリア様が、ぽつりと言った。
「あの鈍感野郎、私のことなんか全然見てないのよね」
俺は心の中で叫んだ。
見てます!
見てますとも!
あなたが新しい髪飾りをつけてきた日も、いつもより少し疲れていた日も、後輩に微笑んでいた日も、ちゃんと覚えています!
ただ、聖女様をじろじろ見るわけにはいかないから、必死のチラ見だっただけです!
「……ほんと、腹立つ。書記のくせに。私を無視するなんて、えらそうなんだから。」
セシリア様は、何かを決意したように立ち上がった。
「決めた」
俺の心臓が跳ねた。
「明日」
……。
……明日?
「私がどれだけあんたのことを好きか、思い知らせてやるんだから」
……。
…………。
……………………。
俺は、今度こそ気絶しかけた。
だが。
そのときだった。
コツ、コツ、コツ。
廊下から、足音が聞こえてきた。
「こちらにセシリア様がいらっしゃると聞いたのですが」
教師の声。あれは救護の先生の声だ。
セシリア様は、ぴたりと動きを止めた。
次の瞬間。
「……ふう」
小さな息遣い。
衣擦れの音。
そしてドア開ける聖女様。
「先程の件でお渡しするのを忘れておりました。こちらです」
「まあ、ありがとございまして。先生にご足労おかけさせ申し訳ございません」
聞き慣れた、柔らかく清らかな声だった。
俺は耳を疑った。
つい数秒前まで、あれほど王子と騎士団長の息子を罵倒していた女性と、同一人物とは思えない。
廊下に出ると聖女と慕うみんなに声をかけられる存在。
「セシリア様! ちょうどよかった。実は、聖堂のバザーについてご相談が……」
「まあ。もちろんですわ。私にできることでしたら、何でもおっしゃってくださいね」
「いつもありがとうございます。あなたのような方がいらっしゃるとは、学園も幸せです」
「そんな。私は皆様に助けていただいてばかりですから」
聖女様の声は、どこまでも優しかった。
慈愛に満ちていた。
天使が人間界に降り立ったら、きっとこんな声で話すのだろう。
……数分前に「森林資源に謝れ」と叫んでいた人間と同じとは、到底思えない。
「では、私はこれで失礼いたしますね。皆様、どうかご無理はなさらないでください」
「ええ、セシリア様も」
「ありがとうございます」
コツ、コツ、コツ。
足音が遠ざかっていく。
……。
…………。
……………………。
俺は、しばらく動けなかった。
頭の中で、いくつもの情報がぐるぐると回っている。
会長はクソ王子。
ガイウスは筋肉ダルマ。
俺は鈍感野郎。
そして、聖女様は。
俺のことが好き。
…………。
「……なんだこれ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。
俺は頭をゴツンとぶつけながら机の下から這い出した。
膝が痛い。
制服には埃がついている。
羽根ペンは、いつの間にか握りつぶしそうなほど強く握っていた。会長のペンだけど。
俺は立ち上がり、誰もいない生徒会室を見回した。
いつもと同じ部屋。
窓から差し込む夕日。
壁に掛けられた歴代生徒会長の肖像画。
書類が積まれた棚。
そして、俺の前にある会長の机。
何も変わっていない。
なのに。
その夜、俺は眠れなかった。
目を閉じると、セシリア様の声が聞こえる。
『私がどれだけあんたのことを好きか、思い知らせてやるんだから』
目を開けると、天井が見える。
もう一度目を閉じる。
『……好きなのに』
目を開ける。
天井。
目を閉じる。
セシリア様。
天井。
セシリア様。
天井。
「寝られるか!」
俺は起き上がり叫んだ。
隣の部屋から、兄の怒鳴り声が飛んできた。
「うるせえぞ、ノア! 明日も学校だろうが!」
男爵家のタウンハウスは廃業パン屋を買いとってリホームしたものだ。壁は薄い。
「すみません!」
俺は枕に顔を埋めた。
そもそも、どうすればいいのだろう。
昨日のことを聞いたと、正直に告白するべきか。
いや、無理だ。
そのためにはまず机の下に潜んでいたことから説明しなければならない。
ペンを拾っていました。
そう言えばいい。
だが、そのあとに続くのは。
あなたが俺のことを好きだと聞きました。
……。
どんな会話だこれ。
では、聞かなかったことにするか。
しかし、セシリア様は明日、言うつもりだと言っていた。
明日こそ、絶対に言ってやる、と。
ということは、俺が何も知らないふりをしていても、彼女のほうから何か言ってくる可能性が高い。
そのとき、どう反応すればいい?
笑う?
驚く?
照れる?
いや、そもそも本当に俺のことなのか?
昨日の彼女は、間違いなく俺の名前を呼んでいた。
そこは疑いようがない。
「……はあ」
俺は寝返りを打った。
考えても答えは出ない。
ならば、いつもどおりにするしかない。
そう。
いつもどおり。
俺は生徒会の書記で、彼女は副会長。
それ以上でも、それ以下でもない。
仕事をして、書類を整理して、いつもどおりに会話をする。
そうすれば、きっと何とかなる。
……なるはずだ。
翌朝。
俺は普段より三十分早く学園に到着した。
理由は単純。
セシリア様に会いたくなかったからだ。
会いたくないというのは、少し違う。
会いたい。
できることなら、いつもどおり話したい。
聖女様と日常会話ができる、それが生徒会の書記の特権だったはずだ。
だが、昨日のことを思い出すと、どうしても顔が熱くなる。
彼女の顔を見た瞬間、変な反応をしてしまいそうだった。
だから、朝のうちに仕事を片づけて、なるべく二人きりにならないようにしよう。
それが俺のほぼ徹夜で考え出した作戦だった。
生徒会室の鍵を開ける。
扉を開ける。
誰もいない。
「よし」
俺は胸をなで下ろした。
いつものようにドアを開けたまま、窓を開け、空気を入れ替える。
机に向かい、書類を並べる。
今日の議題。
会話、学園への提出資料。
来月の学園祭の運営計画。
騎士科の模擬戦で破損した訓練用結界の修繕申請。……間違いなく壊したガイウスのせいだ。
俺はため息をつきながら、羽根ペンを走らせた。
集中しよう。
仕事に集中すれば、余計なことは考えずに済む。
そう思っていたのだが。
「おはようございます、ノア様」
俺の手が止まった。
背筋が伸びた。
心臓が跳ねた。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには。
銀色の髪を朝日に輝かせ、清楚な笑みを浮かべたセシリア様が立っていた。
「……お、おはようございます。セシリア様」
声が裏返った。
最悪だ。
会って3秒で、俺の作戦は崩壊寸前だ。
「あら?」
セシリア様が、小首をかしげた。
「どうかなさいましたか? お顔が赤いようですが」
「い、いえ! 何でもありません!」
「まあ。熱でもあるのでは?」
彼女は心配そうに近づいてきた。
やめてください。
近いです。
いつもより近いです。
「少し失礼しますね」
セシリア様が、俺の額に手を当てた。
ひんやりとした指先。
柔らかな香り。
そして、間近にある青い瞳。
「……熱はないようですね」
「そ、そうですね」
「でも、少し顔が赤いですわ」
「朝から走ってきたので!」
そんなことはない、ゆっくり考えごとをしながら歩いて来た。
考えていたことは主に貴方のことです。
「まあ。そんなに急がなくてもよろしいのに」
セシリア様は、いつものように優しく微笑んだ。
「ノア様が倒れてしまったら、困りますもの」
……。
……。
……やめてくれ。
昨日の今日で、その台詞は反則だ。
「……ありがとうございます」
俺は、何とかそれだけを返した。
セシリア様は満足そうにうなずくと、俺の隣にある椅子へ腰を下ろした。
そして。
「ノア様」
「は、はい」
「今日、放課後に少しお時間をいただけますか?」
来た。
ついに来た。
俺の心臓が、胸の内側で暴れ始める。
「……放課後、ですか?」
「ええ。大切なお話があるのです」
彼女は、まっすぐ俺を見つめた。
その瞳には、いつもの穏やかな光が宿っている。
だが、俺にはわかった。
その奥に、昨日の彼女がいる。
王子をクソ王子と罵り、筋肉ダルマに紙と森林資源への謝罪を要求し、俺のことを鈍感野郎と呼んだ、あの彼女が。
そして、俺のことを。
好きだと言った、彼女が。
「……わかりました」
俺は、震えそうになる声を必死に抑えて答えた。
「放課後ですね」
「はい」
セシリア様は、花が咲くように微笑んだ。
「楽しみにしておりますわ」
その瞬間。
俺は悟った。
もう逃げられない。
机の下に潜り込んでも。
廊下を走って逃げても。
書類の山に埋もれても。
この人からは逃げられない。
そして、たぶん。
逃げたいとも、思っていない。
「……ノア様?」
「はい?」
「どうして、そんなに緊張なさっているのですか?」
セシリア様は不思議そうに首をかしげた。
「私、何か変なことを申し上げましたか?」
「い、いえ!」
「そうですか?」
彼女は、ふわりと笑った。
「それなら、よろしいのですけれど」
そう言って、セシリア様は立ち上がった。
「では、また放課後に」
扉へ向かう。
その背中を見送りながら、俺は一つの疑問を抱いた。
昨日、あれほど口汚く愚痴をこぼしていた彼女は、今日もいつもの聖女様だった。
恐ろしいほど自然だ。
だが。
扉に手をかけたセシリア様が、ふと振り返った。
「……ああ、そうですわ」
「は、はい?」
彼女は、にっこりと微笑んだ。
いつもの清楚な笑顔で。
「昨日、不思議なことがあったのです。私が生徒会室の戻ってきた時、殿下の机に資料を置いたのですけど、その時ちょっと会長にメモを残そうとペンをお借りしようとしたのです。けれどその時会長のペンが見当たらなくて。そのあとほんの少し部屋を出て戻ってみると、ペンが戻っていて。昨日は会長も脳き、、、ガイウスも生徒会室に来られなかったはずですし。ノア様って、かくれんぼがお好きだったりしますか?」
……。
……。
………………え?
俺の全身から、血の気が引いた。
セシリア様は、相変わらず優しく微笑んでいる。
その顔には、疑いも怒りもない。
ただ、少しだけ。
ほんの少しだけ。
悪戯っぽい光が、青い瞳に浮かんでいた。
「膝が少し汚れておられますよ」
俺は、足元を見た。
会長のペンは今は机の上にある。
……。
…………。
……………………。
まさか。
いや、そんなはずは。
俺は、震える声で尋ねた。
「……セシリア様。もしかして……」
「ふふっ」
彼女は、口元に手を当てて笑った。
聖女様らしい、上品で、可憐な笑み。
そして。
「さあ。どうでしょう?」
扉が閉まった。
コツ、コツ、コツ。
軽やかな足音が遠ざかっていく。
俺は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
昨日、彼女は誰もいないと思っていた。
だから、あんなにも本音をさらけ出したはずだ。
では。
いつ?
……いや。
机の上に目を落としたとき。
いつも間にか一枚の小さな紙片が置かれていることに気づいた。
見覚えのない紙。
淡い桃色の便箋。
そこには、きれいな文字で、こう書かれていた。
『放課後、二人きりでお話ししましょうね。
ペンはひとりでに動きません
かくれんぼはせず、お待ちください
――セシリア』
俺は、ゆっくりと紙片を裏返した。
何も書かれていない。
もう一度、表を見る。
やはり、書いてある。
「………………」
俺は天井を仰いだ。
生徒会室には、絶対に逆らってはいけない人間が三人いる。
第一王子にして生徒会長、アルベルト・フォン・グランツ。
武闘派副会長、ガイウス・バルド。
そして、。その中でも最も逆らってはいけないのは、
誰もが清らかな聖女と信じて疑わない、セシリア・ルナ・エヴァレットだろう。
俺は、そのひとのためにも一生懸命今日も働く。
書類を整理し、予算をまとめ、始末書を書く。
そして、放課後には…
きっと聖女様と二人きりで話をする。
神様、俺にどうか勇気をください。 聖女様をまっすぐ見つめるだけの勇気を。




