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第九話 名前のない背中

 公園のベンチに、

 今日は先客がいた。


 老人の向かいに、

 知らない中年の男性が座っている。


 二人の間に、

 盤。


 ――カチ。


 石の音が、

 少しだけ硬い。


 華は、

 少し離れたところで立ち止まった。


「……今日は、だめかな」


 そう思った瞬間、

 老人が顔を上げた。


「おや」


 目が合う。


「待っとったよ」


 それだけで、

 胸の奥が、ふっと緩んだ。


 中年の男性は、

 深く頭を下げて帰っていった。


「知り合い、ですか」


「まあ、古い知り合いじゃ」


 それ以上は、

 何も言わない。


 盤を片付ける手つきが、

 少しだけ、丁寧だった。


「今日は、どうする」


「……お願いします」


 石を持つ。


 ――カチ。


 いつもの音。


 けれど、

 今日は少し、盤が重い。


 中盤。


 華は、

 いつもより大胆に打った。


 風の通り道。

 空いている場所。


「……ここ」


 自信が、

 少しだけあった。


 だが。


 数手後、

 その石は、

 あっさり包まれた。


「あ……」


「ふむ」


 老人は、

 盤を見つめる。


「今日は、その風、

 逆向きじゃったな」


「……逆」


「風にも、

 向きがある」


 難しい。


 でも、

 昨日までの“分からない”とは、

 少し違う。


 終局。


 負け。


 しかも、

 いつもより、はっきり。


「……今日は、

 だめでした」


「そんな日もある」


 老人は、

 あっさり言った。


 慰めでも、

 評価でもない。


 帰り道。


 公園を出るとき、

 華は振り返った。


 老人は、

 一人で盤を拭いている。


 その背中が、

 なぜか、遠く見えた。


 翌日。


 囲碁部の部室。


 大会が近いらしく、

 空気が少し張りつめている。


「次、お願いします」


 向かいに座った相手は、

 前よりも強かった。


 ――カチ。


 石を置く。


 考える。

 風を見る。


 でも。


「……あれ」


 通り道が、

 塞がれている。


 逃げ場が、ない。


 終局。


 完敗だった。


「最近、どう?」


 帰り道、

 楓果が聞く。


「……また、負けた」


「そっか」


 それだけ。


 しばらく歩いてから、

 楓果が言う。


「でもさ、

 前より、

 落ち込み方、違くない?」


 華は、

 少し考える。


「……分かんなかった理由が、

 分かる気がする」


「それ、すごくない?」


 そう言われて、

 初めて気づいた。


 悔しい。

 でも、

 真っ暗じゃない。


 その夜。


 囲碁の本を開く。


 ページの隅に、

 小さな注釈があった。


「風」「厚み」「呼吸」


 昨日まで、

 意味のない言葉だった。


 今は、

 盤の上で、

 形になりかけている。


 翌日。


 公園。


 老人は、

 いつも通り、そこにいた。


「昨日な」


 不意に、そう言った。


「風を読むのは、

 若い頃のほうが、

 難しかった」


「……え?」


「勝ちたくてな。

 見えんようになる」


 それだけ言って、

 石を差し出す。


 名前は、聞かれない。

 過去も、語られない。


 でも。


 その背中に、

 長い時間があることだけは、

 はっきり分かった。


 華は、

 石を受け取った。


 ――カチ。


 盤の上で、

 また一局が始まる。


 勝てるかどうかは、

 分からない。


 それでも。


 この人の背中を、

 もう少し、

 見ていたいと思った。

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