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第三話 見えないまま、少しだけ

 その教室に通うことが、

 いつの間にか、当たり前になっていた。


 放課後。

 人のいない廊下を歩いて、

 扉の前で足を止める。


 音がすれば、少し安心する。

 しなければ、ほんの少しだけ残念になる。


 ――カチ。


 今日は、聞こえた。


 華は、ノックもせずに扉を開いた。


「こんにちは」


 天元穂香は、盤の前に座ったまま、

 ちらりと視線を上げる。


「今日も来たんだ」


「はい」


 それだけの会話。

 けれど、それで十分だった。


 盤の前に座る。


 最初に比べれば、

 石の感触にも、少し慣れた。


「……ここ、ですか?」


 華が指さした場所を見て、

 穂香は首をかしげる。


「そこは、嫌がられるかも」


「嫌がられる……?」


「石にも、気分があるから」


 冗談なのか、本気なのか、分からない言い方。


 華は、少し考えてから、

 別の場所に石を置いた。


 ――カチ。


 穂香は、何も言わなかった。


 それが、少しだけ嬉しかった。


 対局は、今日も一方的だった。


 気づけば、

 自分の石は狭い場所に追い込まれている。


「……ここで、終わり?」


「うん」


 盤の上は、

 相変わらず、華には難しかった。


 それでも。


「昨日より、よかった」


 穂香が、ぽつりと言う。


「え?」


「考えてたでしょ。

 置く前に」


 その一言で、

 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


 考えていた。

 確かに、昨日よりは。


「でも、全然……」


「それでいい」


 穂香は、そう言い切った。


「最初から分かる人、

 そんなにいないから」


 その言葉は、

 慰めでも、励ましでもない。


 ただの事実みたいだった。


 家に帰って、

 華は机に向かった。


 囲碁の本を開く。


 相変わらず、難しい。

 線の意味も、形の名前も、

 まだ頭に入らない。


 それでも、

 今日は少しだけ、

 ページを進められた。


「……あ」


 小さな図を見て、

 今日の盤面が、ふっと重なる。


 あのとき、

 穂香に「嫌がられるかも」と言われた場所。


 理由は、まだ分からない。

 でも、

 何かがつながった気がした。


 翌朝。


「最近さ、華」


 楓果が、パンをかじりながら言う。


「歩くの、遅くなったよね」


「そう?」


「うん。

 なんか、考え事してる感じ」


 華は、少しだけ迷ってから答えた。


「……囲碁」


「出た」


 楓果は笑う。


「分かるようになった?」


「全然」


「じゃあ、なんで続けてるの?」


 その問いに、

 すぐには答えられなかった。


 少し考えて、

 華は言う。


「……置く前の時間が、

 ちょっとだけ、好き」


 楓果は、きょとんとしてから、

 にやっと笑った。


「それ、もう十分じゃない?」


 放課後、

 いつもの教室。


 今日も、負けた。


 それでも、

 盤を見つめる時間が、

 昨日よりも少し長くなっていた。


 穂香が、片付けながら言う。


「また、来る?」


「はい」


 答えは、迷わなかった。


 盤の上では、

 まだ何も分からない。


 でも。


 石を置く前の、

 あの静かな一瞬に、

 確かに、何かがある。


 それを、

 もう少しだけ、知りたいと思った。

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