表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

第二話 分からないままの一手

 朝の教室は、いつもと同じだった。


 窓際の席、少し冷たい机の感触。

 友達の話し声が、ところどころで弾んでいる。


 天音華は、鞄の中に入れたままの本を、

 まだ一度も開いていなかった。


 昨日、あのまま家に帰って、

 部屋に入って、

 机の上に置いた。


 それだけだった。


「華、今日ちょっと眠そう」


 霧島楓果が、前の席から振り返る。


「そう?」


「うん。ぼーっとしてる」


 華は、曖昧に笑った。


 眠れていないわけじゃない。

 ただ、目を閉じると、

 白と黒の石が浮かんでくる。


 意味は、分からないまま。


 昼休み。


 華は一人で、昨日の教室の前に立っていた。


 扉は閉まっている。

 中から音はしない。


 当然だ、と思う。

 昨日は、たまたまだっただけ。


 それでも、

 少しだけ期待してしまっている自分に気づいて、

 華は視線を落とした。


「……何してるの?」


 背後から、楓果の声。


「なんでもない」


「ふーん。

 昨日の囲碁?」


 その一言で、胸の奥が少しだけ揺れた。


「分かんなかった」


 正直な気持ちだった。


「でも、ずっと見てたよね」


「……うん」


 理由は、やっぱり分からない。


 楓果は、少し考えてから言った。


「分かんないならさ、

 分かんなくてもいいんじゃない?」


 華は、驚いて顔を上げる。


「だって、

 分かんないのに続けてる人って、

 けっこう本気じゃない?」


 その言い方が、妙に軽くて、

 でも、心に残った。


 放課後。


 華は、意を決して、

 鞄からあの本を取り出した。


 囲碁入門、と書かれている。


 ページを開く。


 盤。

 線。

 交点。


「……難しい」


 声に出してしまうほど、

 最初の数ページでつまずいた。


 石を置く意味。

 取る、取られる。

 終わりの条件。


 頭に入らない。


 それでも、

 ページを閉じなかった。


「ここに、置くんだ……」


 昨日、何も考えずに置いた場所を、

 思い出す。


 あれは、

 間違いだったのだろうか。


 正解だったのだろうか。


 本は、何も答えてくれない。


 数日後。


 また、あの教室の前を通った。


 今度は、音がした。


 ――カチ。


 心臓が、少しだけ早くなる。


 扉の向こうには、

 昨日と同じ少女がいた。


 天元穂香。


 名前は、まだ知らない。


「……また来たの?」


 淡々とした声。


「はい」


 理由を聞かれたら、

 答えられなかったと思う。


「座る?」


 うなずく。


 盤の前に座ると、

 昨日よりも、

 盤が少しだけ広く見えた。


「本、読んだ?」


「……少しだけ」


「少し、ね」


 穂香は、石を差し出す。


「じゃあ、また打とう」


 勝てるとは、思っていない。

 分かるとも、思っていない。


 それでも、

 昨日とは違う。


 華は、

 盤を一度だけ、じっと見てから、

 石を置いた。


 ――カチ。


 音が、昨日よりも静かに感じられた。


 その日の帰り道。


 鞄の中の本が、

 少しだけ重く感じた。


 でも、不思議と、

 嫌ではなかった。


 まだ、分からない。

 きっと、しばらく分からない。


 それでも。


「……もう一回、読もう」


 誰に聞かせるでもなく、

 華はそう呟いた。


 盤の上には、

 まだ風は吹いていない。


 けれど、

 確かに、何かが動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ