第十四章 渾身の一手
静寂。
会場の音が、
遠くに引いていく。
盤の上だけが、
世界の中心になる。
――カチ。
華の第一手。
穂香は、
ほんのわずかに目を細めた。
「……変わったね」
小さく、そう呟く。
序盤は、
穂香の流れだった。
厚みを築き、
自然に地を広げる。
強い。
揺るがない。
それでも。
華は、
盤全体を見る。
急がない。
詰めない。
風の通り道。
「……ここ」
――カチ。
穂香の指が、
一瞬止まった。
予想外、
というより。
“待っていた”ような目。
中盤。
石がぶつかる。
華の石が、
中央で孤立する。
観客席の空気が、
わずかに張る。
「……危ない」
誰かの小さな声。
でも。
華は、
逃げなかった。
石が、
そこに居たい場所。
「お願い」
声にならない祈りとともに、
一手を打つ。
――カチ。
穂香の瞳が、
鋭くなる。
その瞬間。
周囲の音が、
消えた。
静寂が、
二人を包む。
盤上に、
次に打つべき場所が、
光る。
穂香の中で、
一直線に答えが結ばれる。
「……ここ」
渾身の一手。
――カツン。
硬い音。
華の石の呼吸が、
わずかに乱れる。
数手の読み合い。
華も、食い下がる。
「……まだ」
必死に、
風を探す。
しかし。
中央の一団が、
半目分、
削られる。
終盤。
数える。
一目。
二目。
静かな確認。
穂香が、
顔を上げる。
「……終わりかな」
華も、
うなずく。
「……はい」
結果。
半目差。
「……負けました」
言葉は、
不思議と、震えなかった。
悔しさはある。
でも。
盤を見れば分かる。
あの一手が、
すべてだった。
穂香は、
静かに石を片付ける。
そして。
「強くなったね」
真正面から、言う。
「本気で、
怖かった」
その言葉は、
飾りではない。
華は、
胸の奥が熱くなる。
「……ありがとうございます」
それしか、言えなかった。
会場を出ると、
夕方の風が吹いていた。
楓果が駆け寄る。
「惜しかったね!」
「うん」
華は、笑う。
「でも、届いた気がする」
それは、
負け惜しみではなかった。
少し離れた場所で、
穂香が立っている。
目が合う。
穂香は、
ほんの少しだけ笑った。
ライバルでも、
先輩でもない。
もう少し近い、
何か。
「また、打とう」
穂香が言う。
「はい」
即答だった。
帰り道。
公園の前を通る。
ベンチは、
空いている。
でも。
盤の上に吹いた風は、
消えていない。
華は、
そっと手を握る。
あの渾身の一手。
あの半目差。
悔しい。
でも。
それが、
今の自分の距離。
夜。
机に向かう。
囲碁の本を開く。
ページの隅に、
小さく書き足す。
「半目」
その下に、
もう一行。
「次は、越える」
窓を開けると、
やさしい風が入る。
盤上のそよ風は、
まだ、吹いている。
(完)




