第十二話 静かな前日
交流戦まで、
あと三日。
特別な練習を、
しているわけではなかった。
囲碁部では、
いつも通り、盤が並ぶ。
ただ、
華の打つ一手一手を、
周りが少しだけ、意識している。
「……大丈夫?」
楓果が、
小声で聞く。
「うん」
即答だった。
不思議と、
不安は、なかった。
その日の帰り。
公園に向かう足取りが、
少しだけ遅い。
いつものベンチには、
もう、老人がいた。
「こんにちは」
「うん」
それだけで、
盤が置かれる。
――カチ。
石の音が、
今日は、やけに澄んでいる。
序盤。
二人とも、
ほとんど言葉を発さない。
盤の上だけが、
静かに動く。
華は、
勝ちを考えなかった。
逃げも、
攻めも、
自然に来る場所へ。
「……ここ」
――カチ。
老人は、
一瞬だけ、
指を止めた。
「いいな」
短い言葉。
それ以上、
何も言わない。
中盤。
石が、
盤いっぱいに広がる。
取られる石。
残る石。
でも、
どれも、
納得できた。
「……今日は、
怖くないです」
思わず、
そう言った。
「そうか」
老人は、
少しだけ笑った。
「それが、
一番じゃ」
終局。
結果は、
負け。
でも。
「……ありがとうございました」
いつもより、
深く、頭を下げた。
老人は、
盤を片付けながら言う。
「明日からは、
来れん」
「……え?」
「少し、
用事じゃ」
理由は、
聞かなかった。
聞かなくても、
いい気がした。
帰り際。
「……名前、
聞いてもいいですか」
華が言うと、
老人は少し考えてから、
答えた。
「昔の名は、
もう、使っとらん」
それだけ。
「でもな」
と、続ける。
「盤の上じゃ、
名前はいらん」
華は、
静かに、うなずいた。
翌日。
交流戦前日。
会場の下見で、
穂香と並んで歩く。
「……緊張、してる?」
「してないです」
「珍しいね」
穂香は、
少しだけ笑った。
「でも」
と言って、
足を止める。
「ちゃんと、
ここまで来たと思う」
それは、
評価でも、
挑発でもない。
ただの事実。
「……はい」
それだけで、
十分だった。
夜。
部屋で、
静かに目を閉じる。
盤が、
自然に浮かぶ。
老人の背中。
穂香の一手。
楓果の声。
全部が、
同じ場所にある。
勝つかどうかは、
分からない。
でも。
「……ちゃんと、打つ」
それだけは、
決めていた。
窓を開けると、
夜風が入ってくる。
静かで、
やさしい風。
盤上のそよ風は、
もう、
華の中に吹いていた。




