グレーテルの今日
ああ、また目覚めてしまった。
グレーテルは、窓から差し込む薄い光に絶望を感じながら、ゆっくりと体を起こした。硬いベッドは何度起きても同じ箇所がきしみ、大して重たくもない彼女のお尻でぎしりと鳴る。
首も腰もにぶく痛むが、しかしグレーテルは今日もまた今日を迎えなくてはならない。何度目の朝か、もうずいぶん前に数えるのもやめてしまったあの日の今日を。
***
グレーテルにはいくつか年が上の兄がいる。やさしく頭のいい兄だが、彼は今日が幾度も繰り返されていることを毎回知らない。おそらく今回も――
「おはようグレーテル」
「…おはよう、ヘンゼル兄さん」
「…かわいい妹よ、安心して。きのうのうちにまた石を拾っておいたからね」
――やっぱり、知らないのだ。きのうは義母のレーラと父が食糧不足を理由に、兄妹を山にこっそり置いていこうとする日で、でもそれは失敗する。なぜならヘンゼルとグレーテルは両親の計画を知っていて、事前にこの兄が光る石を用意しており、それをたどって家に帰りついたためだ。
そうして今日はもう一度、両親がヘンゼルとグレーテルを捨てに山へ行く日。きのうの今日で、まったく薄情な親たちだ。
ゆうべ、眠りにつくまでグレーテルはすっかりこのことを忘れていて、くすんくすんと泣きべそをかきながら日の落ちた森を兄と歩いた。家までの道は暗く、しかしぼんやりと青白い光を放つ石がどうにかこうにか二人を自宅まで導いてくれた。
両親の裏切りに気づき悲嘆にくれる妹を励まし、時には手を引いて先を歩く兄の背中はいつも以上に大きく感じた。しかしそんな彼も昨夜ベッドの中でそっと泣いていたことをグレーテルは知っている。兄のためにも、この先を知っている自分ががんばらなくては。
「うん、ありがとう、兄さん」
先に朝の食卓についていた兄に、決意に満ちた顔を向けると彼は少しだけ不思議そうにまばたきをしてから口端だけで小さく笑ってみせてきた。森ではたらく父はすでに家にはおらず、義母が不機嫌そうに台所で鍋をかき回している。
「おはようございます、おかあさん」
「わたしはおかあさんじゃないって言っているでしょう」
本当は声などかけたくなかったが、朝食の準備をしてくれていた義母にあいさつをする。こちらをいっさい見ずに義母はいらいらとした様子で言葉をつづけた。
「さっさと食べてよ、今日はいそがしいんだから」
「…はい」
いそがしいって何がいそがしいんだろう。わたしたちを捨てるのにいそがしいということかしら。
グレーテルは痛むひざや腰をかばうように、ゆっくりとテーブルについた。小さな丸いパンがふたつと野菜の入ったスープ、それに水が用意されている。家で食べる最後の食事だから、いつもより豪華なのかもしれない。
丸パンを細い指でちんまりとちぎり、口に入れてみる。やわらかなそれはおいしく、グレーテルはがっかりした。こんなにおいしいパンをほとんど食べずに道しるべとして落としていかなければならないなんて。
ちらりと兄を見ると、兄は大事そうにそのパンを少しずつ少しずつ口に運んでいる。きのうの夜、兄妹ははなにも食べられなかったのでグレーテル同様お腹がすいているんだろう。一気に食べてしまわないところがヘンゼルらしい、と思う。
「兄さん、おいしいね」
「…ああ、おいしいな」
義母に聞こえないようにささやくと、兄もやはりささやき声でそう返してきた。
グレーテルはスープに入った野菜をちびちびと食べすすめ、じっくり味わってすべてを飲み込んだ。パンは二つとも、こっそり用意しておいた紙に包んで服の中に隠す。お腹が少し膨らんで見えるが、こちらをほとんど見ないようにしている義母は気がつかないはずだ。なぜなら毎回、うまくいっているのだから。
前回の今日も、前々回の今日も、ほとんど同じ朝を過ごした。毎回、朝目覚めると思い出すのだ、今日は2回目の捨てられる日だな、と。
そうして最初のうちはこの後起きること――光る石が今日は使えないことや、パンを落として道しるべとすること、魔女の家にたどり着くこと――を兄に相談した。けれど兄のヘンゼルはいずれも信じてくれず、グレーテル一人で魔女の家に入らないよう抵抗したり、パンではなく光る石を使って家に帰ろうと試みたりしても、いつだって結末は変わらなかった。
どんなにあがいても結局、自分が魔女を倒して兄を救うしかない。
それに気づいてからグレーテルはなるべくスムーズに、魔女の家を目指した。兄を説得したり、パンを落とさなかったりすると魔女の家に迷い込むのに遠回りなので、彼女は一人ですべてを背負い、物語を進めることに注力している。しかしなぜだか、今日は繰り返されるのだ。なんどパンを鳥に食べられても、なんど魔女を突き飛ばしても、なんどヘンゼルと無事を確かめ合っても、なぜか同じ朝に目覚めてしまう。気が狂いそうだったが、しかしグレーテルは気丈な女の子だったのでなんとか踏みとどまり、こうして何十回目、何百回目、何千回目かの今日を過ごしている。
「ごちそうさまでした」
ちまちまとパンを食べていたヘンゼルがきれいにすべてをたいらげて、ほぅ…と満足そうに息を吐いた。兄の様子に安らかな気持ちを覚えつつ、グレーテルも同じように食事を終了させる。
「食べ終わったならお皿を片付けて、それから出かける準備をしてちょうだい」
背後からの義母の声に一瞬驚いたが、グレーテルはこくりと頷いて、隠したパンが落ちないように慎重に食器を台所にさげた。洗ったほうがいいかなと思ったが、今日の義母はなにをしても怒るので余計なことはしないことにする。
グレーテルは自室に戻って着替えてから、左右のポケットにパンを詰め込む。やわらかなパンなので少し形が崩れてしまうが、ちぎって落とすためのパンなのでいいだろう。
用意ができたので玄関へ向かうと、義母とヘンゼルはすでに待っていた。
「さあ、いってらっしゃい」
何度も経験しているはずなのに、グレーテルは義母の淡々とした様子にぞっとし、おもわずヘンゼルの手を握る。ぎゅっとつかむと、ぎゅうっと握り返され、見上げると兄が困ったような顔で笑っていた。
あれ?と思った。ヘンゼル兄さんはこんな顔だっただろうか。こんなに頼りなさそうな表情をする人だっただろうか。
しかし、その疑問はすぐさまかき消された。トントントン、と目の前の玄関扉がノックされた音で、グレーテルはそちらに気を取られたのだ。
「はーい」
義母がふだんより高い声で返事をし、扉を開ける。
「おはようございます。いいお天気ですね」
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
外には知らない大人、男性と女性が一人ずつ立っていて、義母はその二人ににこやかに言葉を返した。
「グレーテルさん、おはようございます。いいお天気ですよ」
義母より少し年が上に見える女性が、笑みを崩さずにグレーテルへ声をかけてきた。これは初めての展開だ。あいさつすべきか悩むグレーテルをよそに、ヘンゼルは無言のままぺこりと頭を下げている。
「…すみませんね、いつもどおりですのでよろしくお願いします」
「承知しています」
なにやら義母がごにょごにょと見知らぬ男性に言いながら、グレーテルの腕をぐいと引っ張った。きのうの疲れからか全身がぐったりと重たいせいで、とっさに抵抗することができず、足がもつれてしまう。
「あっ、大丈夫ですか」
よろめいたグレーテルは二人の大人に支えられ、転ばずに済んだが、それと同時にがっちりと両脇から捕まえられてしまった。
なんだろう、この人たちは。まるでわたしを逃がさないとでもいうような――
「あの、一人で立てますから」
混乱のまま、そう言い、兄を見やるといつの間にか彼は木こりの父と同じ格好で斧を担いでいる。
あれ?兄さんは石をたくさんポケットに詰めて、義母にそれがバレて取り上げられて、それでわたしが隠し持っていたパンを落として――
「じゃあグレーテルさん、行きましょうか」
「…えっ…?わたし、え?行くって、どこに?」
思わず義母を振り返ると、義母は魔女のような恐ろしい表情でこちらを見つめている。これは、なに?口減らしに捨てるのに失敗したから売られた?わたし一人だけ?どうして今回の今日は、いつもと違うの?
「兄さん、兄さんも一緒でしょう?」
兄のヘンゼルにすがるようにそう言うと、彼は無表情でグレーテルを見つめている。その瞳は暗く、ほとんど温度を感じさせない。
「や、やだ、やだあ!」
「グレーテルさん、大丈夫ですよ」
「じゃ、馬車に乗りましょうね」
駄々っ子のように泣くグレーテルは見知らぬ大人二人がかりでずるずると外に運び出され、小さな馬車の椅子に座らされた。隣は知らないおじいちゃん、前も後ろも知らないおばあちゃん、みんなガラス玉のような目で宙を見ている。
この人たちもみんな、人買いに買われたんだ。
もう外で泣くような小さい子じゃないのに、グレーテルは涙が止まらなかった。兄と助け合って、この物語のループを終わらせようとがんばっていたのは全部無駄だったのだと思うとかなしくてしかたない。
「グレーテルさん、鼻水が出てますよ。ほら、拭きましょう」
先ほどグレーテルを無理やり馬車に乗せた女性が淡いブルーのハンカチで、グレーテルの鼻の下をぬぐって、それからにっこりと笑って馬車の外にいる義母と兄に会釈する。
「ほら、グレーテルさん、娘さんとお孫さんが見送ってくれていますよ」
「…グレーテルおばあちゃん、気をつけてね」
「毎回、本当にご面倒をおかけします。今日もよろしくお願いします」
「いえいえ。ショートステイですので明日の午後にご帰宅となります。また明日」
終始、笑顔の女性と反対に義母と兄はどこかつらそうな顔でグレーテルのほうを見ている。気をつけて、とか聞こえた気がするが、涙と鼻水で頭痛がするし耳がキーンと痛むグレーテルにはほとんど意味をなさなかった。
何度も訪れる今日に、こんな終わり方があるなんて想像もしていなかった。自分一人だけが売られるなんて。義母だけならまだしも兄にまで裏切られるなんて。
起床時とは比べものにならないほどの絶望を感じながら、67歳のグレーテルは馬車に揺れ、闇のように昏い、思考の海をただよっていた。
ヘンゼルとグレーテルのグレーテルが年を重ね、おばあちゃんになってから認知症を発症したらどうなるのかな、と思って書いたものです。グレーテルは自分の娘を義母、娘の息子(つまり孫)を兄と思い込んでおりますが認知症の症状などについてはフィクションとして読んでいただけたら幸いです。




