第九話 月冴家へようこそ
図書室の扉を開けると、一番奥の席に見知った顔がある。
俺の仕事の雇い主で俺の隣の席でもある月冴かごめは黒くたなびく髪を窓の外から拭く風でゆらゆらさせながら椅子に寄りかかり首を椅子に預け眠っていた。
机の上には文庫本が一冊置いてあり月冴の指が挟まっているだけで開かれてはいない。
風で閉じてしまったのだろうか。
しかし、こんなところで寝るなんて。
一応威厳ある家の当主様であるというのに無防備なやつである。
今は周りに誰も居なくて良かったが、人がいる時にはやめてもらいたいものだ。
「月冴……起きろ月冴」
「……火月さん、おはようございます」
「おはよう」
月冴は眠そうな目を擦りながら背伸びとあくびをして今度は目につけていたメガネを取る。
メガネ姿の月冴は初めて見た。
日頃メガネなんてつけたことがなかったような気がするし、月冴はとても視力が良いはずだ。
どうしてだろう。
「……伊達メガネですよ」
「なんだバレてたのか」
「もちろん、そんなにまじまじと見られたら誰だってわかります」
そんなに見入ってしまったのだろうか。
まあ、確かに俺は昔から気になった物を無意識に見つめてしまう癖があるみたいだからそうなんだろう。
悪い癖なのはわかっている、わかっているがそういう癖ほどわかっていても直せないものだ。
それと変なところに気を使ってしまうところとかもな。
全くもってハズレな癖である。
「そういえばどこに行っていたんですか?」
「えーとそれは……トイレ、トイレに行ってたんだ」
「トイレ? 10分もですか?」
確かに待ち合わせの時間は5時半で今は5時四十分なので大幅な遅れである。
が、いつもはそこまで聞いてこないのに今日はやけに食いついて聞いてくるな。
寝起きで元気だからか?
「ああ、ちょっと腹が痛くて」
「大丈夫ですか? 保健室行きます?」
「大丈夫、大丈夫。もう治ったから」
俺は作り笑いを見せる。
たかが本一冊のためだけに四十分も校門の前で待っていたなんて口が裂けても言えない。
言えるわけがない。
その後は少しだけ二人でテスト勉強をし、俺たちは学校を出て月冴の家に近い方のスーパーに向かった。
もちろん料理を一ミリもしない俺にとってはスーパーなど無縁と言ったら無縁な場所なのだが、ここに行くのにはそれなりの理由がある。
「何を買うんだ?」
「お醤油、お酢、今日は卵の特売なので卵とそれとお味噌……」
「すまん、聞いたやつが言うのもなんだがやっぱりもういい」
聞いた俺が馬鹿だった、さっき料理とは無縁な関係とか考えていたのに何を買うと聞いて全て覚えられるわけがない。
こういうのはちゃんと本職の方がやらなければいけないことなのだ。
俺はツーンとする鼻の先を摩る。
そんな俺とは裏腹に月冴の方を見ると商品棚の前で屈み二つの醤油を両手に持ち何か考えていた。
側から見たら完全に主婦の姿だ。
いや待て、月冴は日頃昼食の弁当を自分で作ってきているのだからほとんど主婦なのか。
もう一度言うがここに来たのには理由がある。
それは明日、月冴の家で行われる勉強会の昼ごはんを俺たち二人で作るためだ。
勉強会、と言ってなぜ料理を作るのかという疑問が浮かぶと思うが、俺と月冴は既にテスト範囲の全てをこなしているので明日は俺たちの勉強ではなく直継たちの勉強会であるため勉強はせず教える側なのだ。
そして、じゃあ俺たちが他に何をできるのかという課題が生まれそこから俺たちは直継たち勉強会組に昼ごはんを提供することに決めた。
昔どこかの武将が「腹が減っては戦ができぬ」ということわざを言っていたから食事は重要なはずである。
因みに俺が料理を作るとは言っていない。
つまり、そういうことだ。
「誰が来るんだったか」
「えーと。私、火月さん、直継さん、御代ちゃんに……あとは火月さんが妹さんを連れてくるんですよね?」
「ああ、一人で家に居させるのは嫌だからな」
「ふふ、妹さん想いなんですね」
「……卵、買うんじゃなかったか」
「そうでした!」
月冴は顔を驚かせ卵のあるコーナーへと走り出していった。
カートは置きっ放し。
月冴って結構抜けている時があるよな。
そんでもって「妹想い」か……
俺程度で妹想いなら世間一般的なお兄ちゃんたちはもう過保護の領域だ。
それに俺は妹想いなんて言われる現状にない。
俺には千早の他にもう一人妹がいる。
前にも言った、俺のせいで大会に出場できなくなった部活熱心で勉強もできて、俺なんかよりも何千倍何億倍に優秀なそれはそれは凄い妹が俺にはいる。
俺にとっては大事な妹。
だが、きっとあいつにとっては自分の夢を刈り取った最悪な兄貴でしかないはずだ。
今は会話なんてろくにせず、唯一の情報共有は千早を経由したものだけでほぼ赤の他人状態。
ため息すら出ない。
そうなったのは全て俺のせいなんだから。
俺が悪い。
「さて、ついて行くか」
卵を取りに行くだけなのにそこまで時間は掛からないはず。
何処かで道草でも食っているのか?
俺はカートを動かしながら月冴を探す。
もしかしたらそのまま味噌を買いに行ったのかもしれない。
「卵のコーナーは……あっちだな」
奥に少し進みそのコーナーの角を曲がるとそこに月冴の姿は見えなかった。
そしたらやっぱり味噌の方か。
味噌のコーナーに向かい角を曲がる。
今度は月冴が座り込み二つの味噌を両手に持ってキョロキョロとしていた。
再放送ですかこれは。
「月冴、また迷ってるのか」
「はい、今までは赤味噌だったんですがたまには白味噌も面白いかなと思って」
「……なあ、一応聞いておくがさっきの醤油は何で迷ってたんだ」
「お醤油ですか? それなら濃口か薄口かですけど……それがどうかしました?」
この料理大好き少女は毎回こうやって悩んでいるんじゃないだろうな。
俺は苦笑いをしながら月冴の落としたメモに書かれてあった塩と砂糖をカートの中に入れた。
これで調味料のさしすせそをコンプリートしたわけだが、どうやったら調味料を同じ日に全て買うことになるんだ。
俺は質問するのをやめ何も考えずその後も月冴の後をついて行く。
買い物を終えてスーパーから出る。
月冴の家と俺の家は方向的に真逆。
本当ならここで別れるところなんだが、月冴には一つ聞いておきたいことがある。
「なあ、甘夏葵祢ってやつ知ってるか」
「葵祢ちゃんですよね、もちろん知ってますよ」
「実は月冴が図書室に来る前あったんだ。あいつも妖術師なんだろ?」
「はい、そうです」
月冴はニコニコしながら俺の方を見る。
やっぱり忘れていたんだなこのお姫様。
ほんと、抜けているやつだ。
「そうだ、葵祢ちゃんも勉強会に参加させていいですか?」
あいつを勉強会に参加させるか。
別に人数が一人増えたとして何か変わるわけではない。
なんなら甘夏の頭が良いのかは知らんが直継に勉強を教えれる可能性がある。
これは俺にとっては特になることなのではないか?
俺は月冴の提案に頷いた。
これで勉強会に来る人数は六人、教える相手は三人。
はぁ、何事もなければいいが……きっとそう上手くはいかないんだろうな。
* * *
次の日家を出ると、そこには私服姿の直継と御代がいた。
少し暖かくなってきたからなのか、服装は結構軽めだ。
そして直継の明らかに分厚さのないリュック。
勉強をしに行くやつの格好ではないな。
俺は大きなため息をその場で吐いた。
にしても、こいつら毎回二人でいるな。
本当にただの幼馴染なのか?
「おはよう火月!」
「お前凄い眠そうだな、夜更かしか?」
「全然違う、お前らがこんなに朝早くからを集合時間にするからよく眠れなかったんだ」
「午前十時ってそんなに早いかな……」
「ねえねえ、お兄ちゃんのことはいいから早く行こうよ!」
千早は楽しそうに手提げバックをランランさせて俺の心を抉り取るような言葉を無邪気な笑顔で言った。
千早が地団駄を踏み始めたらキリがない、本当はもう少し寝たいところだが、さっさと月冴の家に向かうとしよう。
東京という都会のジャングルの中歪に建つクソでかい月冴家のお屋敷は学校よりもでかい門を構えて静かに佇んでいた。
さすがに大きすぎやしないか?
東京ドーム半分は入るんかもしれないぞこれ。
「ここが月冴家の屋敷だ」
「大きい! デカい!」
「どっちも同じ意味だぞ千早」
……さて、こんなに大きい扉人の力じゃ開きそうにないが、どうやって開くのだろうか。
近くに開ける機械でもあるのかそれともこう見えて自動ドアになっているのか。
興味深い問題だ。
そう考えていると突然ガチッと大きな音が鳴る。
次に門の留木が上がり、扉はゴゴゴと大きな音を立ててゆっくりと開いていった。
「もじゃもじゃさん!」
扉の前には毛で覆われた大男。
化け物……ではない。
千早はもじゃもじゃさんと言った。
確か俺が月冴と出会って倒れた後俺を家まで運んでくれたのも髭もじゃの大男だったような。
千早とも面識があるみたいだしきっとその人で間違いないだろう。
後で礼をしないとだな。
「皆さん、おはようございます」
聞き覚えのある声だ。
月冴は抹茶色の服に白のロングスカートを履き、肩からかけた濃紺色のエプロンで手を拭きながら俺たちの方にやってきた。
長い髪の毛は後ろで結び、いかにも料理中という装いだ。
でも意外だな、出会った時は確か白い和服だったからもっと普段着も和という感じだと思っていた。
そういう思想はもう古いものなのだろうか。
俺は心の中で少し残念になった。
「おはようございます!」
「おはようございます、あなたが火月さんの妹さんですか?」
「うん、神代千早、小学六年生」
「可愛いな〜この子」
元気いっぱいに挨拶をする千早を横目に古水が後ろに後ずさる。
顔がいつもより赤く見えるのはきっと俺がまだねぼけているからだろう。
横にいた直継は呆れた様子で大きなため息を吐いた。
なんだ、いつものことなのか。
「千早ちゃん行こっか」
「うん!」
古水は千早の手を引っ張って行ってしまう。
完全にメロメロだな。
目がハートになっていそうだ。
「火月さん」
「おはよう月冴、やっぱりエプロン姿がよく似合うな」
「そうですかね?」
その場でくるりと一回転し、月冴は俺に全体像を見せつけてきた。
有名旅館の若女将という感じで本当によく似合っていると思う。
しかし、そう思いはしたがこれを本人に言うのはやめておいた方が良さそうだ。
月冴はこう見えて結構言われたことを気にするタイプ。
気にされたら俺よりも面倒くさい。
「お先にすみません、もう料理には手をつけてしまっています」
「そうなのか、残念だな」
一ミリも残念だとは思っていない。
なんなら具材を切ったり焼いたりしなくて喜ばしい気分だ。
料理なんて学校の調理実習以来やったことがないからな、今きっと俺が料理など作ったら食べれるか食べれないかのレベルだ。
「そんで、月冴は俺に何か言うことがあったんじゃないのか?」
「凄い! どうしてわかったんですか!?」
「顔に書いてあったからだよ」
「……家から出る前に鏡で確認した時はそんなものありませんでしたよ?」
「はぁ、『そんなにまじまじと見られたら誰でもわかる』」
俺の放った言葉の意図に気づいたのか月冴は顔を少し赤くして前髪を触り始めた。
わかりやすいやつだな。
「え、えーと。この後、火月さんには前主に会ってもらいますからね」
「前主? 月冴のお父さんか?」
「いいえ、お爺ちゃんです」
「……そうか。わかった」
「お爺ちゃんは少し昭和な方ですので、それなりに覚悟を持って頑張って下さい」
覚悟ね。
そんなもの妖術師になる時から出来ている。
「ああ、わかったよ」
突然、というか出会った時から思っていた疑問を抱えたまま、俺はもじゃもじゃさんに連れられその前主のいる部屋へと一人で向かった。
月冴はというと残念ながら料理中だから一緒には来られないらしい。
しょうがないことだが、少しだけ寂しさがある。
「あのー俺が倒れた時はありがとうございました」
「……」
「あなたが傷を治してくれたんですか?」
もじゃもじゃさんは首を振るだけで何も喋らない。
さいですか。
もじゃもじゃさんはある部屋の前で立ち止まった。
他の部屋と違い一際目立つその部屋は和風の家には合わない洋風の扉をしていた。
違和感しかない。
そういう趣味なのか、それとも勝手に建てられたのか……考えずとも前者であろう。
一部塗装の剥げた金色のドアノブに手をかける。
この先にいるのは月冴家前主。
月冴は何も言わなかったがこれは考えれば面接の様なものだ。
もちろん緊張はしない。
ただ、何処か既視感があるのはなぜだろうか?
そんな疑問を頭の中に抱えながら、俺はゆっくりと扉を前に押すのであった。




