エナドレ+傘+漫画
地下鉄を降りて、階段を上り駅を出るとすでに雨は止んでいた。
俺はまだ誰にも使用されていない傘を杖代わりにして歩みを進める。足取りは重い。バッグがいつもより重いからだろうか。そこには買ったままのエナジードリンクが入っている。また脇には本を抱えている。中身の濡れた読めない漫画雑誌。少年から返品された時、そのまま電車に置いてきてもよかったのだが、なんとなくそれも気が引けて持ってきてしまった。一回拾った以上、きちんとゴミとして捨てなければならないから。雑誌はどうやってゴミに出せばいいんだろう。子供の頃はビニール紐で結んでまとめていた気がするが、最近は雑誌に限らず新聞や本の類をゴミに出す機会もなかったから、困ってしまう。後で自治体のホームページを見ないと。
などと詮ないことを考えつつ、帰宅するべく足を進める。しかし歩みは遅遅として進まない。先述した通り物理的な重さも無視できないが、それ以上に心理的に足が進まないのだ。
1日1善は達成できなかった。もう帰るだけだ。この帰り道で何か善行を行えるとは思えないし、帰宅してしまえばそのまま寝るしかないだろう。
別に。とも思う。別に1日1善をしてもしなくてもどちらでもいいのだ。俺の行う善行などたかがしれている。達成出来ても出来なくてもそれほど変わらない。俺は誰かを幸せに出来るわけではない。
分かっていても、後悔は拭いきれない。この気分のまま帰宅し、寝ようとしても気持ちよく寝られるとは思えない。
今日という1日に納得できなくても、どうせ明日には新しい1日がはじまるのだけど。
それでも、目標を達成できなかったら悔しいし、悲しいし、落ち込む。仕方ない。それが目標というものだ。
明かりがぽつぽつと灯る地方都市の歩道を進む。3分も歩くと町の喧騒は遠ざかり、飲食店もまばらにしか存在しなくなる。こんな日は飲み屋に寄って一杯引っ掛けていこうか、と思いつつ、落ち込んだまま酒を飲んでも余計に気が沈むだけと思い直す。
あと少しで自宅のアパートに到着するというところで、人の声が聞こえてきた。
辺りを見回す。目の前の道路には俺以外に人はいない。歩みを進めると、少しずつ声が鮮明になっていく。
どうやら二人の人間が言い争っているらしい。
一人は男の声、もう一人は女性の声に聞こえる。どこから声が聞こえてくるのだろうか。耳をそばたてながらゆっくりと歩いていく。そこの曲がったところから声が聞こえてきているらしい。俺は本来の帰宅ルートから外れて道を曲がる。
曲がったところに、二人の人間がいた。
やはり二人の男女が言い争っている。女性は20~30代。茶髪に染めた長い髪をストレートに伸ばし、派手な色合いのスカートを履いている。一方男の方は上下共に黒を基調とした地味な服装でフードを被っているため髪形や表情は不明瞭だ。
しばらく様子見しようと思ったが、10メートル程度まで近付くと、両者の声音が想像よりずっと厳しいことに驚く。
「いい加減にしてよ。あなたとは別れたって言ってるでしょ」
「どうしてだ。金がなくなったら見捨てるのかよ」
男女のいざこざと言えば色恋沙汰であり、この二人の言い争いもその類のものらしかった。
俺はうんざりした。ただでさえ落ち込んでいるのに知らない男女の争いなど興味がないし聞いていても不快なだけだ。仲裁に入れば1善扱いになるのでは。と期待を抱いたが、男女のアレコレに知らない人間が首を突っ込むのは僭越だろう。
勝手にしてくれと踵を返そうとしたところで。
男がズボンのポケットからナイフを取り出した。
闇夜に銀色の刃がギラリと光る。
文句を言い続けていた女が口を閉じる。男もナイフを構えたまま何も話さない。俺は喉を鳴らして唾を飲み込む。
三人が黙り込む。男が少し前屈みの姿勢を保ちながら少しずつ女へと近付いていく。
助けなければ。と思った。
1日1善など関係ない。助けなければ、目の前の男が、女を刺すだろう。人として、助けなければならない。
幸い二人とも俺の存在には気付いていないようだ。俺は気付かれないようにバッグのファスナーを開く。
携帯電話で通報するんだ。警察がここに駆けつけるまで数分かかるだろうが、とにかく通報して大声で「警察がここに来るぞ」とでも脅せば、男も驚いて逃げるはずだ。
右手でバッグを持ち、左手を傘から離してバッグをまさぐる。傘が地面へ倒れる音。バッグをまさぐる俺。
そして思い出した。
携帯電話は会社に忘れてきたのだ。
通報は出来ない。なら、どうする。
大声を出す。それしかない。やめろと大声を出せば。思わぬ第三者の介入に男は驚き、逃げていくだろう。
…本当に?ナイフを持ち女に迫るような輩が、俺のような中年に大声を出されたくらいで逃げてくれるか?逆上するのではないか?女を刺した後、俺まで刺されるのではないか?
ならば逃げるか。全てを無視して元来た道を引き返すか。
どうする。どうする。数メートル先に女の背中が見え、男はもう女の目の前まで迫っている。黒光りするナイフを持ちながら。
動かないと。声を出さないと。そう思いながらも、足は振るえ、喉は枯れて、俺は何も出来ない。
そのとき、バッグの中に突っ込んだ手に冷たい感触が走った。
エナジードリンクだ。バッグの中で汗をかいたエナジードリンク。
俺はそれをバッグから取り出し、ブルトップに指をかけ缶を開けた。プシュっと炭酸の音が弾けそのまま一息に飲み干す。
液体が喉を駆け抜けそのねっとりした甘みと強炭酸の刺激が全身に満ちると、自然と目がかっと開き、背筋が伸び、眠気と共に恐怖心は霧散した。
空き缶とバッグを夜道へ投げ捨て、脇に挟んだ月刊誌をある場所にしまい、右手で傘を拾って、取っ組み合いを始めた男女に向かって思い切り声を吐き出した。
「やめろ」
男女はそこで俺の存在に初めて気付いたらしく、二人同時に振り向いた。男が眉間に皺を寄せて俺を睨む。
「誰だよおっさん」
「ナイフを置け。警察を呼んだからな」
嘘だった。しかし男の手から力が抜けたらしく、女がぱっと男から離れ、こちらに駆け寄ってきた。
「助けてください。私、襲われていて」
上目遣いで俺を見る女を無視して、俺は一歩足を踏み出し、男に近付く。
「聞こえなかったか。ナイフを置け」
「警察がなんだよ。俺は警察なんか怖くねえよ」
男の顔にははっきりと狼狽が浮かんでいたが、男自身がそれを打ち消すように右手で顔を拭うと、ナイフをこちらに突き出した。
「どけよおっさん。俺はその女にむかついてるんだよ」
俺は男の全身を改めて観察する。中肉中背。筋肉質なタイプではなく、どちらかといえば痩せているように見える。アルコールを飲んでいるのか、顔が少し赤い。ナイフを持つ手が若干震えているのは、アルコールのせいか、あるいは恐れのせいかもしれなかった。
警察を呼ばれたという恐れか、あるいは人に刃物を向けているための恐れか。いずれにしても、喧嘩なれしているタイプには見えなかった。
「冷静になれ。何があったのか知らないが、頭を冷やして出直しなさい」
極力穏やかに言ったつもりだったが、説教口調になったのは我ながら配慮に欠けていたかもしれない。
「俺に説教するんじゃねえよ」
男はそう叫んだかと思うと、こちらへ突っ込んできた。
馬鹿め、と思う。傘があってよかった。素手ならともかく、得物を持つ俺が素人に負けるわけがない。
剣道有段者の俺にとって、男の動きはスローモーションにしか見えなかった。
傘でナイフを持つ手を払えば終わりだ。傘を握る手に力を込める。
と、体が固まる。腕が動かない。ならばと横へ飛びのいて男の突きを回避しようとするが、足も固まって動かない。
どうしてだ、と問いかけると同時に答えを悟る。情けない話だが、俺は恐怖に体が固まってしまったのだ。竹刀を持つ相手ならこうはならない。あるいは試合でならどんな屈強な相手にも怯まない。しかし目の前の男はナイフを持っている。刺されば本当に怪我をする。下手をすれば死んでしまうかもしれないのだ。
心のそこで、臆病風が吹いていた。俺はそれに自分自身で気付いていなかったのだ。今まさに目の前で俺を刺そうとする男の動きはやはりスローモーションにしか見えず、本来なら迎撃も回避も造作ないはずなのに、死の恐怖に俺は緊張し、咄嗟に体が固まり、瞬間凍り付いたように動けなくなる。
エナジードリンクでは足りなかった。心の底にある恐れに打ち勝ったわけではなかったのだ。
男の突き出したナイフが、俺の腹部へと到達する。銀色の刃が突き刺さり、俺の腹部へと刃が吸い込まれていく。
「あ…あ…」
刺した後、男は両手をナイフから離し、震えながら後退する。人を刺してしまった事実に自ら驚いているのか、全身を震わせている。
俺の腹部にはナイフが突き刺さっている。男が手を離した後も、それは突き刺さったままだ。まるで俺の腹からナイフが生えてきたみたいで、少しおかしい気分になる。
思わず笑みがこぼれたところで、やっと体の緊張が解けた。
俺は傘を音も無く振り上げると、震える男の左肩へ電光石火の如く振り下ろした。がっと鈍い音と重い感触。男は悲鳴を上げて左肩を押さえたが、そこで男の胸部を傘の先端で突いた。
男は後ろへ思い切り倒れ、頭を打った。しばらくして弱弱しく起き上がると、肩で息をしながら頭と胸を抑える。
その男の眼前に俺は傘を突き出した。
「まだやるか?」
男は起き上がりかけてまた転ぶと、もうたくさんだ、と言い残して後ろを向き走り去っていった。
その背中が夜の闇へ消えるのを確認して、俺はほっと息をつく。
横を見ると、膝を地面についたまま女がこちらを呆然と見ている。
「君か男かどちらが悪いのかは知らないが、気をつけなくてはいけませんよ」
俺が声をかけても、女はポカンと口をあけたまま目を丸くしてこちらを見ていた。何をそんなに驚いているのか疑問に思っていると。
「それ、お腹、刺さって」
女は俺の腹部を指差した。
俺の腹部にはナイフが刺さりっぱなしになっていた。これはまぬけだな。と俺は羞恥心を覚え、右手でナイフの柄を持って腹部からそれを抜いた。
そして、シャツの中へ手を入れると、そこから本を取り出した。
漫画雑誌、月刊少年カンカン。電車で少年に渡しそびれた本だ。ぱらぱらページをめくると、丁度真ん中に切れ込みが入っていた。ナイフが刺さった跡だ。男へ声をかける前に腹へ仕込んで置いてよかった。もしこの本がなければ、今頃腹が裂かれ、取り返しのつかないことになっていただろう。
女はそれで合点がいったらしく、笑みを浮かべて立ち上がった。
「ありがとうございます。あなたは命の恩人です」
それはどうも、と返答しながら、俺は気付いた。
暴漢から女を守る。これは間違いなく善行だ。
つまり、1日1善を達成したのだ。あれだけ出来なかった善行を成し遂げられた。
後輩にドリンクを奢ろうとしても、青年に傘を渡そうとしても、少年に漫画を与えようとしても、どうしても達成できなかった1日1善を、今やっと、達成できた。
俺は深い感慨に浸りながら、達成感に身を委ねた。
「今日のことは一生忘れません。本当にありがとうございます」
女が深々と頭を下げる。
「いえ、こちらこそ、今日という日は決して忘れないでしょう」
これだけ苦労して1日1善を達成した日も他にないから。
俺が女に笑いかけると、彼女も釣られて笑い
「ええ、本当に今日の1日は忘れられません。あっでも、もう「今日」は終わってますけど」
もうこんな時間ですよ、と女は腕時計をこちらに向けた。
その時間を見て、俺は固まった。
時刻は0時30分。既に昨日は過ぎ去っており、俺は昨日の分の1日1善を達成できなかったのだった。
…仕方あるまい。なら今日は1日2善でも目指そうか。