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漫画

 駅に着いて地下鉄に乗る。夜も深まり車内の乗客はまばらである。出勤時はいつも満員電車に揺られる身からするとこれだけ空いているだけで僥倖を感じてしまう。座席に座り背を預けながら今日という日に思いを馳せる。忙しい午前。クレーム対応に追われた休憩明け。仕事が終わると同僚達と飲み会へ。

 しかし俺は今だに、1日1善を達成していない。

 このまま何の善行も行わぬまま1日を終えるのだろうか。後悔を抱えながら床に就くのだろうか。そんな俺の懊悩も関係なく、地下鉄は機械的な音を立て、颯爽と線路を駆けてゆく。

 電車を降りたら自宅まで徒歩数分。もう人と関わるのはこの車内が最後のチャンスとなる可能性が高い。ならば見つけなければ。俺の助けを必要とする人。俺に善行をさせてくれる人。

 辺りを見回す。車内はすいているため誰もが座席に腰を下ろしている。腕を組んで目を閉じる中年男性。携帯端末を高速で弄る若い女性。文庫本を読む人、ワイヤレスイヤホンで音楽を効いている人。様々だ。

 俺は目の前に座る小柄な少年が気になった。10代前半程度だろうか。おかっぱ頭で眼鏡をかけ、青色のバッグを膝の上に置いている。熟帰りといったところか。もう11時を過ぎているのに結構なことだ。若いときの努力は何物にも変えがたい。

 俺が気になったのは、少年の視線だ。彼はスマホや本を弄るでもなく、かといって眠るでもなく、目線を斜め上にそそいでいる。彼の目線の斜め上。目線を辿っていくと、真向かいに座る俺の真上にたどり着く。俺の頭の上に何かあるのか。面白い広告でも貼ってあるのか。

 座ったまま見上げると、荷台に雑誌が載っていた。

 座った時には気付かなかったが、その雑誌はどうやら俺が車両に乗る前から置いてあったらしい。俺の両隣には誰もいないから、おそらく俺の席に座っていた誰かが荷台に雑誌を置いたまま忘れて出て行ってしまったのだろう。あるいは、もう読む必要がないと考えて荷台へ置きっぱなしにしたのかもしれない。後者の方がありえそうだ。もし必要な雑誌なら、荷台など使わず、バッグに入れるか、膝の上にでも置いておけばいいのだから。

 真向かいに座る少年は、その雑誌を見ているらしい。俺の座席の真上にある雑誌。

 それを見上げたまま目を凝らす。ここから見えるのは雑誌の裏表紙でそこには携帯ゲームの宣伝が載っているようだった。

 俺は立ち上がって、荷台に置かれた雑誌を手に取る。置き忘れたとはいえ他人の物を手に取るのは気が引けたが、どうしても気になった。

 6センチほどの厚みがあり、手に取ると、若干の湿り気とずっしりした重みを感じる。表紙には月刊少年カンカンの文字。漫画の月刊誌だ。学生の時は俺も購読していた。今だ少年少女に絶大な人気を誇る月刊誌、月刊少年カンカン。成る程、おかっぱの少年はこれが気になっていたのか。少年の位置からは雑誌の背表紙が見えていたはずだ。

 しかも今日は11日。久方ぶりに思い出した。毎月11日は月刊少年カンカンの発売日である。

 つまり少年は、偶然座った座席の真向かいの席の荷台に月刊少年カンカンが置かれていることに気付き、それが気になって見つめていたのである。そして今日がその月刊誌の発売日であり、また少年の情熱的な視線を考えると、おそらく少年は熱心な読者であり、そしてまだ今月号は読めていないのだろう。

 いつも立ち読みで済ましているのか、あるいは忙しくて発売日に買えなかったのかは不明だが。とにかく、少年はこの月刊誌を求めているに違いない。

 俺はあらためて本をまじまじと見る。もう漫画を読まなくなって久しいから、表紙を見てもピンと来るものはなかったが、魅力的なキャラクター達のイキイキとしたイラストを見ると、それだけで心が高まるようだ。そう、昔の俺も、発売日が待ち遠しかった。

 これを少年に渡せば、それは善行と言えないだろうか。

 この本は俺の所有物ではない。だから俺が少年にこの本を手渡すのは不当ではある。しかし、車内を見回しても明らかにこの本の所有者はこの場におらず、また月刊誌を車内に置き忘れたからといって、取りに来ることもないだろう。また先述の通り、もう不要と考えてわざと車内に置いたまま出て行った可能性も高いのだ。

 この本を少年に渡す。それは厳密にはいけない行為かもしれないが、絶対にしてはいけないような行為とも思えなかった。

 ではこれを善行と考えてもいいだろうか。例えばこの本が俺のものだったら、それを少年に渡すことは善行といえるだろう。

 しかしこの本は俺の所有物ではない。俺の物を渡すわけではないのだから。つまり少年と本の間に、俺という存在は必要ないのではないか。俺がこの本を少年に手渡しても、それは少年が一人で本を拾う行為と何ら遜色がないのではないか。少年と本の間に、「俺」の存在が必要ないならば・・・それは俺の善行とは呼べないのではないか?

 俺は雑誌を手にとって振り返り、少年の方を見る。どうする。この本を手渡すべきかどうか。そこに意味はあるのかどうか。

 そこで気付いた。少年は背が低いのだ。

 仮に、少年がこの本を取ろうとしても、荷台に手が届かないだろう。

 ならば、俺という存在に意味が生まれる。

 背が低くて欲しい物を手に取れない少年に、それをとってあげるという行為。

 これなら、善行といえるのではないか。元が俺の所有物でないだけに、少々傲慢な気はするが。

 しかし1日1善とはこれくらいの善行で充分なのだ。ちょっとした良いことをする。それが大切なのだから。

 決心して、俺は歩みを進めた。揺れる車内をしっかりと歩き、本を持ったまま少年の目の前へと進む。

「きみ、よかったらこの本を貰ってくれないか」

 少年は座ったままこちらを上目遣いで見つめきょとんとしている。

「この本は私のではないが、おそらく誰かが忘れていったものだろう。きみが貰ってもかまわないよ」

 俺は精一杯の愛想笑いを浮かべるが、少年は強張った表情のまま疑うようにこちらを見ている。初対面のおじさんに話しかけられ、怖がっているのかもしれない。しかしここは俺の1日1善のために貰っていただかなくてはならない。

「この本、月刊少年カンカンだろう。おじさんも君ぐらいの年齢の時にはよく読んでいたよ。面白いよね」

 そこで少年の顔に生気が蘇る。

「僕、カンカン好きなんだ。今日発売日なんだけど、塾で買いにいけなくて」

 俺は同情するように頷く。

「それは辛かっただろう。しかしこれで読めるね」

「でもこれ、おじさんのではないんでしょう。いいのかな、勝手に貰って」

「確かに誰かが置き忘れた本を貰うのは悪いことかもしれない。

 しかしたまにはいいんじゃないかな。君は今まで塾を頑張っていたんだろう。そのご褒美と思って」

 少年は尚も逡巡していたが、やがて誘惑に負けて本を手に取った。

「ありがとうおじさん。来月はちゃんと買うよ」

 少年は言い訳しながらも、待ちきれないようで手に取った本を早速読み始める。

 勝った。俺は少年に善行を施した。1日1善を達成したのだ。

 そう確信して勝利の余韻に浸っていると、目の前の少年の顔がみるみる内に曇っていく。

 やがて少年は雑誌を閉じてしまった。どうしたんだ。漫画が面白くなかったのか。

 立ったまま見下ろす俺に対し、少年は閉じた本を俺へ返しながら言った。

「おじさん、この漫画…雨で濡れて中が読めない」



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