エナジードリンク
1日1善を心がけるようになったのはいつからだろうか。
小学生の時か中学生の時か、はたまた社会人になってからか。
特定は出来ないが、とにかく俺はいつ頃からか、1日1善を心がけるようになっていた。
心がける、といっても必ず達成しているわけではない。1日が終わり床につく時に「そういえば今日は1善もしてないな」と思い出す場合も多々ある。そんな時は0時を回るまでになんとか善を成し遂げようとするが上手く行かないことも多い。俺は不快になる…いや不快は言い過ぎか、なんというか、据わりが悪くなる。
だから会社の飲み会が終わって地下鉄の改札を通る直前に、本日の1日1善を達成していないことに気付いた時は不覚を取った気持ちがしたし、咄嗟に思いついて会社へ戻る途中で、事務所の照明がまだ消えていないのを確認した時は安堵した。
まだ会社に残って仕事をしている奴がいる。ならばその残業を手伝えば1日1善達成だ。
浮き立つ心を抑えながら俺は事務所の扉を開いた。
思った通り、事務所の中には一人の男性社員、後輩の佐々木がパソコンと向き合ってデスクワークに励んでいた。
「佐々木くん、こんな時間まで偉いじゃないか」
声をかけると、佐々木はそこではじめて気付いたように椅子に座ったままこちらを振り向いた。
「田名部さん、今日は飲み会のはずでは」
佐々木は怪訝そうに目を細めた。佐々木は快活で評判のいい若手社員だが、残業の疲れからか今は声に張りがなく、こちらを見ながらも何度か目を擦っている。
「飲み会は今終わったところなんだ。
それより佐々木くん、駄目じゃないかこんな時間まで一人で頑張って」
「すいません」
「いや謝ることはないが。時間がかかるなら先輩や上司に手伝ってもらっていいんだよ。ここのところ残業続きじゃないか」
佐々木は最近残業が続いている。彼は仕事が遅いわけではなく、また特別仕事を多く任されているわけでもないのだが、勉強熱心な性格なのか、本来の自分の業務以外のことにも首を突っ込みたがり、その過程で他の社員の手伝いをしてしまうことが多々あるらしく、結果的に仕事量が増えてしまっているようだ。勉強熱心なのは佐々木自身にとっても会社にとっても良い事ではあるし、この会社は残業に厳しいタイプの会社でもないから誰も口を出さないが、今の疲れた佐々木の様子を見ると、彼だけ残して飲み会に出た自分が恥ずかしくなってくる。
「さあ、さっそく手伝おう。なにが残っているのかな?」
俺は嬉々として佐々木の肩を叩いた。これで1日1善達成だ。
だが上機嫌の俺とは反対に、佐々木は困ったように苦笑する。
「田名部さん、せっかく来てくれたところ悪いんですが、実は」
佐々木は自分のパソコンの画面を指差す。
そこには佐々木の今日の業務報告画面が映っていた。
「すいません、今丁度帰るところで、この日報書いて終わりなんです」
どうやら私は来るのが少々遅かったらしい。佐々木はもう残業を終えてしまったようだ。
これでは1善にならない。俺は内心舌打ちしながらも。
奥の手を出すことにした。
「いや、こちらこそ手伝えなくて申し訳ない。その侘びというわけではないが」
俺はバッグからエナジードリンクを取り出した。
「実は会社に戻る前に、飲み物を買ってきたんだよ。また佐々木くんが残業しているだろうから元気になってもらおうと思ってね。なにしろ、会社の自販機には君の苦手なコーヒーしか置いてないからな。受け取りなさい」
本来は残業を手伝いつつ、疲れ果てた佐々木に「もうちょっと頑張れ」とでも言ってこのドリンクを渡すつもりだったのだが。仕方ない。既に残業は終わっていても、疲れた体にエナジードリンクは効くだろうし、差し入れは立派な1善に違いない。
用意周到とはこのことだ。今度こそ1日1善達成だ。
と思ったのだが。
佐々木は困ったように腕を組んでしまい、エナジードリンクを受け取ってくれない。
「どうした。遠慮しなくていいんだよ。それに今飲まなくたって、またいつか疲れた時に飲めばいい。賞味期限も短くないし」
俺は佐々木にエナジードリンクを差し出したがそれでも彼は受け取ろうとしない。
首を傾げると、佐々木が心底申し訳なさそうに言った。
「田名部さん、僕、コーヒーが苦手なんじゃなくて。
カフェイン自体が駄目で」
俺は呆気にとられながら、エナジードリンクに顔を近づけそのラベルを見た。
100mlあたりカフェイン30mgと書いてあった。