アル⑤
穏やかな寝息が、静かな朝の空気に溶けていた。
アルは軽く息を吐き、リューネの頬にかかる髪を指ですくい上げ、そっと耳にかける。
窓からの陽光がリューネの肌を照らし、微細な輝きをまとわせる。
――城に返さなければ。
「おい、起きろ」
促すように言葉を投げるが、リューネは微動だにしない。
ゆっくりと胸が上下し、まだ夢の中を漂っているようだった。
アルはふと口角を上げ、軽くデコピンを食らわす。
「ぴゃっ!」
勢いよく飛び起きたリューネの声が室内に響いた。効果は抜群だ。
困惑したように額を押さえ、瞬きを繰り返す姿に、アルは思わず笑いを零す。
「くくっ。おはよう、王子サマ」
驚いたままのリューネは、顔を赤く染めてプルプルと震えている。
――初心な反応が、なんとも可愛らしい。
「くくくっ、もう何もしねぇよ。昨夜は先に寝ちまって悪かったな」
リューネは首を振り、しゅんと項垂れる。
「ううん、アルさんが僕を助けてくれたから、疲れていたんでしょう?それなのに、ご飯まで作ってくれて……僕、何もできなくて、ごめんなさい」
伏せた瞳と小さく震えた声に、胸の奥がわずかに温まるのを感じた。
リューネがポスンと腕の中へ戻ってくるのを感じる。
まるで頼るように擦り寄ってくるその様子に、ふっと息をつく。
名残り惜しむように、背中をそっと撫でる。
「城へ帰らなくちゃな。皆、心配してるだろ」
リューネはきゅっと服の端を握りしめ、微かに震えた声で「帰りたくないな」と呟く。
理性がぶっ飛びそうになる言葉は聞かない事にした。これはヤバイ。
「お前、今自分がどんな格好か分かってる?」
アルは腕を組み、微妙に顔をしかめる。
「そのまま城へ返したら、俺、城の兵士に捕縛されるんじゃねぇの?」
おどけたように言いながら、ベッドから起き上がりソファへ歩く。
しかし、リューネの「帰りたくない」という呟きが、思った以上に心を揺らした。
たった一言だったのに、なぜこんなに動揺している?
理性が仕事をしているうちに、リューネを返さねぇとマジヤバイ。
「脱ぎっぱなしじゃねーかよ、おら」
後についてきたリューネに服を手渡すと、その指先がほんの少しためらうように震えた。
ぐずぐずと着替え始めるリューネの頭を、軽くポンポンと撫でる。
「用意できたか?」
アルはわざと普段通りの調子で言葉を放つ。
「城の兵士がいる辺りに転移すりゃ、後はどうにかなんだろ」
そう言いながらも、心のどこかで妙な引っかかりを覚えていた。
そのとき、リューネがふっと息をのみ、視線を外した。
「その前に……アルさん、僕のお願い、聞いてくれませんか?」
アルはじっとその横顔を見つめる。
「なに」
リューネは微かに俯きながら、ためらいがちに口を開いた。
「……ぎゅって抱きしめて、キスしてほしいです」
静かな声だった。
けれど、それは真っ直ぐで、迷いのない願いだった。
「……お前なぁ……」
アルは困惑とも呆れともつかぬ溜息をひとつ零す。今まで何度も翻弄されてきた。
リューネの肩にそっと手を伸ばし、しっかりと両腕で包み込む。
その瞬間、リューネの体がふっと力を抜いた。
抱きしめられることを待ち望んでいたかのように――。
アルは言葉もなく、ただその温もりを感じながら転移魔法を唱えた。
次の瞬間には、城門から少し離れた場所へと移動していた。
ここならばすぐに兵士が駆けつけ、リューネを見つけるはずだ。
アルは魔法を唱え、自分のみを不可視にしながら、そっとリューネの顎に指を添えた。
見上げるリューネの瞳には、うっすらと涙が滲んでいる。
(……泣きそうな顔してんじゃねーよ……)
アルはそれ以上、何も言わなかった。
ただその表情を焼き付けるように見つめ――そっと唇にキスを落とす。
そしてその場から姿を消した。